学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、バリ活にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

公明党の原点は軍部政府へのアンチテーゼ:『人間革命』を読み比べる

人間革命の新旧版を読み比べる本企画。
今回は、「終戦前後」の章を取り上げたいと思います。

今年も終戦記念日がやってこようとしています。
改めて『人間革命』を読めば読むほど、太平洋戦争の記憶が池田名誉会長と今日の創価学会の思想に不可欠なのもであると感じさせられます。

 

(本記事は『人間革命』新旧版を読み比べる企画の一部です。連載の目次一覧は、下記URLまでお願いいたします)

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「終戦前後」の章あらすじ

時代は敗戦直前の日本。広島、長崎への原爆投下、さらにソ連参戦を受けた日本は、いよいよ八方塞がりとなり、無条件降伏の道を選ぶ。戸田城聖は、日本の指導者の無能を憎みながらも、日蓮仏法の流布に闘志を燃やす。通信教授の新事業を開始した彼だったが、それは活況を呈する。

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作者の観察者化

太平洋戦争時の米ソの指導者についての記述です。比べてみましょう。

【第1版】

一国の暴君も、世界の暴君も、所詮、普通の人間の範疇を出ていないものだ。一体、彼等は、世界を、誰人のものだというのであろうか。(83頁)

【第2版】

今にして思えば、既に米ソの対立は、この時から兆し始めていた。彼らは、戦後の世界に君臨することを考えていたのであろうか。それは、言うまでもなく、大国の横暴というものである。人間は、権力の絶頂に登ると、皆、暴君的な一面を持つのと同じように、大国になればなるほど、いよいよ暴君的な色彩を増す。(104頁)

《考察》
読み比べればわかる通り、明らかに当時の指導者に対する疑義・怒りがトーンダウンしています。
第1版では、「暴君も所詮人間にすぎない」「世界を誰のものだと思っているのだ」という極めて感情的な怒気のこもった記載がされている。
それが第2版では、「大国の横暴である」「暴君的な色彩を増す」という、第三者的、観察者的なものに穏健化されています。
これまでの読み比べでも、第2班の特徴は、「客観的歴史叙述」の色彩を増すことであることがわかってきました。本箇所のトーンの穏健化も、その一環かと思われます。

また『人間革命』では何度も戦時中の日本の指導者を弾劾する記述が出てきますが、池田名誉会長は日本だけでなく、米ソの指導者に対しても否定的であったことがわかります。

「福運」説の削除

【第1版】

国の命運が尽きた時は、大政治家も、名将も、ともに福運がなくなり、懸命な知恵も革新も喪失して、先手を打てなくなってしまうものだ。否、それらの指導者階層の福運が尽きたがゆえに、国の福運が消えたとも言える。この方程式は、いかなる国でも、家でも、同じことである。(84頁)

《考察》
これは、第2版では削除されている記述です。
以下、2つの命題が述べられています。
●国の命運が尽きる→指導者の福運がなくなる→有効な対策ができなくなる
●指導者の福運が尽きる→国の福運が消える

「命運」を「福運」と同じものとみなした上で、この2つを総合すると、
「国の福運が尽きる→指導者の福運が尽きる→国の福運が尽きる・・・」というスパイラルを描いているようです。

私には着目すべき点は、以下の2点であるように思われます。
まず、国の指導者の失政が「国の福運の欠如」に帰せられるというものです。『人間革命』では、戦時中の日本の指導者を「愚かな指導者」として糾弾する記述が見られます。しかし、この記述を勘案すると、「愚かな失政」をしてしまうのは単に指導者が無能であるからではない。たとえ名将であったとしても、「国の福運」がなくなれば「賢明な知恵も革新も喪失」してしまうというのです。
そして、その「国の福運」を決定する要素の1つとして挙げられているのが、「指導者の福運」です戸田城聖が、時の石橋湛山首相を日蓮宗であることを理由に、非難していたことを聞いたことがあります(確か岸信介との絡みで、『人間革命』にも出てきていた気がします)。

これらを総合すると、「国の指導者がどんな宗教に帰依しているかは、その指導者の福運を決定する。そして、その指導者の福運は、国の福運、そしてその国の国家運営に重大な影響を与える」という立正安国的な思想になるかと思われます。

この箇所が削除されている理由は、このような思想を学会が捨てたからではなく、あまりにエッジが効きすぎているからだと思います。また、「創価学会員を総理大臣に」という主張に見られかねません(当時の学会も、今日の学会も、果たして公明党のゴールをどこに定めているのかは私には判断がつきかねていますが)。

かなり丸くなっているにせよ、このような発想は、今日の学会でも生きています。
学会員が保守政治家の靖国参拝を非難するときに、上述のロジックに基づいた主張はよく聞きます。また、学会員の公明党支援も、それが全てはありませんが、「正しい宗教を信じる福運ある政治家を政界に」という思いに基づいています。

思うに、『人間革命』第1版執筆当時の昭和40年頃は、言論出版妨害事件以前です。つまり、学会と公明党が猛批判を受けて「丸くなる」前なのです。ですから、この時代の学会の書籍を読むことは、創価学会公明党の目指すものを非常に先鋭化された形で学ぶことにつながります。

「民間外交」の役割強調の穏健化

続いて、当時の和平工作に絡めながら、「民間外交」について言及されている箇所を読み比べます。

【第1版】今度の大戦では、日露戦争の時と異なり、我が国の和平工作が悉く失敗していったことは、当然なことであった。すべて、政界、軍部の上層部の工作のみであって、民間人の和平工作は皆無の状態であったからだ。

国民の中からの、国民の立場に立っての和平工作の運びは、全く影を潜めてしまった。それほど軍部政府の強圧は、言語を絶していたのである。

いつの時代でも、上層部の外交の大切なことは言うまでもない。しかし、それよりも、はるかに重大な外交は、民間と民間との交流であり、結合である。この自然に成立する外交こそ、強靭な鎖であり、価値があり、かつ永遠に続くことを、指導者たちは常に忘れてはならないのである。(84頁〜85頁)

【第2版】

今度の大戦では、わが国の和平工作が、ことごとく失敗を重ねていったのも、当然なことであった。

むろん、いつの時代でも、最高指導部による外交が大切なことは、言うまでもない。しかし、一切の基盤となるのは、民間人と民間人との交流であり、人間と人間の信頼の絆である。いわば鉄の鎖のように強い、心の結びつきである。この民衆次元の幾重もの交流こそが、平和の大河となるのである。

戦時には、外交交渉の当事者が戦争の渦中にある。和平工作の糸口を見出すためにも、民間の自然な結びつきが大事になる。だが、独裁的な軍部政府の圧力は、それさえも封じ込めてしまっていたのである。(106頁)

《考察》
「民間外交」に関する記述が明らかに変わっています。
まず第1版では、民間外交が「上層部の外交よりはるかに重大」とされ、国家間の外交よりも圧倒的に優位なものとされています。さらに、それが「永遠に続くもの」としてその永続性が強調されており、短期的な利害関係や情勢の変化に左右される国家間外交と対置されている。

それが第2版では、民間外交が「一切の基盤」「平和の大河」と述べられている。これは、第1版において国家間外交と民間外交を比較して後者の絶対的優位が述べられていたのとは、大きく異なっている。つまり、民間外交と国家間外交の明確な比較をすることを避け、民間外交の「絶対的優位性」ではなく「重要性」を説くものに変わっています。

「民間外交の方がよっぽど大事」という主張は、かなりエッジが効いており、「何で創価学会が外交の場に出てくるんだ」という批判を浴びそうなので、穏当な記述に変わったものとみられます。しかし、第2版のものは、大学生の国際交流サークルのホームページにも載っているような物なので、あまり面白くない。
本連載後の池田名誉会長の中国・ソ連訪問などを考えるとき、私には非常に感慨深いものがあります。これは、当時(今日も?)の池田名誉会長の本音だったんだろうなと思います。さらに、池田名誉会長が中国などとの民間関係を重視したのは、戦前の軍部政府の圧迫に対するアンチテーゼだったこともわかります。
これについては、また池田名誉会長の外交の歴史を改めて学びなおしながら、考えたいと思います。

「大衆」という言葉の持つ意味

続いて、ポツダム宣言が提示されながらも、「黙殺」を選択した時の政権を非難した箇所です。この「黙殺」によって終戦が後ろ倒しになり、広島と長崎に原爆が投下されました。

【第1版】

時代こそ違っても、指導階層は、常に冷徹なる理性をもって、大衆の幸福と平和を招来する方向への分析を怠ってはならぬ。その決断に臨んでは、大感情を集中し、身命を賭して事に臨むべきである。所詮、大衆を根本とした思索であれば、衆議も速やかに決するはずであろう。(87頁)

【第2版】

いつの時代にあっても、指導者階層は、常に冷徹な理性をもって、民衆の幸福と、平和への方向性の分析を怠ってはなるまい。その決断に臨んでは、大感情を集中し、それぞれ命をかけて事に臨むべきだろう。民衆の利益を根本とした思索であれば、衆議も速やかに決しなければならないはずだ。(109頁)

《考察》
「大衆」ーこの言葉を聞いて、創価学会員が真っ先に思い浮かぶのは、公明党だと思います。
公明党は、「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」が立党の原点とされています。

この「大衆」という言葉が「民衆の利益」に変わっており、それに基づいた思索ならば「衆議が速やかに決するはず」という記載から「決しなければならない」に変わっています。

まず、「衆議」をめぐる記載の変更についてですが、私は意味は変わっていないと思います。つまり、どちらも「日本の民衆のことを根本に考えていれば、議論は速やかに決したはずだ」という道理を述べている。これは、「自分たちの都合や国体の維持ばかり考えて、モタモタして決断できなかった」政府を批判していると言えます。

問題は、「大衆」から「民衆の利益」への変更です。前述の通り、「大衆」という言葉が公明党と密接に結びついていることを考慮に入れる必要があります。
そのことを念頭に置いて、第1版の記述は、以下のように解釈できます。

「戦時中の愚かな指導者は、大衆を忘れて自分たちの地位や面子に固執し、ポツダム宣言を黙殺した。その結果、広島長崎に原爆が投下され、多くの無辜の大衆が死んだ。この戦時中の愚かな政府ではなく、大衆を根本にした公明党が必要なのである」

乱暴な解釈であることは承知していますが、創価学会の政界進出、そして公明党の結党は、戦争を推進したかつての日本政府へのアンチテーゼであったと、私は思っています。
つまり、「大衆」という言葉は、税金を集めて再配分しようというような社会民主主義的な思想に回収されるものではない。それは、「大衆」を忘れて戦争を推進したかつての日本の指導者たちへの怒りに基づいた、反戦」「反権力」思想であるということです。

この事を考える時、私は、今日の公明党に物足りなさを感じてしまいます。
公明党議員は、非常に課題解決能力が高い専門家集団になりました。「福祉の党」と呼ぶにふさわしい党ではあると思います。
しかし問題は「平和の党」の看板です。私は、2014年の平和安全法制の事を言っているのではありません(ちなみに私は様々な論点において、同法制に異論がありますが、基本的には「容認」の立場です)。
自民党の右傾化と野党の弱体化。国際環境・安全保障環境の変化。
これらを背景に、憲法9条改正に象徴されるように日本のあり方が問われています。そうした中で、公明党が「現実主義」以上の路線を示せていないことは、残念に思います。

過去の戦争の記憶にルーツを持つ党として、護憲を掲げるのもいい。ただし、その場合は憲法9条を持つことの積極的意義を思想的に構築して欲しいし、同時に現実的な外交の場でどのような役割を果たしていくのかという日本像も示して欲しい。
別に9条改憲を掲げてもいいと思います。しかしそれは、これまで日米安保自衛隊、そして改憲に関する見解を「なし崩し」的に変えてきたようにではなく、公明党なりの国家観、日本観に立って欲しいと思います。
今のままの現実路線の公明党では、北朝鮮のミサイルが日本に着弾したら、簡単に再軍備論者になりそうに見えてくるのです。「自民党の補完勢力」「短期的政策実現に注力する政党」と自らを位置付けるのならいいですが、『人間革命』を読んでいると、そのような公明党のあり方は、一学会員として寂しく思います。

・・・さて、かなり脱線してしまいましたが、上述の「大衆」記述が「民衆の利益」に変わっている理由について、私が思い浮かぶのは以下のものです。

●「大衆」という言葉があまりに公明党を連想させるため、「政治一般の事を語っているのだ」という普遍性を持たせる事を企図している

●第1版執筆当時は、公明党結党からまだ2〜3年。当時の創価学会は、「公明党を通じて、戦時中の日本とは異なる大衆のための政治をやるんだ!」というような気概に溢れていた(当時はまだ原島や辻など学会の幹部が公明党議員をやっていた)。しかし、社会からの「政教一致」批判が止まない昨今、公明党を連想させるタームは削除することにした

一人称的パースペクティブの消失

【第1版】

トルーマンは、原爆落下のその日、ラジオで演説した。
「(中略)もし彼等が、我々の条件を受理しないなら、彼等の頭上には崩壊の雨が降るであろう」
アメリカらしい言い草である。しかし原子爆弾があることを表明した、このラジオ放送を、日本の首脳部は聞いていたはずである。
この世のものともいえぬ、地獄界を現出した広島の惨状。戦争を呪う声は巷に満ちた。しかし政府は、単なる威嚇として、黙殺する他に智慧がなかったのだろうか。
戦争だけは、永久に、断じてあってはならぬ。(90頁〜91頁)

 

【第2版】

原爆投下のその日、トルーマンの声明が、ラジオで発表された。

「(中略)もし彼等が、我々の条件を受理しないなら、彼等の頭上には崩壊の雨が降るであろう」

原子爆弾があることを表明した、このラジオ放送を、日本の首脳部は、聞いていたはずである。だが政府は、単なる威嚇として、黙殺する他に知恵はなかった。(114頁〜115頁)

《考察》
「アメリカらしい言い草である」「戦争だけは、永久に、断じてあってはならぬ」といった作者(池田大作)が一人称的に感情を込めて語った文章が、削除されている。これは『人間革命』における歴史叙述を、第三者的なものにしようという試みの一環であると考えられる。同様に、以下の文章も削除されているが、同じ理由であろう。

悪夢の連続に終止符を絶対に打たねばならない。そして、平和な正夢の歴史を創ることに、世界の責任ある指導者達は、全魂をなげうつべきである。(94頁)

敗戦総罰論の維持

「総罰だ。日本一国の総罰だ。いよいよ末法の大白法の必要な時になったのだ。大聖人様の大仏法が、本当に光り輝く時が到来したんだ」(第1版:98頁、第2版:123頁)

《考察》
下記の文章は、敗戦を迎えての戸田城聖のセリフであるが、初版と第2版で変わっていない。
これは、「日本国の敗戦は国家神道という邪教を信じた事による」というものである。

この主張は、以下の2点に注目すべきであると考えられる。
①敗戦は国民全体に科がある罰であること
太平洋戦争における敗戦は、「総罰」という言葉の示す通り、国民全体の責任であると述べられている。これは今日からするとドラスティックであるが、敗戦後の思想状況から見れば決して奇異なものではない。例えば、丸山眞男なども、敗戦を国民一人一人が「近代的個人」でなかった事に求めている。

②誤った宗教を信じることが国を滅ぼすこと
ここでは、「敗戦」の原因が誤った宗教を信じたことにあり、「大聖人様の仏法」が必要になったと述べられている。これは、「誤った宗教は国を滅ぼす」という、「立正安国論」を彷彿とさせる記述である。この文章の指し示すところは、宗教は政治や国土の荒廃までを決定づける「下部構造」とも呼べるものであるということだろう。宗教は人間の思想や観念を作り上げるにとどまらず、物質的側面をも規定するという主張である。
「誤った宗教を信じる」という原因と、「敗戦を迎える」という結果を結ぶのは何であろうか。私には、以下の2つが思い浮かぶ。

(A)誤った宗教を信じた結果、誤った観念や思想を人間が構築する。その人間は、誤った観念や思想に基づいて行動するがゆえに、誤った行動をする。誤った行動の結果として、惨憺たる結果(=敗戦)が到来する。

(B)誤った宗教を信じた結果、神々は去り、国土を守る働きは無くなる。その結果、国は滅びる(=敗戦)。

(A)に関しては、ある程度合理的であり、一定の説得力を有するだろうと思われる。敗戦の一因になったとされる戦時中の過度な精神主義は、神話に基づく自国への過度な信頼と不可分ではないだろう。
しかし、(B)に関しては、特定の宗教体系の内部で説明されるものであり、かなり飛躍している。
しかし、『人間革命』では(B)が採用されており、これは第2版でも変わっていないようである。詳細は、以下記事で検討しているので、ご参照されたい。

長くなりましたので、「終戦前後」の章、次回に続きます。

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創価学会と憲法9条:戦後日本における議論から考える

共産党は護憲、護憲と言っているが、日本国憲法制定時に反対したのは、共産党じゃないか!」

共産党が「国民連合政府」構想を掲げた頃から、公明党はこのような批判を好んでするようになりました。

私はこれを初めて聞いた時、「流石にそんな批判はないだろう」と思いました。もしも私が共産党議員だったら、「お前らだって王仏冥合国立戒壇建立を掲げていただろう!」と言い返しますが、公明党はなんと反論するのでしょうか。

それにしても、創価学会公明党共産党は仲が悪いですね。その理由として、「ターゲット層が重なっているから」という紋切り型の答えがありますが、十分ではない気がします。私は共産党の事を別になんとも思っていないのですが、周囲の学会員の共産党アレルギーはすごい。これでもかというほど悪口が飛び出します。これについては、機会を改めて、じっくりと考えてみたいと思います。

さて、本日も「『人間革命』の時代を読む」と題して、戦後日本の思想史を考えていきます。今回のテーマは、「日本国憲法」。当時の日本共産党や保守派の政治家などを取り上げ、憲法制定時の日本における議論を考察していきます。
さらに、創価学会憲法9条についても末尾において考えたいと思います。

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(本記事は、連載中の「『人間革命』の歴史を読む」の一部です。連載の目次一覧は、下記をご覧くださいませ。)

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憲法9条に「新しい日本像」を見出そう

未曾有の敗戦を迎えた日本。戦後の日本人が求めたのは、「ナショナリズムの廃棄」ではなく、「新しいナショナリズム」の探求でした。これまでの連載において、丸山眞男南原繁を見ながら、戦前の皇国思想に代わる新しいナショナリズムの探求を概観してきました。

そのような「新しいナショナリズム」探求の土壌の上に、憲法9条も登場しました。

政治、軍事、経済、全てが壊滅してしまった日本。そんな日本にとって新しいナショナルアイデンティティを構築するための鍵として、「文化」と「平和」が見出されました。
京都学派の高崎正顕は「文化戦争に勝て」と述べ、河上徹太郎も「我が国唯一のホープはぶ文化である」と述べている。

また、軍事的に壊滅した日本にとって、欧米に対抗する唯一の根拠は、平和主義に基づいた「道義」であったことも注目すべきです。戦後、アメリカの原子爆弾投下を道義的に非難する声が高まりを見せます。昭和天皇玉音放送でも、東久邇首相による記者会見でも、原爆投下が「人道無視」の行為であると批判されています。
しかし、そうした道義的な非難をする為には、自らが道義に適っている事が求められます。石原莞爾はこの理論に沿って、非武装中立を掲げて、米国の非道行為を非難しています。

これらの当時の日本人が抱えていた「心情」を見るとき、非武装と平和を掲げる憲法9条は、決して「押し付け」でなかったことがわかります。「道義」と「平和」は、プライドを完全にズタズタにされた日本人が、誇りを失わないための「最後の砦」だったのです。

保守派は憲法9条を大歓迎した

日本国憲法は押し付けだ!」「自主憲法を制定すべきだ!」

今日、保守派の政治家から盛んに聞かれる主張です。しかし日本国憲法案がGHQによって示された時、保守派の政治家たちは、一様にそれを歓迎しました。
その主な理由として、以下の3点が挙げられます。

第一に、憲法9条が日本の新しいナショナリズム構築の一環として認識されたことです。これは前節でも述べましたが、完敗を喫した日本人は、新しいナショナリズムの拠り所を求めていました。9条の非武装平和主義が「新しい日本のあり方」の規定として、肯定的に解釈されたのです。

第二に、憲法草案の制定が保守政治家たちにとって、非常に都合が良かったからです。保守化の政治家たちが恐れていた1番の事、それは天皇の処遇でした。天皇主権はさすがに認められないものの、「象徴天皇」として天皇制を維持する日本国憲法は、彼らにとって都合の良いものだったのです。当時の国際世論を見ると、「ヒロヒトを処刑せよ」という主張も多かったため、これは彼らにとって僥倖と言えましょう。
また、共産党の躍進に伴い、保守政権が自分たちの体制護持に危機感を覚えていたことも挙げられます。日本国憲法という思い切った改革案をした結果、自由党などの保守政党は1946年の選挙で躍進し、政権を獲得することができました。

そして最後に、憲法9条の受容は、決してドラスティックなものではなく、「既成事実の順応」であったことです。既に日本は連合国に占領されており、非武装化も相当程度進行済み。とても再軍備や他国との戦争など考えられる状況ではない。憲法9条による戦争放棄と非武装化は、そうした敗戦後の既存の状況を是認する穏当なものでもありました

日本国憲法に反対した日本共産党

しかし、日本国憲法に反対した勢力の急先鋒は、前述の通り日本共産党でした。
とはいえ彼らが反対したことは、そのイデオロギーを考えれば当たり前です。

まず、日本国憲法に規定された「基本的人権の尊重」は、日本共産党にとって「絵に描いた餅」でした。日本国民は貧困のどん底にあり、苦しみの中にいる。その元凶は資本主義経済であり、いくら憲法で美麗字句を並べ立てても現実変革にはなんの役にも立たない、というのです。

また9条に関しては、主に2つの理由から反対を唱えていました。
まず、「全ての戦争の放棄」への反対です。共産党は、資本主義とその究極系である帝国主義による「侵略戦争」には異を唱えました。しかし、人民のために行われる(彼らのイデオロギー成就のための)「解放戦争」は正義だとしたのです。
また、9条が説くような「消極的平和主義」を彼らは批判したのでした。日本共産党は、戦後の日本において、「外国」という外部の視点を持った希少な存在でした。彼らは日本を単なる敗戦国と認識するではなく、アジア諸国に対する「加害者」であるとし、その罪過の解消のためには積極的に国際貢献する必要があると考えたのです

南原繁の9条批判

前回の記事でも取り上げた、東大総長・貴族院議員であり「人間革命」の提唱者でもあった南原繁もまた、憲法9条を批判した1人でした。

それは、今日の日本でも議論となっている「国際貢献」の問題と大きく関わっていました。
南原は、「自国さえ平和なら良い」という平和主義ではなく、侵略戦争という罪過を償った上で、国際社会における平和の確立に積極的に貢献すべきだと主張したのです。
このような立場をとっている政党は、おそらく今日の日本にはないですね。積極平和主義を唱え、国際社会における日本の役割を強調する自民党と安倍首相も、それは「侵略戦争への反省」に基づいたものではない。また、「侵略戦争への反省」を強調する共産党社民党などの左派政党も、「9条護憲」が第一のテーゼであり、積極的な国際貢献を唱えておりません(民進党の議員などにはいるのかもしれません)。

南原のような議論は、とても重要だと思います。今日の日本では、「日本の文明史的役割」のような大きな枠組みでの議論がほとんど無い。目につくのは、日本大好きの自民党がするような愛郷的国家観くらいでしょうか。そのようなヒロイックな自国観に基づいて、国際社会への貢献を考えるのは、非常に危険であると思っています。それが一切の自省的契機を持たないため、正義を振りかざした暴走になりかねないからです。私は、「侵略戦争の果ての敗戦」という歴史を日本の財産と受け止め、日本の国際社会における役割を考えるべきだと思っています。

公明党に関しましては、そのような大きな国家観や文明史的な視点は、ほとんど持っていないと思います。彼らはミクロな世界での実務能力は非常に高いですが、長期的視点に立った日本観は持ち合わせていない。田原総一郎が「公明党は日本をどんな国にしたいのか見えてこない」と言っていましたが、その通りです。佐藤優などは「宗教政党として独自色を出すべき」と言っていますが、公明党にそれができるか・・・。
自民党の補完政党」くらいの立ち位置でいいならば、今のままでもいいのでしょう。しかし、今後政界再編が起きたり、公明党の党勢がしぼんだ時などに、「公明党の存在意義」という根本的なテーマが問われるのかもしれません。

「アメリカ主導」への批判

さて、今日の保守派政治家がする「押し付け憲法批判」も、当時から為されていました。
といってもそれは、米国が起草したという「出自」に関わるものではなく、それが日本人による十分な議論を経ずに安易に受容するという「受動性」を批判したものでした。

先述の南原の日本国憲法への批判の大きな理由も、それが米国によって主導され、日本人が創意と討議を経て「自分のもの」としていないことにありました。
さらに丸山眞男も、日本国憲法に対して、否定的だったといいます。日本人の「自立性」の欠如を指弾した彼ですから、当然といえば当然でしょう。竹内好も、その米国に与えられたという事実と安易な改正過程に冷淡な態度をとっていました。

しかし、当時の保守派政治家は、憲法を既成事実として受け入れました。このように後に改憲派に転ずる保守派政治家が憲法制定を推進し、南原などの護憲派に転ずる人々がそれに反対していた事は、注目すべき点です。
彼らの主張の評価は、また日本国憲法をめぐる議論の推移を見ながら、行っていきたいと思います。

創価学会日本国憲法

本記事では、戦後日本における憲法をめぐる議論を見てきました。
今日まで、日本国憲法をめぐる議論は止むことを知らず、早晩憲法審査会が本格始動しようとしています。

ところで私は、公明党を「9条改憲派」と位置付けています。これについては、また彼らの掲げる「加憲」についての考察とともに詳しく記事にしようと思っていますが、その理由の1つは、昨年成立した平和安全法制です。あんな明らかに違憲の法案を成立させておきながら、「9条護憲」を本気で唱えているとしたら、余程の法律素人だろうということになります。

公明党はかつて憲法9条については、議論の俎上にさえ上げないという立場をとっていましたが、それをタブー視しない「論憲」に変転し、さらに今日の「加憲」に至っています。彼らがなし崩し的に「改憲」に向かっているのは、その現実主義的な性格と整合的です。

とはいえ、憲法9条についてはっきりした態度をとれないのは、やはり創価学会の存在が大きい。詳しい調査はありませんが、学会員の9条改正アレルギーは強く、「公明党改憲勢力」と言っただけで怒り出す会員が大勢います。
これは、創価学会=平和主義」という自画像を公明党に投影しているからだと私は考えています。そしてその自画像は、牧口・戸田両会長の投獄、さらに牧口会長の獄死という戦時中の記憶と密接に結びついています。そして憲法9条は、その戦時中の記憶と不可分のため、戦争を知らない世代が大多数になった今日においても、9条護憲派の学会員は多いのです。
また、池田名誉会長が徹底した9条護憲派である事は、よく知られています。

私は、憲法9条と創価学会思想について、今後下記のアプローチをしたいと思います。

憲法9条と創価学会アイデンティティの関連の言語化
上述の通り、創価学会アイデンティティは、戦時中の軍部政府による弾圧が不可欠の構成要素となっています。この創価学会における「戦争の記憶」と憲法9条の関連性、さらに池田名誉会長によって戦後に主導された平和運動の影響を言語化することにより、学会の平和思想を客体化したいと考えています。

戸田城聖会長の憲法9条観
今回、9条をめぐる議論を概観して思ったのですが、私は戸田会長の憲法9条に対する見解を知りません。『人間革命』においても紙幅が大きく割かれているのは、信教の自由だったと思います。また、政界進出当時の創価学会が、憲法についてどんな見解を示していたのかわかりません。
現在、本企画と同時並行で、『人間革命』を読み進めておりますので、「戸田会長と憲法9条」という視点も加えて考察したいと思います。

●池田名誉会長の「9条護憲」思想の生成について
今日の創価学会では、池田名誉会長の「9条護憲」は既成事実化されており、それが学会の公式見解とみなされています。しかし、そのような固定化した見方ではなく、池田名誉会長を「生成する思想家」としてみる視点も必要でしょう。どのような思想遍歴を経て、池田名誉会長は「9条護憲」に至ったのか。これは資料収集などかなり大変そうですが、改憲が重要なテーマとなる日本において、創価学会が支援する公明党が与党に座を占めていることを考えるとき、非常に重要であると思います。というか、こういう仕事は、学会本部がやるべきだと思います。

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天皇制に学ぶ「忠誠」と「反逆」

先生は、天皇をどうお考えですか

『人間革命』の「地涌」の章において、山本伸一戸田城聖に投げかけた質問です。

この質問は、当時の時代思潮を表しています。
壊滅的な敗戦を迎えた日本に生きる人々は、いくつかの重要な思想課題に直面していました。
それは、戦争責任と主体性の問題です。そしてそれは天皇制」という一点において交差するものでした。なぜなら主体性の反対語である「権威」の象徴は、天皇であり、戦争責任の筆頭にあったのも天皇だったからです。

私は、創価学会の思想を考える上で天皇制の問題は非常に重要であると考えています。
それは第一に、「人間革命」という思想が戦中日本に対するアンチテーゼとして生まれたことです。そしてその戦中日本は、天皇制抜きでは語れない。後ほど詳述しますが、「人間革命」とは創価学会のオリジナルの造語ではない。それは、東大総長の南原繁などによって多用された当時の時代思潮を表す言葉だったのです。

また見落としてはならない点は、池田名誉会長が終戦を迎える17歳までの日々を、皇国思想の中で生きたということです。果たして戦時下の池田氏天皇に対してどのようなスタンスをとっていたのかわかりませんが、私は多くの国民と同じように素朴な「忠誠心」を抱いていたのではないかと思っています。そしてその忠君の心は、なかなか消えないものです。

長くなりましたが、本日は「天皇制」をめぐる戦後日本の議論がテーマです。

本稿は、連載企画「『人間革命』の時代を読む」の第2章に当たります。連載目次は、下記をご覧くださいませ。

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共産党が提唱した「天皇制打倒」

戦後日本において、天皇制打倒を提唱した筆頭格といえば、日本共産党です。
彼らはそのマルクス主義的な歴史観に基づいて、日本の天皇制を西洋の「絶対王政」に当たるものだと認識していました。すなわち日本は、中性的な封建制からは脱却しているが、フランス革命のような市民を革命を経ていない。その証左として、農村における寄生地主制度や君主制(=天皇制)が残存しているというのです。
日本共産党が目指したのは、「二段階革命」です。それは、天皇制を打倒する市民革命を達成したのち、社会主義革命を実行するというものでした。

着目すべきは、彼らが自分たちを「真の愛国政党」と位置付けて、上記の革命を主張したことです。今日の日本では「愛国」というと、ノスタルジックな「故郷に対する愛情」や、天皇への「忠君」と同義のように見られています。
しかし共産党が掲げた「愛国」とは、天皇に象徴される権威に追従せず、自主独立した人民が責任を持って祖国に貢献するというものでした。これは戦前・戦中の日本において、投獄・惨殺された日本共産党員の生き方に表れているといいます。つまり彼らは、「天皇制」「帝国主義」という権威に反対し、真に日本国の利益を追求した。つまり、天皇制」に反逆しながら、日本のためという「愛国的行動」を貫いたものだというのです。
このような「天皇制に対抗するナショナリズム」こそ、彼らが唱えた「真の愛国」でした。

天皇制への“愛着”ー丸山眞男中野重治

このような共産党の自主独立した「近代的個人」を目指す愛国のあり方は、前回の記事において言及した丸山眞男に通じるところがあります。これは、丸山がマルクス主義史観に惹かれていたことに一因があります。

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しかし、日本共産党と丸山には大きな違いがありました。それは天皇への愛着」です。
皇国思想の中で生きてきた丸山にとって天皇は、簡単に放棄できるものではありませんでした。彼は「超国家主義の論理と真理」において、天皇を頂点とする権威的なヒエラルキーを批判しますが、その執筆過程は煩悶と葛藤に満ちていたようです。
ゆえに丸山の天皇制批判は、昭和天皇を弾劾するものではない。天皇制という制度によって、精神的自由を確保できない日本への批判だったのです。

このような「天皇への愛着」は、広く共有されたものでした。
天皇退位を主張した中野重治は、天皇戦争犯罪人とした日本共産党に強く反発しています。彼が主張したのは、天皇天皇制からの解放」です。それは、全体主義によって抑圧された個人の典型を、天皇に見出すというものでした。これは、彼自身の「天皇への愛着」から生まれたものと言えましょう。

日本の民主化は「人間革命」ー南原繁

東大総長の南原繁は、天皇への強い忠誠心を持ちながら、天皇の自主退位を主張した人物です。

南原は日本の敗戦の原因を、丸山と同じく「独立した個人としての人間意識」が不足していたことに見出します。
しかし、その「独立した個人」とは、自己の利益追求に終始する功利主義者ではない。彼は、「独立した個人」が可能になる足場として、「民族」を提唱します。南原はもともとフィヒテの研究者でしたので、それはフィヒテ思想を日本という文脈の中で展開したものでした。
即ちそれは、「民族」という具体的・歴史的な共同体の中に自分を位置付けることにより、倫理的基盤が与えられ、私的利益追求の重視から脱却でき、「真の自由」を確保できる。さらにそれは、国際社会に参与する足場となるというものです。

その南原にとっての天皇とは、そのような倫理的源泉である「民族」と自由な個人を象徴するものと規定されるものでした。
しかし、このような規定に立つ時、1つの問題が起きる。自由な個人を象徴する天皇は、当然自らの行動を自ら律する自由と責任を持ちます。即ち、天皇の「戦争責任」の問題が浮かび上がるのです。

そこで南原が目指したのが、皇室典範の改正です。最近話題になっているこの法律には、「自主退位」の規定がありません。南原が目指したのは、天皇が「一個の自由な人間」として責任をとり、退位することができるよう、皇室典範を改正することでした。これは結局実現せずに終わりましたが、この南原の思想に私は舌を巻きました。天皇への絶対忠誠を揺るぎないものとしながら、それを「近代的個人の象徴」と位置付け、戦争責任と自主退位の問題まで引き受けてしまうのですから、そのスケールに驚かされます。南原の思想に触れた後ですと、自民党改憲草案なんてとても読めたものじゃありません。

最後に、南原において注目すべきは、彼が「人間革命」という言葉を東大卒業式で使ったことです。戸田城聖がそのことを知って喜んだ、というエピソードを聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。
「人間革命」は、今日あまりに手垢がつきすぎてしまった用語ですが、一度全ての先入観を捨て去って、その誕生の瞬間に注目する必要がある。また、創価学会がそれを使用し始めた時代状況と文脈を研究する。これは不可欠であるように思われます。
いずれ着手したいのですが、いつになるでしょうか。。。

「忠誠」と「反逆」の表裏一体関係

天皇制を巡る議論を様々見てきましたが、私の頭から離れなかった問題があります。
それは、創価学会と池田名誉会長に対する「忠誠」と「反逆」の問題です。
こんな事を言うと怒られそうですが、戦時下の大日本国帝国と天皇に絶対忠誠を誓った軍国青年たちは、私の周りの創価大学OBと重なってしまいます。

何も戦時下の天皇崇拝と創価学会の池田会長崇拝が同じだなんて言うつもりはありません。しかし、我々は創価3代の会長を「永遠の指導者」と定めています。これはかなり難しい思想課題であり、一歩間違えればかなりグロテスクな思想が出来かねない。また、日蓮の位置付けも、宗門から破門された学会にとって取り組まねばならない宿題となっています。
タテマエを捨て去って、天皇を「現人神」とした戦前の日本に学ぶことも、創価思想の構築には有効ではないかと思うのです。

天皇への忠誠の果てに敗戦を迎えた当時の日本人を見ていると、「忠誠」が「反逆」と表裏一体にあることに気づかされる。
つまり、それ(天皇)を強く信じていればいるほど、その脆弱性が露呈した時の「失望」は大きくなります。その「失望」は、かつて自分が信じていたものへの強い「抵抗・反逆」となります。「天皇のために死ぬ」と決意していた青年が、戦後「天皇処刑」を主張する事は、決して珍しくなかった。

何度も言及して申し訳ないのですが、造反した元創価学会本部職員の3名がいらっしゃいます(以下記事参照)。

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彼らは現在、盛んに学会本部攻撃(反逆)を続けていますが、そのきっかけとなったのは、組織への「失望」でした。それまで純粋で美しい無謬の世界だと信じていた創価学会が、成果主義と閉鎖性に満ち満ちた組織であると発見したのです。
彼らは、創価学会に対して非常に「忠実」だったのでしょう。その忠誠心が強いほど、それが裏切られた時の失望は大きくなり、反逆の行動も派手になります。

私は「忠誠心」を否定しない。しかし、重要な事は、忠誠の対象をしっかりと認識することです。完全無謬のものなんて、この世にありはしない。それにもかかわらず、それが「完全無欠」であるかのように誤解すると、実態からかけ離れた「偶像」が出来上がってしまう。
その「偶像」は自分が勝手に作り上げたものです。そして、その「偶像」と実態の乖離に気がついた時、「裏切られた」と錯覚し、それまで忠誠の対象としていたものに対して、これでもかと反逆するのです。

ですから、天皇にしても、創価学会にしても、その良いところも悪いところもしっかりと見て、その上で信じて、忠誠を誓うべきです。

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南原繁が2年前に岩波文庫になりました!

個人主義者かつ愛国者であること:丸山眞男の思想を読む

『人間革命』の舞台となっている時代状況を学ぶために、戦後思想を学んでいる本連載。
今回は、丸山眞男という、「戦後知識人」の代表とされる人物を取り上げます。

本連載は、「『人間革命』の時代を読む」という連載の第1回です。連載目次は、下記をご覧くださいませ。

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丸山眞男は「近代」批判論者だった

私の丸山眞男のイメージといえば、「国民」や「ナショナリズム」といったヨーロッパの近代思想を再評価した人物というものでした。確か大学に入ったばかりの頃に丸山を読みましたが、特に感銘を覚えませんでした。「丸山も所詮日本人、ルソーやカントを読んだ方がいいな」と思ったのを覚えています。

しかし、丸山は戦前、「近代」に対して否定的だったのです。22歳の丸山が1936年に書いた論文「政治学に於ける国会の概念」には、以下のような記述があります。

我々の求めるものは個人か国家かのentweder−oderの上に立つ個人主義的国家観でもなければ、個人が等族の中に埋没してしまう中性的団体主義でもなく、況や両者の奇怪な折衷たるファシズム国家観ではありえない。

この「個人主義的国家観」を理解するために、ヘーゲルマルクスの「近代」批判を見ておきます。
ヘーゲルは、人々が村落やギルドに埋没する(丸山が言うところの)「中性的団体主義」は、歴史の進展により近代社会に進むと主張しました。この近代社会では、「国家」は個人を抑圧するものであると見做されます。それに対し「個人」の生きる社会では、国家の干渉を拒否する「自由主義」的な思想が生まれる。丸山が言う「個人主義的国家観」とは、このような個人と国家が対立するものです。
しかし、このような近代市民社会では、個人はアトム化して相互の闘争がやみません。そこでヘーゲルは、このような闘争状態が、「国家」という高次の次元に止揚されると考えます。様々異論あるでしょうが、私はこれはファシズム的だと思っています。
マルクスも、このヘーゲル歴史観を受け継いでいますが、彼は近代市民社会を「ブルジョアが支配する資本主義社会」と認識し、それが克服される社会像として「国家」の代わりに「共産主義社会」を想定しました。

丸山の近代批判も、こうした潮流に乗ったものでした。また彼がマルクス主義に惹かれていたことは、有名な話です。

しかし、この「近代」批判は、「近代」再評価へと転換される事になります。
それは、太平洋戦争がきっかけでした。

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個人主義者たる事に於いてまさに国家主義者」

丸山は1943年に、「福沢に於ける秩序と人間」という論文を書いています。これは、福沢諭吉を読みながら、「国民主義」の思想を表現したものです。

「一身独立して一国独立す」とは、有名な福沢の言葉です。丸山はこの言葉に、主体的な責任意識を持って能動的に国家の政治に参加する「国民」の姿を見出しているのです。
即ちそれは、私的利益ばかりを追求するのでもなければ、権威に受動的に盲従するのでもない。「個人主義者たる事に於いてまさに国家主義」である国民なのです。

さらに1944年に丸山は、「遺書のつもり」で「国民主義の形成」を書いています。
丸山はこの頃、召集されて朝鮮に駐屯している。後に病気になって除隊されますが、彼が所属していた連隊は、フィリピンで壊滅したそうです。さらに丸山は、広島で被爆もしています。そのライフヒストリーを念頭に本論文を読むと、鬼気迫るものがあります。

国民主義の形成」は、江戸時代批判の形をとって、戦中の日本を批判しながら、「国民主義」思想を展開したものでした。
即ちそれは、権力者と大衆が完全に分離し、大衆が政治に一切の関心を持たない無責任な社会。人々は国家よりも、自分が所属する中間団体の利益を優先して活動します。
このような国民的責任意識の欠如した社会の弱点は、「総力戦」体制において完全に露呈します。それは本論文では黒船の来航とされていますが、これは太平洋戦争における日本社会の弱体を批判したものであることは明らかです。

「戦中にこんな論文を書いていたのか」と私は非常に驚きました。
おそらくこれは、当時の時代状況の中でできるギリギリの反抗だったように思います。いや、完全にアウトだったのかもしれません。

終戦を迎えた後の丸山は、有名な「超国家主義の論理と思想」において、日本社会を公然と批判しました。

超国家主義」とは、戦中日本の社会を指した言葉です。そこでは、主体的な責任意識を持った個人が存在しておらず、お上の言う事に従うだけである。
さらにそれは、権力者にも該当する。彼らも責任意識を欠いており、「陛下の下僕」にすぎない。自分より力のある人間によって加えられた抑圧を、弱い人間に向かって発散する。これは戦中日本において至る所で発生し、国際社会においてはアジアへの侵略という形をとった。そう丸山は分析しています。

このように丸山は、「近代」批判から「近代」再評価に転じました。しかし、「近代」という言葉は同じでも、その内容は異なっています。
丸山が批判した「近代」とは、ヘーゲルマルクスが批判したような「個人主義的国家観」です。それに対し丸山が再評価した「近代」とは、国民一人一人が主体的に政治に参与する「近代国家」観でした。

戦時中、「近代の超克」と題して、「個人主義的国家観」を超克する思想として、統制経済大東亜共栄圏を絶賛した知識人がいました。
それに対して「いや違う、超克どころか、お前らはまだ近代に到達していないんだ」と言った丸山の批判は痛快です。

丸山に学ぶ3つの事

この丸山の思想を、彼のライフヒストリーと当時の時代状況から見るとき、2つの着目すべき点があるように思います。

第一に、彼の思想がオーソドックスな西洋思想に基づいていたという事です。「身分制度から解放された近代的個人が愛国心の担い手になる」という思想は、フランス革命において成立したとされる、何ら新しいものではない。その意味において、丸山は何ら新しい事を言ったわけではないのですが、彼の偉いところは、戦中・戦後の日本という時代において、その社会の欠陥を批判するためにその思想を用いた事です。
私は丸山を初めて読んだとき、はっきり言ってあまり新しさを感じなかった。けれどもそれを時代状況の中に置くと、学ぶ所が多くあります。

思想は時代との連関で読まなければ、その価値はわからない。
これは、今後の創価学会において重要であると思います。池田名誉会長の思想を同時代的に読む時代は、はっきり言って終わったと思います。今後必要となるのは、池田名誉会長の主張を、その時代との関連において読むという事です。池田思想を普遍的真理として読むのではなく、昭和から平成という時代を生きた個別特殊的な人間の思想として読む。そういう姿勢に立った上での議論が、必要となるでしょう。
牧口・戸田両会長の思想研究にそれが必要な事は、言うまでもありません。

第二にそれが、丸山自身のライフヒストリーと密接に結びついていたことです。丸山が兵役に従事したことは先述の通りですが、彼はそこでの自分の振る舞いを「徳川時代の御殿女中」のようだったと言っている。つまり、上役という権威に追従する卑屈さを恥じている。これは彼が権威に対して「主体性」を強調する背景となっている。
またこの経験は、多くの日本人によって共有されたものでした。ですから、その経験で感じた「権威への追従」に対するアンチテーゼとしての丸山の「国民主義」は、広く読まれたと言えましょう。

第三に、丸山の思想が後世の人間によって非常に単純化されて理解されてしまったことです。
少なくとも丸山の「国民主義」においては、「民主」と「愛国」は緊張関係にありながら、両立していたと言えます。しかし、後世の人間によって丸山は、その一面だけを強調されてその内部の複雑性が無視されてしまいました。
それはある人には、「近代的自我の確立」を唱えてナショナリズムを否定したと読まれた。しかし、それは、「個人主義的国家観」を批判した丸山を見落としている。
またある人には、西洋を過度に理想化した「近代主義」だと受け入れられた。しかしそれは、日本が「国民国家」という近代的原理に達していないという現実認識に基づいていたという点を見落としている。
さらにある人は、「大衆」を嫌悪した大衆社会論者として、ある人は「日本人としての誇り」を掲げる歴史修正主義者として、丸山の後継者を自認した。
思うに、丸山だけではないが、偉大な思想家の思想は驚くほど複雑であり、その内部には相互に矛盾する要素が牽制し合いながら混在しています。それを単純化することなく、その知的緊張度を保ったまま理解しようと試みること。その事の必要性を、強く実感します。

 

 

 

 

 

 

共産党はかつて「真の愛国政党」を掲げていた:『人間革命』の時代を学ぶに当たって

今週から『人間革命』の第1版と第2販の読み比べを始めましたが、それに伴い、「『人間革命』の時代背景」について勉強し直そうと思い起ちました。
そこで小熊英二の『民主と愛国』を少しずつ読んでいく事を決めました。人間革命の比較検討に、日蓮遺文の再読、創価学会会則の検討と、やりたい事は山積しておりますが、ビジネス本の読書や資格試験の勉強に忙殺されるなんて、社畜そのものです。

私の母方の家系は早死にの傾向が見られますので、もしかしたら私もあと5年くらいでポックリ逝ってしまう、なんて事も十分考えられます
「人生80年、読書は老後にゆっくりと」なんて悠長な計画を立てずに、若いうちにしっかり勉強したいと思います。

共産党はかつて「真の愛国の党」を掲げていた

さて、まず著者の小熊英二ですが、東京大学農学部を卒業後、29歳まで岩波書店に勤務し、その後東京大学大学院で歴史社会学(仮)を専攻。『「日本人」の境界』や『1968』など日本ナショナリズムや政治思想などの歴史に関する名著を量産しています。原発や安保関連法でも積極的に発言しておりましたので、その関連で知った人もいるのではないでしょうか。
私も大学時代に親しんだ、心から尊敬する学者さんの1人です。

この『民主と愛国』のテーマは、「戦後日本におけるナショナリズムや公をめぐる言説の変動を検証する」というものです。
こういうとなんだか難しそうな感じなので、一例を挙げて説明します。

「愛国」という言葉があります。安倍さんが大好きなこの言葉は、自民党が掲げる憲法草案において、必要不可欠な概念になっています。
この「ザ・保守」というイメージのある言葉、実はかつて日本共産党が使っていた事があったのです。共産党は戦後、自分たちの事を「真の愛国の党」であると自認していたのです。

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今日の共産党といえば、「アベ政治の言う愛国は、戦前への回帰だ!」なんて主張がピッタリの党ですので、彼ら自身が「俺たちこそ真の愛国者だ!」って言っていたなんて、驚きですよね。
しかし彼らに対して、「お前らも愛国って言っていただろう、だったら自民党改憲草案に賛成しろ」なんて言ったとしても、議論は紛糾するだけでしょう。

なぜ、こんな事が起きてしまうのか。
それは、同じ「愛国」という言葉でも、その発話者の全く違う「心情」を表しているからです。

戦後間もない頃の日本共産党が叫んだ「愛国」は、「壊滅的な敗戦からの日本の再建」という時代状況の中で、彼らなりの政治的信念の発露だったのです。
これは、経済の新自由主義化が進行し、従来の安全保障環境が変化する今日の世界において、「日本大好き」集団である自民党が掲げる「愛国」とは、全く異なるものです。

しかし、それは「愛国」という全く同じ言語によって表現されてしまう。
言語の字面だけを見ていては、その思想を読み解く事はできない。
そこで必要になるのは、その時代の思想状況や言説構造を分析し、「愛国」や「民主主義」、「国民」といった言葉を、時代の文脈の中に位置付ける事です。

「心情の変化」と「言説構造の変化」

小熊英二が『民主と愛国』の中でしている研究も、そのような試みです。
それは、太平洋戦争という「言語を絶する」経験をした知識人が、その「心情の変化」を表現するための言葉を模索した結果どのような言説空間が生じたのか、明らかにする事です。

小熊が「言説」だけでなく、「心情」という言葉を使っているのには理由があります。
先ほど、「愛国」という言葉を、今日の自民党と戦後の共産党、どちらも使用していた事を述べました。
しかし、「愛国」という言語は共有されていても、その背後にある「心情」は全く異なるものです。そういった言語の分析だけでは明らかにならない、残余の部分を知るために、「心情」という概念が必要になるのです。

さらに小熊が指摘している点で興味深いのは、たとえ「大戦争」のような経験を経たとしても、人々は簡単に「発想の転換ができない」という事です。
つまり、既存の言語では表現しきれない心情を抱えていながらも、全く新しい言語体系を構築する事はできない。ゆえに、旧来の言語を用いて、新たに生じた「心情」を描こうとするのです。
例えば、「アメリカ帝国主義打倒」を掲げて赤旗を担ぐという行為は、「鬼畜米英」という戦中の風景とどこか似ている、というものです。

知識人の思想を「集団の心情」として読む

小熊の研究のもう一つの特徴は、知識人の思想を主な研究の対象としている事です。
これだけ聞くと、「大衆から乖離している」「一部の特権的な人間を研究しただけ」と批判されそうですが、そうではありません。

小熊が扱っているのは、同時代を生きた人々に広く歓迎された知識人の思想です。それらが広く支持を得た理由は、その時代を生きた人々が共有していた「集団的な心情」を学問的な言葉で表現したからでしょう。全く大衆から乖離した思想を説いても、支持される事はありえない。ゆえに、彼らの思想を研究する事は、その時代の「集団の心情」を知る事にもなるのです。

私はこの小熊の方法論に触れた時、有吉弘行を思い出しました。
その毒舌で一世を風靡し、今やその位置を確固たるものとしたように見える彼ですが、決して有名人を口汚く罵っていただけではない。
有吉の毒舌を見て笑う時、私たちは「わかる!わかる!」と、まるで自分が思っていた事を代わりに言ってくれたような気持ちになります。つまり、全く共感できない「悪口」ではなく、広く社会に共有されているような「人物評」を、有吉は先鋭的な形で表現している。だから売れたのです。
これは、BUMP OF CHICKENに熱中する中二病罹患者や、西野カナに涙を流す恋愛中毒者にも言えると思います。

ニーチェのような「変態」をその時代の「大衆感情の表現」などと言ったら滑稽です。
数年前に「ニーチェの言葉」なる本が大流行しましたが、はっきり言ってあれはニーチェではなく、そこらにある自己啓発本です。
本当の意味で、ニーチェ思想が大流行する社会なんて、想像しただけで恐ろしい。
国民の9割は精神疾患を患い、狂人が町中をうろつく。「19人殺し」なんて事件は、ニュースにすらならない。そんな世界でしょう。
とはいえ、「ニーチェの言葉」が流行るような今の日本よりは、幾分生きやすいかもしれませんが。

創価学会研究への応用の可能性

話が逸れましたが、この小熊の方法は、創価学会研究にとっても非常に示唆的です。

私も含めた創価学会員は、池田名誉会長の著作を教条的に読みすぎてきました。別にそういった読み方を否定するわけではないのですが、池田名誉会長も「時代の子」です。当然その時代の状況に制約される存在であり、時代との関連・緊張関係の中でその思想を読まなければ、その本当の意味もわからない。また、池田思想がいかに「先駆的」であったかという事も、到底評価できないのです。

同じ事は、日寛思想にも言えるでしょう。
私の親世代の学会員には、日寛好きが非常に多いのですが、その読み方には多くの疑問があります。
なぜ宗祖でもない、1人の大石寺僧侶をそんなに重用するのか。宗門からの分離独立前なら仕方ないと言えますが、未だに彼の言葉を「御聖訓」のように読んでいる理由がよくわかりません。日寛思想は、日蓮思想解釈としてはかなり問題があります。今日の文献学的な方法からすると到底受容不可能な「文底読み」を採用するには、「日寛系日蓮宗」という新しい一派を設立しなければ駄目でしょう。創価学会がその道を進む必然性は、どこにもないと思います。

しかし、創価学会は2014年の会則変更で、日寛教学を取捨選択していく方向性を打ち出しました。一部、引用しておきます。

「日寛上人の教学には、日蓮大聖人の正義を明らかにする普遍性のある部分と、要法寺法主が続き、疲弊した宗派を守るという要請に応えて、唯一正当性を強調する時代的な制約のある部分があるので、今後はこの両者を立て分けていく必要がある」

これは、江戸時代という時代的制約と、「護教」という彼が取らざるをえなかった目的の中で日寛を理解しようという試みであるといえるでしょう。
私は、日寛という思想史的に見て高評価する理由のない人物が絶対視されている創価学会の風潮に懐疑的でしたので、この点では会則変更を評価しています。
今後、創価学会教学部がどれだけの学術的批判に耐えられる日寛解釈をするのか、非常に注目されるところです。

とはいえ私は、日蓮正宗から独立した今、創価学会が日寛教学を採用する理由は「会員への配慮」以外にはないと考えています。ですので、学会本部は早晩、日寛教学を廃棄するのでは、と予想しています。つまり会則変更での日寛教学の「取捨選択」宣言は、「日寛教学の段階的廃棄」の第一歩であるということです。
これについては、また別記事にて詳述したいと思います。

「日本人の心情」の表現としての創価学会思想

長くなりましたが、もう1点。
小熊は、丸山眞男大塚久雄竹内好吉本隆明といった思想家を、日本人の「集団の心情」の表現として読んでます。
これは、創価学会についても言えると思います。

学会員といえば、社会の中ではマイノリティであり、「何だか危ないヤツら」として認識されてきました。
しかし、創価学会が公称827世帯にまで拡大した歴史を見るとき、創価学会の主張は決して日本人のメンタリティから乖離していたものでないことがわかります。
「わかりやすい現世利益を説いたからだろ」と言われるかもしれませんが、私はそれだけに還元されないと思います。

「世界の先駆的な思想」「普遍的な真理を説いた思想」として、学会員は池田思想を読みがちですが(私もそうです)、泥臭い生活感覚丸出しの庶民思想を体現したものとしてそれを読むとき、「日本人の心情の代弁」としての池田思想が見えてくるのかもしれません。

ともあれ、「『人間革命』が書かれた時代を学ぶ」、「創価学会研究の方法を学ぶ」という2つの事を意識して、少しずつ『民主と愛国』を読んでいきたいと思います。

本連載の目次一覧は。下記をご覧くださいませ。

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学会再建に乗り出す戸田城聖:「再建」の章を読み比べる

本日は、『人間革命』第1巻2章「再建」を読み比べたいと思います。

本記事は、2014年に改定された『人間革命』第2版と初版を比較検討するものです。ここでは、第1巻「再建」の章を取り上げます。目次一覧は、下記をご覧くださいませ。

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「再建の章」あらすじ

出獄した戸田城聖は、創価学会の再建に乗り出す。そのためには、戦時中に壊滅してしまった彼の事業を再建する必要があった。彼は、戦争が終われば学問を渇望する子供が増えることを予想し、通信講座の開始を着想する。最大の課題である資金を調達するため、長年の友人である小沢の元を訪問。さらに、政界の大物・古島の邸宅を訪れ、終戦の目処を確認し、開業への準備を着々と進めていく。

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想定読者の変化

(第1版)

どん底に来ると、人生は何とわびしいものであろうか。日本の指導者が、もし賢明なる指導者であったならば、常に、民衆に充実した人生を送らせたことであろう。国民は、この苦悩を永久に忘れてはならない。(43頁)

 

(第2版)どん底の生活は、人々に極めてわびしい思いをさせた。民心は、既に、軍部指導層から離れていた。指導者が賢明でありさえすれば、よもや国民全体を塗炭の苦しみに落としはしないことを、人々は本能的に直覚していたからである。(58頁)

【考察】

「忘れてはならない」というメッセージ性の強い表現が、「直覚していた」という客観的記述に代わっている。これは、想定する読者が変わった事が背景にあると考えられます。
第1版の執筆時は昭和39〜40年。まだ戦後20年であり、戦争の記憶もそれなりに残っていたと考えられます。そのため、「この苦悩を忘れてはならない」というメッセージが、ある程度響くものだったと思われます。
しかし、第2版発行時は既に終戦から約70年が経過しています。さらに本書の改訂が「50年後の読者も想定」しているものである以上、その読み手が戦争経験を有していないという前提に立つ必要が出てきます。そのため、「忘れてはならない」というメッセージではなく、当時の国民の心情を叙述したような記述になったのだと考えられます。

処世訓の削除

(第1版)

彼の、数多い事業の一つでも再建の糸口を握るためには、まず、生々しい実態を知る必要があった。実態を知らないで再建はありえないからである。かくて常に、建設に生き抜く人生には、未来が輝く。最後の勝利の建設によって、人生の勝負が決するのだ。

(第1版)

一切の事業を推進するのは、所詮、すべて人である。その成否の鍵は人間革命に尽きる。事業に左右されるか、事業を左右するかによって、事業の未来の運命は決まる。(47頁)

(第1版)

事業は、果断と、智慧と、信用が大事だ(54頁)

【考察】

上述の3箇所の記述は、どちらも初版にはあるが、第2版にはない記述です。
このような小説の流れとは無関係の「処世訓」的な言葉が所々に登場するのが、第1版の特徴であるが、第2版では削除されています。これは、「客観的な歴史叙述」の性格を強めようとしたものだと考えられます。しかし、私のような第1版に親しんだ会員からすると、所々に「池田大作」という人間が物語の語り手という立場を超えて顔を出すのを魅力と感じていたために、少々残念でもあります。

「学会外の友情」についての記述の削除

(第1版)

友情は強い。真の友情は、百の親類に優るといった人がいる。しかし友情にも、世法の友情と、仏法の友情がある。世法の友情は、深いようで、浅い。現実の苦境と利害にあって、自然に離れてゆく性質を含んでいる。時としては一転して醜い嫉妬にも変わり得る。そのような時に、妻や女性が介在するのも珍しくない。信心、そして主義主張に生きる同士の友情は、目的達成のために、生命を賭しての擁護があり、励まし合いが存する。彼との長年の親交は、主義主張のものではなかった。(58頁〜59頁)

(第1版)

所詮小沢の友情は、世間一般の平凡な友情でしかなかった。人は無理からぬことと許すかも知れぬ。だが戸田の友情は、それを越え、一切の財力、権力を超越した真の友情であったのだ。小沢にはそれがわからなかった。(67頁〜68頁)

【考察】

これは戸田が、旧来の友人・小沢を訪問した時の記述です。
上述の2箇所も、第1版にはあるが、第2版では削除されているものです。
これらの記述は、「仏法の友情」と「世法の友情」を対置して、前者の絶対的優位を主張するものです。
この記述がなくなった理由として、私は以下の2点を考えています。

①運動論の変化の反映

第一に、創価学会折伏運動の変化である。昭和39年頃は、教団が拡大していた時期です。当時の会員にとって、周囲のあらゆる人は「折伏の対象」であり、潜在的な「仏法の友情」を築く相手だったのではないでしょう。そうした運動の中では、「仏法の友情」の優位性を強調して折伏運動を鼓舞することは、合理的であると考えられます。
しかし、昨今の学会では状況は変わっている。国内会員数は飽和状態に達しており、「友好拡大」、つまり非会員の創価学会理解を進める事が推奨されています。そうした状況下では、「世法の友情」を「浅い」と断ずることは都合が悪いと言えるでしょう。

②想定読者層の拡大

第二に、想定読者の拡大です。初版刊行時の『人間革命』は、会員に学会の歴史を周知させることに主眼を置いていたのではないでしょうか。しかし、前述の通り、非会員の学会理解を深めようとする運動も推奨されている今、「非会員」の読者も視野に入れる必要を、学会本部は感じたのではないかと私は考えています。

法華経の行者に関する記述の変化

(第1版)

戸田は、この時、ぽつんと言った。

「ぼくは、やっぱり、末法法華経の色読者だよ」(68頁)

 

(第2版)

戸田は、この時、ぽつんと言った。

「ぼくは、やっぱり、末法法華経の行者だよ」(86頁)

【考察】

これは戸田が小沢に言ったセリフであるが、「末法法華経の色読者」が「末法法華経の行者」になっています。
これは、現在の会員にとって馴染み深い「法華経の行者」に変えただけであり、それほど大きな意味はないと私は思っています、戸田城聖の「獄中の悟達」について考察する際にこの等置が妥当か再考したいと思います。

政界の大物・古島の礼賛の削除

(第1版)

乱世には、有能な人が、高潔な人が、どれほど不遇であることか。ある時は、国賊とののしられ。ある時は、臆病者と嘲られたりする・・・。いかなる時代の推移、動乱にも、自己の信念を屈せず、一直線に貫き通す人は、誠に尊い。時代は流れた。人の心も動いていた。今、両者とも、各々主義主張は異なるとはいえ、いずれも、次の時代を待っているのだった。(75頁)

これは、政界の大物・古島の元を戸田が訪問した時の記述です。初版にのみ記載されています。
古島を褒めたセリフのようでありますが、第2版では削除されている。私はこの政界の大物が誰が知りませんが、この古島という人物に気を遣った記述だったのではないかと思います。
第1版執筆当時は、この古島と戸田の面談から20年。まだ古島が健在であるか、その流れを引く人物がいたのではないかと推測されます。戸田会長とは随分懇意のようですから、その交友関係が池田会長に受け継がれていたことも予想されます。
しかし、面談から約70年経った今では、別段おべっかを使う必要もないのでしょう。

寺院名の削除

(第1版)

戸田の近くの坂上に、瑞泉寺というかなり大きな寺院があった。(79頁)

(第2版)

戸田の家の近くの坂上に、かなり大きな寺院があった。(99頁)

【考察】

寺の固有名詞が消えています。
瑞泉寺とは、以下の寺院であると考えられるが、どうやら禅宗系の寺のようです。

www.zuisho-ji.or.jp

削除されている理由がよくわからないが、それほど着目する必要もないと私は考えていまし。

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ゆとり世代学会員の本音②:質問にお答えして

昨日投稿した、「本門戒壇の大御本尊」に関する記事について、様々なご意見いただきました。ありがとうございました。

sanseimelanchory.hatenablog.com


その中で、私の「本門戒壇の御本尊」に関する立場・意見について、ご質問いただきました。
昨日の記事は、「創価学会の中で起きている大御本尊を巡るパラダイムシフトを観察している私」という、第3者的視点に徹したものであり、私自身の意見が気になるという方がいらっしゃったのだと思います。

そこで本記事では、本門戒壇の大御本尊についての私見を述べさせていただきます。

「本門戒壇の大御本尊」に関しての私の基本的立場

私の基本的立場は、主に以下の2点に表されます。

日蓮が図顕した曼荼羅本尊、ならびにそれを書写した本尊には上下勝劣はない。
②とはいえ、「本門戒壇の大御本尊」が出世の本懐であるとする説は、否定しない。

なんだか矛盾したような微妙な言い方ですが、要するにこういう事です。

①については、創価学会の現在の見解に近いですが、2014年の会則変更前からこのような考えを持っておりました。理由は、後ほど詳述しますが、「本門戒壇の大御本尊は日蓮の出世の本懐」と確定する証拠が見つからなかった事です。

またこれはかなり感覚的な理由ですが、池上本門寺所蔵の日蓮直筆の曼荼羅を見る機会に恵まれ、圧倒されてしまったことも挙げられます(島田裕巳も同じエピソードを話していました)。「たましいを墨にそめながして」とはこの事か、と体が震えました。

恐らく日蓮は一幅一幅の御本尊の図顕に、命を削って臨んだはず。その御本尊に上下勝劣があるという考え方が、感覚的に受け入れられなくなってしまいました。
(とはいえ私は、本門戒壇の大御本尊を拝したことがないので、もしも御目通りする機会に恵まれれば変わるかもしれませんが・・)

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②についてですが、「本門戒壇の大御本尊」を「出世の本懐」と断定できる証拠もないが、否定できる材料もないので、そのような信仰を持つ人を最大限尊重するということです。

私は学会3世として生まれ、創価高校という狭い世界を生きた事もあり、大学2年生くらいまではかなり宗教的に排他的だったと思います(特に日蓮正宗は「人間のクズの集まり」のように思っていた)。
しかし、他の宗教を勉強したり、異なる信仰を持つ方々とお話しする中で、このような自分の態度を恥じ、改めました。

思うに無宗教者が大多数の日本において、特定の宗教を信じる人間はマイノリティです。
宗教を信じる人の心がわかるのは、同じく宗教を信ずる人であるはず。しかし、異なる宗教を信じる他人の気持ちに対して、驚くほどデリカシーを無くしてしまうことがしばしばです。
私の嫌いな学会の先輩で、「大川隆法はレイプ魔」「靖国神社を放火せよ」などと冗談でいう人間がいましたが、ウジ虫以下だと思っています。
彼にとって、池田大作創価学会はとても大切な存在であり、それを馬鹿にされれば傷つくはず。しかし、「幸福の科学」信者や「遺族の会」の方の気持ちに対する想像力を働かせる事は、一切できない。
私は一応信仰者ですので、他の宗教を信じる人には、最大限敬意を払いたいと考えています。

そもそも、「本門戒壇の大御本尊」を信じている創価学会員は私の周りにも多い。そういった方々が、2014年の会則変更に多大なショックを受けている姿を見て、心が痛みました。

長くなりましたが、「本門戒壇の大御本尊は日蓮の出世の本懐」という命題を、私は信じておりません。しかし、その命題をを否定する気は毛頭なく、それを信仰する人を最大限尊重したいと思っています。

本門戒壇の大御本尊について

長くなりましたが、「本門戒壇の大御本尊」について書かせていただきます。
この節での私の主張は、「大御本尊を出世の本懐とするか否かは、学問的考証ではなく、信仰の次元の問題である」という事です。

そもそも、「本門戒壇の大御本尊」に限らず、日蓮の本尊をめぐる論争は尽きません。
それは日蓮の遺文での記載が人本尊偏重だったり、法本尊偏重だったりと解釈が難しいからです。これは、日蓮宗における「曼荼羅か、一尊四師か」という積年の論争を見ているとよくわかります。
望月歓厚という学者は、「日蓮遺文から本尊義を確定する事は出来ない」なんて論文を書いていますが、「それを言ったらおしまいだろう」って感じですよね。

「本門戒壇の大御本尊」をめぐる論争となれば、それを日蓮の「出世の本懐」と認めている学者は、日蓮正宗創価学会以外にはほとんどいないようです(実は「日蓮本仏論」もそうですが、これは後日)。
その主な理由は、以下のようです。

●「聖人御難事」の解釈に無理がありすぎる
●『日興上人御伝草案』が板本尊の文証になり得ない
●『日興跡条々事』は偽書の疑いがある
●他の日蓮遺文との整合性に疑念
●『御伝土代』(日興・日目の伝記)に本尊造立が出てこない
●日興は複数の日蓮直筆曼荼羅を書写している
●日寛などの後世の法主の思想は、文証になりえない

これらには日蓮正宗からの批判もあるでしょうから、「本門戒壇の大御本尊 出世の本懐説」を完全に否定するものにはならない。

私が言いたい事は、「本門戒壇の大御本尊は出世の本懐である」という命題は、「文証から明らか」(=文献学・歴史学的に明白)なものではないということです。
つまり、それの真偽は、学問的論証によって誰にでもわかるように明確にされるものではない。
「信じるか、否か」という「信仰の次元の戦い」であるということです。

上述の命題を信じた上に、日蓮や日興、日有、日寛などによって構築された大石寺教学の世界が「真」になるということです。

私は、「本門戒壇の大御本尊 出世の本懐説」はとりません。しかし、学問のような合理主義を過度に重視することによって見落とすことも多いことには、自覚的であろうと思っています。

大御本尊をめぐるパラダイムシフト

着目すべき点は、大石寺教学が「本門戒壇の大御本尊は出世の本懐」という信仰(=格好つけて「パラダイム」と称します)の上に成り立っていることです。つまり、そのようなパラダイムを有している人間にしか、共有できない宗教であるということです。

しかし昨日の記事で指摘した通り、私の世代の創価学会員の多くは、「本門戒壇の大御本尊」を知らないか、何の感情も持っていない。日蓮正宗とは全く異なる宗教に、変化しつつあるのです(もともとその体質は正反対でしたが、教義的にも大きく異なっていく)。

今でも、創価学会日蓮正宗を激しく批判しますが、これは「まだ日蓮正宗から独立できていない」ことを指しているとも言えます。
日蓮正宗を批判することが自分たちの正統性証明に必要不可欠であり、ある意味で彼らに依存しているのです。

しかし、私たちのような「本門戒壇の大御本尊」を知らない世代が大多数を占めた時、完全な分離独立が達成されるのかもしれません。自分たちだけで自己充足的に信仰を完結することができ、日蓮正宗を批判する理由がなくなり、無関心になる。恐らく20〜30年後になるでしょうが、大変に興味があります。

その時に現れる創価学会の新しいパラダイムは、「3代会長」と「民衆仏法」だと私は考えていますが、これについてはまた述べさせていただきます。

追記:おすすめブログ

この件は、大変難しい問題であり、私の意見はやや特殊だと思いますので、
私に質問くださった方は、他の学会員の方のブログも、同時に参照頂ければと思います。

SOKA2015

会則変更の撤廃に向けて、活動をしておられる方のブログです。
我が同窓の先輩でもあります。その勇気ある活動を大変尊敬しております。

創価学会員による創価ダメ出しブログ

宗門からの分離独立以降の学会を、激しく批判されている方のブログです。
こうした厳しい声を上げられるのも、学会を思ってのことなのだと思います。
日寛教学に関する理解など、私も勉強させていただいております。

創価教学随想

様々な創価教学に関する資料を公開されており、意見を述べられています。
大変に参考になるので、頻繁に拝見しております。

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