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学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、バリ活にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

日蓮は念仏者だったのか?:日蓮遺文を「再読」するに当たって②

ある時期の日蓮に念仏者の姿を見出してもいいのではないだろうか

これは、高木豊日蓮 その行動と思想』における一文です。
この文章を読んだ時には、衝撃が走りました。それまでの私は、念仏を「諸悪の根源」のように認識しており、日蓮が念仏に惹かれたなど到底受け入れられなかったからです。

私は高木の本を「悪書」として退け、他の日蓮研究書を読み始めました。
しかし、どの本にも高木の本への言及があり、「戦後最大の日蓮研究の一つ」と認められているようなのです。
仕方がないので、再度、高木の本と向き合うことにしました。

(本記事は、連載企画「日蓮遺文を「再読」する」の一部です。目次一覧は、下記をご覧ください。)

sanseimelanchory.hatenablog.com

日蓮は念仏者だった??

前回に引き続き、今回も「テキスト解釈=本の読み方」について、記述させていただきます。

(前回の記事は以下)

日蓮遺文を「再読」するに当たって①:末法、大乗非仏、国立戒壇 - 学会3世の憂うつ


冒頭に紹介したエピソードは、私が創価大学生の時のものです。
高木豊日蓮 その行動と思想』は、現在の日蓮研究の「定本」と定められているような本であり、1970年の初版発行以来読み継がれています。
しかしそれを初めて読んだ私にとって、その日蓮像は受け入れがたいものでした。

当時「守護国家論」や「立正安国論」を読んで、私が描いていた日蓮は邪宗を弾劾する正義のヒーロー。
念仏は災厄の「一凶」であり、「三悪道」に落ちる原因だと断罪する。
その日蓮が「かつて念仏者だった」とはどういう事なのか?

後にテキスト解釈論を学んでわかりましたが、これは日蓮遺文に「歴史的アプローチ」をする事によって浮かび上がる日蓮像だったのです。

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歴史的アプローチ

前回の記事では、日蓮遺文や仏典といった古典を「普遍的真理」を開示したものとして読む「非歴史的アプローチ」を説明しました。
本日は、その反対に位置する、「歴史的アプローチ」です。

「歴史的アプローチ」ーそれは、思想家や理論家が説いた思想が、特定の歴史的状況や社会的状況などといった、時代的制約の中で思想的営為を行っているとみなすものです。

日蓮でいうならば、こうです。
前回、日蓮が「末法」時代ではなく、「像法」時代に生まれた人物である事を述べました。つまり、「自分は末法に生まれた」という前提で思想を展開している日蓮は、この点において間違っていたのです。
また、日蓮が「釈尊の説いた最高の教え」として格闘した『法華経』も、釈尊の死後約500年後に成立したものであり、それを釈尊の教えと見なすのには無理があります。

これは、「御本仏は絶対無謬である」という命題と矛盾します。
しかし、テキストに「普遍的真理」を見出そうとする「非歴史的アプローチ」から離れて、日蓮を「鎌倉時代という時代的制約の中で生きた1人の人間」として見ると、上述の矛盾に対する回答が浮かび上がるのです。

日蓮が誤った末法年代を用いたり、『法華経』を釈尊の説いた経典として扱った事は、決して本人の勘違いではありません。
今日でこそ釈尊の没年は紀元前5〜4世紀であるとされていますが、日蓮在世当時は、1052年が末法元年と考えられていました。
また、日蓮が『法華経』を「釈尊の説いた最上の教え」としたのは、中国の天台思想における「五時八教」に基づいたものでした。
つまり、どちらも当時の仏教界の定説に従っていたのです。

この「歴史的アプローチ」をする時、私たちは鎌倉時代の中に生きた日蓮」という時代的状況に制約された存在を見る事ができる。それは、日蓮が思想を説いたコンテキストを再現してくれるものなのです。

日蓮念仏者説

「ある時期の日蓮に念仏者の姿を見出してもいいのではないだろうか」という高木の言葉を冒頭で紹介しました。
この主張の背景には、日蓮が青春期に修行をした最澄寺において浄土信仰が盛んに行われていたという史実があります。つまり日蓮は念仏が盛んに唱えられる中において、青春を過ごしたのです。さらに、日蓮の師・道善房も念仏者であったから、彼から浄土信仰を学んだと考える事はごく自然でしょう。
さらに日蓮が留学した当時の鎌倉では、法然の念仏説は万人を救済する革新的な教えとして、大流行していました。

そもそも日蓮の遺文を読むと、その浄土宗への理解の深さに驚かされます。
果たして、「邪宗を撃て!」という心構えだけでそれを読んだのだろうか。
むしろそれに魅力を感じた側面もあったのではないだろうか。
このように考えるのは、あながち不合理ではないと思います。

私は高木のように、「日蓮が専修念仏者だった」という考えには賛同しかねますが、法然説に強い影響を受けたのではないかと思っています。
これは後日記事にて詳述したいと思いますが、法然が万人の即身成仏のための「易行」として念仏を説いた事は、日蓮の題目に通ずる面があると思うのです。

日蓮法然の関連は、また「守護国家論」や「立正安国論」を読む際に考えましょう。
ここで強調されるべきは、日蓮を当時の思想的な文脈の中に置く時、新たな日蓮像が浮かび上がってくることです。
即ちそれは、法華・真言を伝統とする天台宗の寺社で修行を積みながら、法然説という新しい仏教の潮流に触れた日蓮
そしてそれを乗り越えんと法華経などの諸経を読んで、念仏と格闘しながら思想を生成していく日蓮

これらは、念仏を「一凶」と断じて、国家による弾圧を直訴する日蓮遺文を読むだけでは見えてきません。
「歴史的アプローチ」を取ることにより、その時代状況との有機的な関連に注目しながら、躍動的にその思想を構築していく、活き活きとした日蓮を見ることができるのです。

国立戒壇論について

前回の記事において、日蓮の「三大秘法抄」における「国立戒壇」について論じました。
それによれば日蓮は、国家権力によって「戒壇」という「南無妙法蓮華経」の実践をする場所を建設することを提唱しているのです。

これを字義通り「普遍的なもの」として解釈し、現代において「国立戒壇」の実現を目指すこともできましょう。
しかし、この「三大秘法抄」に対して「歴史的アプローチ」をすると、全く異なる様相を呈してくるのです。

そもそも「戒壇」とは、授戒を授ける場所のことを言います。つまり、一人前の僧 になろうという人に戒律を授けることで 、仏教教団への入門儀礼として重要な意味を持っていました 。
注目すべきは日本の歴史において、この「授戒」には国家の許可が必要であったことです。それは誰でも彼れでも勝手に出家をしてしまうと、租税において悪影響を及ぼすという政策的判断に基づいていました。
奈良時代には、奈良東大寺 ・下野薬師寺 ・筑紫観世音寺が「天下の三戒壇」として定められ 、授戒はこの3か所に限られていたのです。

この知識を前提に「三大秘法抄」を読むと下記の解釈が可能になります。
つまり日蓮は、当時の時代状況から独立して、「国立戒壇」を唱えたのではない。国家権力と戒壇が密接に関係していた日本の歴史的文脈の中で、天皇勅令と幕府の命令によって、「題目を唱える修行の場=戒壇」の建設を主張したのである、と。

このように日蓮が生きた歴史を知り、その中に自分を置いて日蓮の思考を「追体験」する時、明らかになる日蓮思想があるのではないかと思います。
それは、日蓮が現代に生きていたら、国立戒壇を提唱するだろうか」という知的緊張度の高い思考も、可能にすると思います。

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(続く)

【参考文献】
高木豊日蓮 その行動と思想』

マンハイムイデオロギーユートピア

●クェンティン・スキナー『思想史とはなにか』