学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、バリ活にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

ゆとり世代学会員の本音②:質問にお答えして

昨日投稿した、「本門戒壇の大御本尊」に関する記事について、様々なご意見いただきました。ありがとうございました。

sanseimelanchory.hatenablog.com


その中で、私の「本門戒壇の御本尊」に関する立場・意見について、ご質問いただきました。
昨日の記事は、「創価学会の中で起きている大御本尊を巡るパラダイムシフトを観察している私」という、第3者的視点に徹したものであり、私自身の意見が気になるという方がいらっしゃったのだと思います。

そこで本記事では、本門戒壇の大御本尊についての私見を述べさせていただきます。

「本門戒壇の大御本尊」に関しての私の基本的立場

私の基本的立場は、主に以下の2点に表されます。

日蓮が図顕した曼荼羅本尊、ならびにそれを書写した本尊には上下勝劣はない。
②とはいえ、「本門戒壇の大御本尊」が出世の本懐であるとする説は、否定しない。

なんだか矛盾したような微妙な言い方ですが、要するにこういう事です。

①については、創価学会の現在の見解に近いですが、2014年の会則変更前からこのような考えを持っておりました。理由は、後ほど詳述しますが、「本門戒壇の大御本尊は日蓮の出世の本懐」と確定する証拠が見つからなかった事です。

またこれはかなり感覚的な理由ですが、池上本門寺所蔵の日蓮直筆の曼荼羅を見る機会に恵まれ、圧倒されてしまったことも挙げられます(島田裕巳も同じエピソードを話していました)。「たましいを墨にそめながして」とはこの事か、と体が震えました。

恐らく日蓮は一幅一幅の御本尊の図顕に、命を削って臨んだはず。その御本尊に上下勝劣があるという考え方が、感覚的に受け入れられなくなってしまいました。
(とはいえ私は、本門戒壇の大御本尊を拝したことがないので、もしも御目通りする機会に恵まれれば変わるかもしれませんが・・)

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②についてですが、「本門戒壇の大御本尊」を「出世の本懐」と断定できる証拠もないが、否定できる材料もないので、そのような信仰を持つ人を最大限尊重するということです。

私は学会3世として生まれ、創価高校という狭い世界を生きた事もあり、大学2年生くらいまではかなり宗教的に排他的だったと思います(特に日蓮正宗は「人間のクズの集まり」のように思っていた)。
しかし、他の宗教を勉強したり、異なる信仰を持つ方々とお話しする中で、このような自分の態度を恥じ、改めました。

思うに無宗教者が大多数の日本において、特定の宗教を信じる人間はマイノリティです。
宗教を信じる人の心がわかるのは、同じく宗教を信ずる人であるはず。しかし、異なる宗教を信じる他人の気持ちに対して、驚くほどデリカシーを無くしてしまうことがしばしばです。
私の嫌いな学会の先輩で、「大川隆法はレイプ魔」「靖国神社を放火せよ」などと冗談でいう人間がいましたが、ウジ虫以下だと思っています。
彼にとって、池田大作創価学会はとても大切な存在であり、それを馬鹿にされれば傷つくはず。しかし、「幸福の科学」信者や「遺族の会」の方の気持ちに対する想像力を働かせる事は、一切できない。
私は一応信仰者ですので、他の宗教を信じる人には、最大限敬意を払いたいと考えています。

そもそも、「本門戒壇の大御本尊」を信じている創価学会員は私の周りにも多い。そういった方々が、2014年の会則変更に多大なショックを受けている姿を見て、心が痛みました。

長くなりましたが、「本門戒壇の大御本尊は日蓮の出世の本懐」という命題を、私は信じておりません。しかし、その命題をを否定する気は毛頭なく、それを信仰する人を最大限尊重したいと思っています。

本門戒壇の大御本尊について

長くなりましたが、「本門戒壇の大御本尊」について書かせていただきます。
この節での私の主張は、「大御本尊を出世の本懐とするか否かは、学問的考証ではなく、信仰の次元の問題である」という事です。

そもそも、「本門戒壇の大御本尊」に限らず、日蓮の本尊をめぐる論争は尽きません。
それは日蓮の遺文での記載が人本尊偏重だったり、法本尊偏重だったりと解釈が難しいからです。これは、日蓮宗における「曼荼羅か、一尊四師か」という積年の論争を見ているとよくわかります。
望月歓厚という学者は、「日蓮遺文から本尊義を確定する事は出来ない」なんて論文を書いていますが、「それを言ったらおしまいだろう」って感じですよね。

「本門戒壇の大御本尊」をめぐる論争となれば、それを日蓮の「出世の本懐」と認めている学者は、日蓮正宗創価学会以外にはほとんどいないようです(実は「日蓮本仏論」もそうですが、これは後日)。
その主な理由は、以下のようです。

●「聖人御難事」の解釈に無理がありすぎる
●『日興上人御伝草案』が板本尊の文証になり得ない
●『日興跡条々事』は偽書の疑いがある
●他の日蓮遺文との整合性に疑念
●『御伝土代』(日興・日目の伝記)に本尊造立が出てこない
●日興は複数の日蓮直筆曼荼羅を書写している
●日寛などの後世の法主の思想は、文証になりえない

これらには日蓮正宗からの批判もあるでしょうから、「本門戒壇の大御本尊 出世の本懐説」を完全に否定するものにはならない。

私が言いたい事は、「本門戒壇の大御本尊は出世の本懐である」という命題は、「文証から明らか」(=文献学・歴史学的に明白)なものではないということです。
つまり、それの真偽は、学問的論証によって誰にでもわかるように明確にされるものではない。
「信じるか、否か」という「信仰の次元の戦い」であるということです。

上述の命題を信じた上に、日蓮や日興、日有、日寛などによって構築された大石寺教学の世界が「真」になるということです。

私は、「本門戒壇の大御本尊 出世の本懐説」はとりません。しかし、学問のような合理主義を過度に重視することによって見落とすことも多いことには、自覚的であろうと思っています。

大御本尊をめぐるパラダイムシフト

着目すべき点は、大石寺教学が「本門戒壇の大御本尊は出世の本懐」という信仰(=格好つけて「パラダイム」と称します)の上に成り立っていることです。つまり、そのようなパラダイムを有している人間にしか、共有できない宗教であるということです。

しかし昨日の記事で指摘した通り、私の世代の創価学会員の多くは、「本門戒壇の大御本尊」を知らないか、何の感情も持っていない。日蓮正宗とは全く異なる宗教に、変化しつつあるのです(もともとその体質は正反対でしたが、教義的にも大きく異なっていく)。

今でも、創価学会日蓮正宗を激しく批判しますが、これは「まだ日蓮正宗から独立できていない」ことを指しているとも言えます。
日蓮正宗を批判することが自分たちの正統性証明に必要不可欠であり、ある意味で彼らに依存しているのです。

しかし、私たちのような「本門戒壇の大御本尊」を知らない世代が大多数を占めた時、完全な分離独立が達成されるのかもしれません。自分たちだけで自己充足的に信仰を完結することができ、日蓮正宗を批判する理由がなくなり、無関心になる。恐らく20〜30年後になるでしょうが、大変に興味があります。

その時に現れる創価学会の新しいパラダイムは、「3代会長」と「民衆仏法」だと私は考えていますが、これについてはまた述べさせていただきます。

追記:おすすめブログ

この件は、大変難しい問題であり、私の意見はやや特殊だと思いますので、
私に質問くださった方は、他の学会員の方のブログも、同時に参照頂ければと思います。

SOKA2015

会則変更の撤廃に向けて、活動をしておられる方のブログです。
我が同窓の先輩でもあります。その勇気ある活動を大変尊敬しております。

創価学会員による創価ダメ出しブログ

宗門からの分離独立以降の学会を、激しく批判されている方のブログです。
こうした厳しい声を上げられるのも、学会を思ってのことなのだと思います。
日寛教学に関する理解など、私も勉強させていただいております。

創価教学随想

様々な創価教学に関する資料を公開されており、意見を述べられています。
大変に参考になるので、頻繁に拝見しております。

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