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学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、バリ活にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

共産党はかつて「真の愛国政党」を掲げていた:『人間革命』の時代を学ぶに当たって

今週から『人間革命』の第1版と第2販の読み比べを始めましたが、それに伴い、「『人間革命』の時代背景」について勉強し直そうと思い起ちました。
そこで小熊英二の『民主と愛国』を少しずつ読んでいく事を決めました。人間革命の比較検討に、日蓮遺文の再読、創価学会会則の検討と、やりたい事は山積しておりますが、ビジネス本の読書や資格試験の勉強に忙殺されるなんて、社畜そのものです。

私の母方の家系は早死にの傾向が見られますので、もしかしたら私もあと5年くらいでポックリ逝ってしまう、なんて事も十分考えられます
「人生80年、読書は老後にゆっくりと」なんて悠長な計画を立てずに、若いうちにしっかり勉強したいと思います。

共産党はかつて「真の愛国の党」を掲げていた

さて、まず著者の小熊英二ですが、東京大学農学部を卒業後、29歳まで岩波書店に勤務し、その後東京大学大学院で歴史社会学(仮)を専攻。『「日本人」の境界』や『1968』など日本ナショナリズムや政治思想などの歴史に関する名著を量産しています。原発や安保関連法でも積極的に発言しておりましたので、その関連で知った人もいるのではないでしょうか。
私も大学時代に親しんだ、心から尊敬する学者さんの1人です。

この『民主と愛国』のテーマは、「戦後日本におけるナショナリズムや公をめぐる言説の変動を検証する」というものです。
こういうとなんだか難しそうな感じなので、一例を挙げて説明します。

「愛国」という言葉があります。安倍さんが大好きなこの言葉は、自民党が掲げる憲法草案において、必要不可欠な概念になっています。
この「ザ・保守」というイメージのある言葉、実はかつて日本共産党が使っていた事があったのです。共産党は戦後、自分たちの事を「真の愛国の党」であると自認していたのです。

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今日の共産党といえば、「アベ政治の言う愛国は、戦前への回帰だ!」なんて主張がピッタリの党ですので、彼ら自身が「俺たちこそ真の愛国者だ!」って言っていたなんて、驚きですよね。
しかし彼らに対して、「お前らも愛国って言っていただろう、だったら自民党改憲草案に賛成しろ」なんて言ったとしても、議論は紛糾するだけでしょう。

なぜ、こんな事が起きてしまうのか。
それは、同じ「愛国」という言葉でも、その発話者の全く違う「心情」を表しているからです。

戦後間もない頃の日本共産党が叫んだ「愛国」は、「壊滅的な敗戦からの日本の再建」という時代状況の中で、彼らなりの政治的信念の発露だったのです。
これは、経済の新自由主義化が進行し、従来の安全保障環境が変化する今日の世界において、「日本大好き」集団である自民党が掲げる「愛国」とは、全く異なるものです。

しかし、それは「愛国」という全く同じ言語によって表現されてしまう。
言語の字面だけを見ていては、その思想を読み解く事はできない。
そこで必要になるのは、その時代の思想状況や言説構造を分析し、「愛国」や「民主主義」、「国民」といった言葉を、時代の文脈の中に位置付ける事です。

「心情の変化」と「言説構造の変化」

小熊英二が『民主と愛国』の中でしている研究も、そのような試みです。
それは、太平洋戦争という「言語を絶する」経験をした知識人が、その「心情の変化」を表現するための言葉を模索した結果どのような言説空間が生じたのか、明らかにする事です。

小熊が「言説」だけでなく、「心情」という言葉を使っているのには理由があります。
先ほど、「愛国」という言葉を、今日の自民党と戦後の共産党、どちらも使用していた事を述べました。
しかし、「愛国」という言語は共有されていても、その背後にある「心情」は全く異なるものです。そういった言語の分析だけでは明らかにならない、残余の部分を知るために、「心情」という概念が必要になるのです。

さらに小熊が指摘している点で興味深いのは、たとえ「大戦争」のような経験を経たとしても、人々は簡単に「発想の転換ができない」という事です。
つまり、既存の言語では表現しきれない心情を抱えていながらも、全く新しい言語体系を構築する事はできない。ゆえに、旧来の言語を用いて、新たに生じた「心情」を描こうとするのです。
例えば、「アメリカ帝国主義打倒」を掲げて赤旗を担ぐという行為は、「鬼畜米英」という戦中の風景とどこか似ている、というものです。

知識人の思想を「集団の心情」として読む

小熊の研究のもう一つの特徴は、知識人の思想を主な研究の対象としている事です。
これだけ聞くと、「大衆から乖離している」「一部の特権的な人間を研究しただけ」と批判されそうですが、そうではありません。

小熊が扱っているのは、同時代を生きた人々に広く歓迎された知識人の思想です。それらが広く支持を得た理由は、その時代を生きた人々が共有していた「集団的な心情」を学問的な言葉で表現したからでしょう。全く大衆から乖離した思想を説いても、支持される事はありえない。ゆえに、彼らの思想を研究する事は、その時代の「集団の心情」を知る事にもなるのです。

私はこの小熊の方法論に触れた時、有吉弘行を思い出しました。
その毒舌で一世を風靡し、今やその位置を確固たるものとしたように見える彼ですが、決して有名人を口汚く罵っていただけではない。
有吉の毒舌を見て笑う時、私たちは「わかる!わかる!」と、まるで自分が思っていた事を代わりに言ってくれたような気持ちになります。つまり、全く共感できない「悪口」ではなく、広く社会に共有されているような「人物評」を、有吉は先鋭的な形で表現している。だから売れたのです。
これは、BUMP OF CHICKENに熱中する中二病罹患者や、西野カナに涙を流す恋愛中毒者にも言えると思います。

ニーチェのような「変態」をその時代の「大衆感情の表現」などと言ったら滑稽です。
数年前に「ニーチェの言葉」なる本が大流行しましたが、はっきり言ってあれはニーチェではなく、そこらにある自己啓発本です。
本当の意味で、ニーチェ思想が大流行する社会なんて、想像しただけで恐ろしい。
国民の9割は精神疾患を患い、狂人が町中をうろつく。「19人殺し」なんて事件は、ニュースにすらならない。そんな世界でしょう。
とはいえ、「ニーチェの言葉」が流行るような今の日本よりは、幾分生きやすいかもしれませんが。

創価学会研究への応用の可能性

話が逸れましたが、この小熊の方法は、創価学会研究にとっても非常に示唆的です。

私も含めた創価学会員は、池田名誉会長の著作を教条的に読みすぎてきました。別にそういった読み方を否定するわけではないのですが、池田名誉会長も「時代の子」です。当然その時代の状況に制約される存在であり、時代との関連・緊張関係の中でその思想を読まなければ、その本当の意味もわからない。また、池田思想がいかに「先駆的」であったかという事も、到底評価できないのです。

同じ事は、日寛思想にも言えるでしょう。
私の親世代の学会員には、日寛好きが非常に多いのですが、その読み方には多くの疑問があります。
なぜ宗祖でもない、1人の大石寺僧侶をそんなに重用するのか。宗門からの分離独立前なら仕方ないと言えますが、未だに彼の言葉を「御聖訓」のように読んでいる理由がよくわかりません。日寛思想は、日蓮思想解釈としてはかなり問題があります。今日の文献学的な方法からすると到底受容不可能な「文底読み」を採用するには、「日寛系日蓮宗」という新しい一派を設立しなければ駄目でしょう。創価学会がその道を進む必然性は、どこにもないと思います。

しかし、創価学会は2014年の会則変更で、日寛教学を取捨選択していく方向性を打ち出しました。一部、引用しておきます。

「日寛上人の教学には、日蓮大聖人の正義を明らかにする普遍性のある部分と、要法寺法主が続き、疲弊した宗派を守るという要請に応えて、唯一正当性を強調する時代的な制約のある部分があるので、今後はこの両者を立て分けていく必要がある」

これは、江戸時代という時代的制約と、「護教」という彼が取らざるをえなかった目的の中で日寛を理解しようという試みであるといえるでしょう。
私は、日寛という思想史的に見て高評価する理由のない人物が絶対視されている創価学会の風潮に懐疑的でしたので、この点では会則変更を評価しています。
今後、創価学会教学部がどれだけの学術的批判に耐えられる日寛解釈をするのか、非常に注目されるところです。

とはいえ私は、日蓮正宗から独立した今、創価学会が日寛教学を採用する理由は「会員への配慮」以外にはないと考えています。ですので、学会本部は早晩、日寛教学を廃棄するのでは、と予想しています。つまり会則変更での日寛教学の「取捨選択」宣言は、「日寛教学の段階的廃棄」の第一歩であるということです。
これについては、また別記事にて詳述したいと思います。

「日本人の心情」の表現としての創価学会思想

長くなりましたが、もう1点。
小熊は、丸山眞男大塚久雄竹内好吉本隆明といった思想家を、日本人の「集団の心情」の表現として読んでます。
これは、創価学会についても言えると思います。

学会員といえば、社会の中ではマイノリティであり、「何だか危ないヤツら」として認識されてきました。
しかし、創価学会が公称827世帯にまで拡大した歴史を見るとき、創価学会の主張は決して日本人のメンタリティから乖離していたものでないことがわかります。
「わかりやすい現世利益を説いたからだろ」と言われるかもしれませんが、私はそれだけに還元されないと思います。

「世界の先駆的な思想」「普遍的な真理を説いた思想」として、学会員は池田思想を読みがちですが(私もそうです)、泥臭い生活感覚丸出しの庶民思想を体現したものとしてそれを読むとき、「日本人の心情の代弁」としての池田思想が見えてくるのかもしれません。

ともあれ、「『人間革命』が書かれた時代を学ぶ」、「創価学会研究の方法を学ぶ」という2つの事を意識して、少しずつ『民主と愛国』を読んでいきたいと思います。

本連載の目次一覧は。下記をご覧くださいませ。

sanseimelanchory.hatenablog.com

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