学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、バリ活にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

日蓮の本尊義の鳥瞰図(日蓮遺文を「再読」する番外編)

日蓮思想をめぐる議論は様々あるが、その第一は本尊論である。
これは創価学会員にとっても非常に重要である。なぜなら、今日学会が「謗法教団」として攻撃する日蓮正宗との論戦において、本尊義は一大論点となっているからである。

1991年に創価学会が分離独立して以降、自前で本尊を会員に下附することになった後や、2014年に学会が会則を変更し、「本門戒壇の大御本尊」を授時の対象から外した後には、日蓮正宗ならびに顕正会からの批判が殺到した。

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「本門戒壇の大御本尊」を一大秘法とする説を主張しているのは、日蓮正宗ほか一部の教団だけであり、それを受時の対象から外したからといって、日蓮系の教団としては何の問題もない。しかし創価学会はこれまで、「本門戒壇の大御本尊」を自分たちの正統性の根拠として、他教団を激烈に攻撃してきた。「日蓮正宗の教義に依存していたからやむをえなかった、学会は本来寛容な団体だ」と路線転換したように見えるが、果たして「やむをえなかった」という姿勢であれ程過激な姿勢をとる事ができるのか、私には疑問である。また、一大秘法思想を信仰させてきた会員にも動揺が走った。日蓮遺文に基づいた教義論争よりも(日蓮遺文から一大秘法説を証明するのも完全否定するのも困難)、このような「自語相違」への批判の方が多勢を占めているように思われる。

私は2014年の会則変更に賛成しているが、学会本部の「全ては日蓮正宗のせい」というような姿勢には疑問を感じている。「本門戒壇の大御本尊」を授時の対象から外したのは、大石寺教学から脱却して自分たちの教義的正統性を証明するため、布教活動の円滑化のため(よく言えば世界広布推進のため)などだと思われる。しかし、そういった教団にとっての都合を、全て「日蓮正宗が大謗法の教団と化したから」だとするメンタリティは理解しかねる。そもそも、日蓮正宗との分離独立騒動の際にも、「日顕という極悪法主が出て血脈が途切れた」という説明が会員になされた。このような「絶対悪」を作ってそれを攻撃し、自分たちの変節を正当化する手法は、どうしても好きになれない。
客観性を擲って、「創価学会の事は嫌いになっても、池田先生の事は嫌いにならないでください」系の学会員を自称する私の感情を晒すならば、全ての責任を池田名誉会長に押し付けてきた歴史を反省すべきだと思うのである。

「過去を反省できない」ーこれは、創価学会、そして公明党にも共通した悪い体質だと私は認識している(これについてはまた別記事にて仔細に考察する)。

話が逸れてしまったが、「本門戒壇の大御本尊」を巡る議論は、日蓮の本尊義の中でもかなり狭い、特殊な議論である。日蓮宗を見ればわかるように、そもそも釈尊仏像を本尊とするか、曼荼羅を本尊とするかで、何百年も争われている。
そこで、日蓮の本尊義を巡る議論を概観し、その鳥瞰図を知ることが必要であると考える。今日の学会は日蓮正宗との神学論争ばかりしているが、せっかく分離独立したのだから、もっと日蓮思想を巡る様々な議論を見るべきだと私は思っている。学会本部の教学部のエリートたちは、既にかなり高度な研究をしていると友人からは聞いている。広く日蓮の教義に関する諸説を学ぶことは、今後どんな教義が本部によって打ち出されても動揺しない準備にもなるだろう

そこでここでは、人本尊と法本尊を巡る様々な議論を、いくつかの著作・論文を見ながら考察してみたい。ちなみに私は、日蓮はその思想遍歴において人本尊と法本尊の間を揺れ動いたが、晩年には法本尊優位に行き着いたのだと解釈している。

本尊論の全体

先述の通り日蓮の本尊論は、その本質が「人本尊」か「法本尊」かというだけで、議論がゴマンとある。さらにその本質が物質化した形態も、様々である。
「人本尊」とは仏や菩薩などの人格的なものを本尊とするが、「法本尊」は法を本尊とするものである。
鈴木一成は、その本質と形態を以下のように分類している。

①人本尊

釈迦一尊(A)➡︎久遠実成の釈尊
一尊四士(B)➡︎久遠本仏を中心に、地涌の四菩薩を加える。
二尊四士(C)➡︎一尊四士に多宝如来を追加。

②法本尊

首題本尊(A)➡︎中央に南無妙法蓮華経の七字を書かれた本尊。
曼荼羅(B)➡︎十界勧請の大曼荼羅
一塔二尊四士(C)➡︎題目宝塔を中心に、二尊四士が並列。

私のような創価学会員にとって馴染み深いのは、曼荼羅(②ーB)だけである。これは、仏界から地獄界までの十界の代表が配されていることから、「十界勧請」の形式をとっていると言われる。それは妙法蓮華経の塔中の左右を釈迦と多宝の二仏が座を占め、さらに地涌の菩薩のリーダーである四菩薩が脇を固める。文殊・弥勒なども眷属として位置し、万民や十方の諸仏も大地の上に座する。

首題本尊(②ーA)は、創価学会員の私には見慣れないものであるが、中央に南無妙法蓮華経の七字を書かれた、「略式本尊(そう考えるとわかりやすいので私はそう呼んでいる)」である。どうやら初期日蓮が図顕して門下に与えていたようであり、曼荼羅に慣れた私からするとかなり物足りなく感じる(ネットで検索すると出てくる)。どうやら日蓮曼荼羅は、年を追うごとに発展していき、その形態も様々なようである。これについては詳細は別記事で考察したいが、私は「観心本尊抄」以降の曼荼羅が「本門の本尊」であると信じている。

釈迦一尊(①ーA)とは、文字通り釈尊の仏像を本尊とするものである。一尊四士(①ーB)とは、釈尊が「本門寿量品の釈尊」であるとし、それを小乗や大乗仏教釈尊の仏像と差別化するために、地涌の菩薩のリーダーである四菩薩(上行菩薩など)を脇に置くものである。二尊四士(①ーC)とは、一尊四士に多宝如来を加えたものである。

一塔二尊四士(②ーC)は、南無妙法蓮華経と書かれた宝塔を中心に二尊四士が脇を固める。二尊四士と似ているが、あくまで題目という法が本尊である。

日蓮遺文における本尊義

問題は、日蓮がその著作の中で本尊についてどのように語っているかであるが、これは非常に解釈が難しい。法本尊優位とも、人本尊優位ともとれる表現が混在しているからである。どうやら日蓮宗ではこの人法勝劣をめぐり、何百年も議論をしているようである。
学会3世である私は、「身延は本尊で迷走している」と教えられてきたが、日蓮遺文を読むと、なる程、確かに「迷走」する理由もわかる。これは非常に解釈が難しい。望月歓厚などは、「日蓮遺文から一義的な本尊の形態を結論することは不可能」というような論文を書いているが、それを言ったらお終いだろう思う。
また、学会が教義面において長年依存してきた(し続けている)日蓮正宗でも、曼荼羅だけでなく日蓮御影も本尊とされているようである(『富士宗学要集』より)。

伝統仏教団体の教義から自由な在家集団の一会員である私にできるのは、日蓮遺文を虚心坦懐に読むことである。
長くなってしまったので、次回の記事で日蓮遺文を年代順に読んでいきたい。

(続く)

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