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学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、バリ活にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

国家神道を「教育」と「宗教」から考える:池田名誉会長は「国家神道」の何に反対したのか②

(本記事は「国家神道」について考察している連載記事の第2回に当たります。第1回は以下。)

sanseimelanchory.hatenablog.com


前回の記事において、国家神道についての定義づけを試み、それを日本中心主義的な教義面と神社神道の組織化という制度面から考察しました。
今回の記事において考察するのは、「国民への教化」という側面です。これは『国家神道と日本人』で島薗進が強調していることですが、宗教・思想の歴史を考察する際には、観念や実践がどのような方法で流布したのか、また、人々がそれをどう受け止めたのかという観点からの研究が非常に大切です。

国民への教化として、「教育」「マスコミ」「儀礼」など、様々なアプローチが可能ですが、ここでは「教育」を取り上げたいと思います。そして、それらの国策を「上からのナショナリズム」とするならば、「下からのナショナリズムと呼べるような宗教界の動きも取り上げてみます。大本と日蓮主義、天理の3つです。
「教育」と「宗教界」の2つを取り上げる理由は、それが戦後の創価学会を考察する上で非常に重要だと考えるからです。現在『人間革命』の初版・第2版を読み比べる連載をしています
が、戸田会長並びに池田名誉会長の運動は「戦前日本へのアンチテーゼ」という側面が非常に強い事がわかります。その池田名誉会長が「戦前日本へのアンチテーゼ」として推進した事業として、布教活動はもちろんのこと、創価教育の学舎の創立が挙げられます。
この戦前日本の国家神道における「教育」と「宗教界」の動きを見ることにより、戦後の創価学会の活動を評価する新たな視座が得られるのではないかと期待しています。

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教育から考える国家神道:「学校行事」と「修身」

明治政府は当初、宗教団体(神社)を通じた国体論の国民への浸透を目指していましたが、途中から学校教育を通じた教化を目指すようになります。ここでは、「学校行事」と「修身」教育について考えてみます。

天皇崇敬の学校行事の整備は1880年代から推進されていき、1891年には「小学校に於ける祝日大祭日の儀式に関する規定」が発布されます。これを読んでみると、紀元節や元始祭といった皇祖皇宗を祝う祭日には、全国の学校で儀式を行うべきだと書かれている。その儀式とは、天皇皇后両陛下の御影に敬礼して万歳し、校長が「教育勅語」に沿った教えを垂れて祝祭日の意義を説明する。最後に君が代を斉唱するとあります。
この統一された儀式の形態が全国に広まったのです。

閑話休題
私には大正生まれの祖父がおり、最近かなり記憶力が怪しくなってきていますが、「教育勅語」は完全に暗記しています。もはや肉体に染み込んでいるのかと、ぞっとしたことがあります。
君が代」にも思い出があります。私は、8月15日に靖国神社に「見学」に行ったことがあります(「参拝」ではありません)。そこに来られていたいわゆる「右翼」とされる人たちの斉唱する「君が代」を聞きましたが、あんな凄まじい唱歌は聞いたことがありません。恐ろしささえ感じてしまいました。しばらくの間、日の丸を見ると、あの時のことを思い出して少々ぞっとします。多分私は、右にはなれないのだと思います。

さて、続いて「修身」教育ですが、これは「道徳」のようなものでしょう。
この「修身」を語る上で欠かせないのが、靖国神社の存在です。元来国家神道は、その起源たる記紀神話が天皇支配を正当化するイデオロギー的な色彩が強かったことからもわかるとおり、「死」といった宗教的課題に関する思想には深みがありません。平田篤胤は「神道における死後観」を展開していますが、明治政府のイデオロギー生成に多大な役割を果たした津和野藩の大国隆正などは、君臣関係を強調するような倫理的リゴリズムを唱導しています。

この「国家神道」の弱点を補う存在ーそれが靖国神社です。他の神社が皇室祭祀を中心とした祭礼を扱うのに対し、靖国神社の守備範囲は、「若くして死んだ兵士の慰霊」です。これは神話などとは次元を異にする、人間を強く捉えて離さない魔力を持っています。現在、「『人間革命』の時代を読む」と題して、戦後日本の思想を学んでいますが、最重要キーワードの1つが「死者の記憶」でした。
つまり「死」という究極の宗教的課題に対する答えを、国家神道が「公」の領域を超えて日本人に与えた、それが「御国のために死ぬ」という大義だったということが出来ます。
靖国に関しては、また終戦記念日が来る前に、大きく取り上げたいと考えています。

当時の修身の教科書に引かれている一節を引用しておきます。

今までに日本は度々よその国と戦争をしましたが、その度毎に敵と一生懸命戦って、天皇陛下に忠義をつくし、お国のためになくなった方が沢山あります。この陸海空軍の兵隊さんを神様におまつりしたお社なのです。(中略)お国のためになくなった方々をおまつりするのですから、私達も是非おまゐりしなければいけませんね。

この言葉に表れているように、靖国神社への参拝は重要な学校行事の1つにも位置付けられていました。

君のためくにのためにつくした人々をかやうに社にまつり、又ていねいなお祭をするのは天皇陛下のおぼしめしによるのでございます。わたくしどもは陛下の御恵みの深いことを思ひ
ここにまつつてある人々にならつて、君のため国のためにつくさなければなりません。

靖国神社」は「修身教育」の中核に位置付けられ、「国のために死んだ」人を神聖化し、英霊のように「国のため君のために死ぬこと」に最大の宗教的・倫理的価値を与えたのです。

「下からのナショナリズム」ー大本、天理、国柱会

今年、中島岳志島薗進が対談集を発刊しました。その内容は、戦後から現代に至るまでの歴史と、明治維新から終戦までの歴史を重ね合わせ、その類似性を強調するものでした。その議論の説得性については私はなんとも言い難いのですが、参考になる点は大いにありました。その本の中で強調されていたのが「下からのナショナリズム」でした。
これまで見てきた国家神道の教義や制度、教育などの問題はすべて国家によって実行されたもの、つまり「上からのナショナリズム」でした。それに対し、宗教的ナショナリズムの発露として巻き起こる国民運動が、島薗・中島のいう「下からのナショナリズム」です。
その代表例として、3つの新宗教運動、大本・天理・日蓮主義を見てみます。

大本教

大本教は、出口なおという女教祖の神がかりから始まった教団ですが、大きく発展するのは神職資格を持つ出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)の加入後です。王仁三郎の加入後、大本は教団名を「皇道大本」に改めます。「皇道」とはこれも難しい概念ですが、前回記事を取り上げた「日本型政教分離」を象徴するような語であります。

つまり、「皇道」とは万人が従うべき普遍的な「道」である。そしてそれと同時に、仏教儒教キリスト教などあらゆる教えを包摂する「寛容性」も強調されます。私には、この寛容性は、万人に服従を要求する「厳格性」を美化しただけに思われます。
このように神道に限りなく接近し発展した大本教でしたが、その神話解釈が天皇否定につながるとみなされ、昭和になって大弾圧を被ることになります。

天理教

天理教もまた、農家の主婦だった中山みきの神がかりから誕生した教団です。私は神がかりがあまり好きではないですが、天理の初期思想には着目すべき点があると考えています。中山は、「こふき」という文書に集約される創造神話を説きますが、記紀神話と大きく異なっていることがあります。それは、「人類の誕生」を展開し、平等な世界を説いたことです。記紀神話は天皇支配を正当化する目的に編纂された側面が強いので、その創造神話の主役は、神々とそれに連なる天皇だけです。民衆は、「国土」の付属物の草のように描かれている。それに対して天理の神話は、人類をみな同じ親神から生まれた兄弟であるとする神話を説きます。このような、国家の中からは生まれない、民衆の論理に基づいた思想を展開することこそ、宗教の役割であると私は考えています。
しかしこの天理は、行政やマスコミ、宗教界から大批判を浴び、これはたまらないと政府に擦り寄ります。日露戦争に際しては多大な寄付を行い、その根本教義も国家神道的なものに変更しました。
このように国家とは異なる原理を持つ宗教も、天皇国家の枠内にはめられ、国家神道イデオロギー浸透の役割を与えられていきます。

日蓮主義

そして、国柱会などに代表される日蓮主義です。戦後の日蓮研究を見ていると、戦前の国家主義日蓮解釈に反論するという側面が大きいことに気づかされます。
日蓮主義者の代表格は、国柱会を組織した田中智学でしょう。彼の『世界統一の天業』などを見ると、日本の国体と日蓮の目指すものの一体性が主張され、日蓮仏法に帰依した天皇と日本国を中心に世界統一をするという、恐ろしい思想が説かれています。石原莞爾宮沢賢治が彼に影響を受けていたことは有名ですし、牧口常三郎国柱会に出入りした時期があったようです。2・26事件に連座した北一輝日蓮主義者でした。
創価学会がこの日蓮主義をどのように評価しているのか、私は上手く答えられません。しかし、「あれは日蓮大聖人を利用しただけだ」「日蓮仏法をわかっていない」などの評価は短絡的であると思います。オウム事件の際に、様々な教団が「あれは宗教ではない」と非難しましたが、そのような総括はよくない。そこに宗教が共通して持つ危険性を見出すべきだと思っています。
私の考えでは、宗教とは世界の外部の「他者」に出会わせてくれるものです。宗教を信じる人間は、現世的な世界内部のものから逸脱して、神や仏、普遍的法といった「他者」と出会うことになります。そしてその「他者」との出会いの結果得られた観念を、現世にフィードバックするのです。
このフィードバックが上手くいけば、利己主義ではなく利他主義を、拝金主義ではなく倫理主義を、国家主義ではなく人間主義を、といった社会的に有用な思想・行動を生み出すことができるかもしれません。しかしそれが失敗すると、地下鉄サリン事件日蓮主義といった凄惨な結果を生み出しかねません。「創価学会は別だよ」と言って自教団は例外にしたいと考えたくなりますが、それは誤魔化し以外の何物でもないと私は考えています。

(続く)

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 【参考文献】

ポストモダンの新宗教―現代日本の精神状況の底流

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国家神道と日本人 (岩波新書)

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道徳教育の歴史―修身科から「道徳」へ

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日本宗教史 (岩波新書)

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講座日蓮〈4〉日本近代と日蓮主義 (1972年)

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靖国問題 (ちくま新書)

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靖国神社の祭神たち (新潮選書)

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