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学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、バリ活にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

「人間革命」をスピリチュアルな言葉にしないために:「政治と文学」論争から考える

哲学・思想史

「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げさらに全人類の宿命の転換をも可能にする」

『人間革命』冒頭の有名な一節です。数ある池田名誉会長の言葉の中でも、これが一番有名かもしれません。またこの「人間革命」の思想は、創価学会の中でも中核を占めている事に異論はないでしょう。
しかし、この人間革命という言葉が個人の信仰実感を語るものに留まっており、思想史的な価値が明らかにされていない事は、私は結構残念に思っています。いくら「人間革命」と叫んだとしても、似たような思想は掃いて捨てるほどあり、戦後日本ではその傾向は特に顕著です。戦前のファシズムへの反動として、「人間革命」的な、個人を変革しようという発想が登場するのは極めて自然であり、それだけではなんのオリジナリティも無い。
「他の思想とは全然違う。唯一の正法たる日蓮大聖人の仏法による真の人間改革なのだ。それを現実の人生・運動で展開したのが池田先生なのだ」というような、創価学会の中でしか通用しない位置付けしか与えられていないのが現状では無いでしょうか。

本日は、「『人間革命』の時代を読む」と題して、荒正人を中心に、戦後の政治と文学をめぐる論争を見てみます。本問題を考察するのが重要であると考える理由は、荒正人らの『近代文学』で活躍した文学者たちが、「個の改造により、国家を良くする」という発想を持っていたことです。さらに荒正人は、当時の思想世界で忌避されていた「コスモポリタニズム」的な思想をを唱えていますが、これは『人間革命』冒頭の「全人類の宿命の転換」につながるのではないか。
本稿は、「人間革命」の思想史的考察の1つの準備となります。

《本稿は連載企画「『人間革命』の時代を読む」の一部です。連載目次一覧は下記。》

sanseimelanchory.hatenablog.com

「政治」と「文学」どちらが上か?

これまで述べてきたとおり、戦後約10年間の日本共産党の精神的権威は、今では考えられないほどでした。その最大の根拠は、彼らが戦争に反対した唯一の政党だったことです。
この日本共産党と雑誌『近代文学』の論客たちが対立したのが「政治と文学」論争です。

まず、共産党の文学に対する考え方を見てみましょう。社会主義国家を目指す彼らは、それを「文学」といった文化的な営みではなく、「政治」の力によって達成しようとしていました。つまり、「政治」は「文学」に絶対的に優位するものだったのです。
彼らは、文学創作に耽る人間を自己中心的なプチブルと規定し、その根性を改めて「民衆」の中に入り、共産党の目的達成のために創作に取り組むべきだと考えていました。共産党と関係を持ちながら創作をした文学者を、戦前はプロレタリア文学者、戦後は民主主義文学者と呼ぶことがあります。

こうした共産党との軋轢を孕みながら生まれたのが、雑誌『近代文学』です。当時参加していた論者たちは、本多秋五荒正人小田切秀雄などが挙げられます。
本多秋五は、『近代文学』の創刊号において、以下のように述べています。

政治は外律的、文学は内誘的である。

保守反動と罵られる人々の作品であろうとも、芸術的に優れたものでありさえすれば良しとする。

つまり、共産党の主張とは真逆の芸術が政治より大切だという「芸術至上主義」です。本田がこのような極端な主張をしたのには、戦前の文学への失望・反省と、戦後の共産党に戦前の軍部政府との類似性を感じたからだと私は思います。

戦前の文学者には、時流に妥協して戦争賛美の文章を書いた人間が大勢いました。戦前の帝国主義という「政治」に自らの「文学」を屈服させ、未曾有の敗戦を招いたわけです。本多が戦時中にどんな文章を書いていたのか私にはわかりませんが、少なくとも正義を貫いたというような満足感はなかったのではないか、そこに自分の「文学」に対する反省と、戦時中の文学者への失望があったのではないかと思われます。

そして、この「政治」に「文学」を屈服させるという基本姿勢は、戦後の日本共産党も一緒です。共産党もまた、彼らの政治的理想実現のために「文学」を動員している点では、戦前となんの変わりもない。相違点を挙げるとすれば「やろうとしている政治が正しいからいいのだ」という、共産党内部にしか通用しないものしかありません。

「内なる天皇制」の打破:「芸術至上主義」というアンチテーゼ

近代文学』の同人たちが主張したことは、「芸術至上主義」にとどまりませんでした。一点付言しておくべきことは、『近代文学』同人が、決して反共主義ではなかったことです荒正人小田切秀雄などは共産党員でした。彼らは戦時中の日本を見て「幻滅」するあまり、「政治」を無視することがどうしてもできませんでした。
「芸術至上主義」とは、政治的無関心の表明ではなく、それが1つの政治的立場であったのです。それは、「文学」によって自己の内面の改造によって、社会を変革するという主義主張だったのです。

それが象徴的に表れている言葉として、「内なる天皇制」の打破があります。荒正人は、『近代文学』における誌上座談会で次のように語っている。

文学者は政治の事だから俺は知らんぞと言って看過したり、或は共産党に一枚加わって天皇戦争責任を追求(ママ)するーそういう態度においては文学者の戦争責任は絶対に追求できないんだよ。文学者が文学的に天皇戦争責任を追求するならば、自分の内部にある『天皇制』に根ざす半封建的な感覚、感情、意欲ーそういうものとの戦いにおいて初めて天皇制を否定する事ができ、究極において、近代的な人間の確立という一筋の道が開けてくるんじゃないか。

つまり、プロレタリア文学者(民主主義文学者)のように、共産党との関係において、文学活動をしても、天皇制という日本の病根を退治する事はできない。それは制度的な問題ではなく、日本人の内面に根ざしたものであるから、「内なる天皇制」を打破して近代的人間を確立しなければいけない。それが文学という人間の内面に関係する営為を職とする文学者に課せられた使命だ、ということです。

この荒正人の主張に、丸山眞男大塚久雄との類似性を発見するのは、私だけではないでしょう。現に荒正人など『近代文学』の同人たちは、丸山・大塚と対談し、一定の見解の一致をみているようです。
丸山については、過去記事「」などで何度もその思想を振り返ってきたので、ここでは大塚の思想を簡単に概観しておきましょう。大塚といえば、「文系の大学1年生がハマる思想家ランキングベスト10」に入るのではないかと私は思いますが、その名前はマックス・ウェーバーと強く結びついています。

彼は、ウェーバーの思想を日本に応用し、「近代的人間類型」を日本に定着させようとしました。ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(プロ倫)では、宗教的倫理に基づいて職業に従事する個人の「自発性」が、資本主義社会の合理的発展に資する様が描かれています。
大塚はこのウェーバーの思想を援用して、日本人が「自発性」な「国民」として、国民経済の発展に資することを主張しました。これは、丸山の思想とパラレルと言ってもいいと思います。丸山は、日本人が真の「個人主義者」たるを追求することによって真の「国家主義」を達成せんとする「国民主義」を主張しました。両者は政治・経済の違いはあれど、日本に「近代的個人」を確立しようとしたという一点で重なり合っているのです。

戦時下に対する悔恨

荒正人小田切秀雄などの『近代文学』同人もまた、丸山・大塚と同じ「近代的個人」の確立を文学というフィールドで達成しようとしたと評価する事ができます。
彼らが日本共産党のように制度的変革に向かうことなく、「内なる天皇制」のような内面の問題に向かったことは、彼らの戦時中の自分に対する悔恨と不可分です。

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荒正人は戦時中、マルクス主義に基づいた文学研究会を催したことから、投獄された経験を持っています。そこでの経験を彼は、悔恨とともに回想しています。獄中において「囚人のドン」のような立場に立っていた彼は(この表現が正しいか自信がありませんが)、他人の飯や毛布を奪い、利己主義に生き抜いていたと言います。日本人の戦場における残虐行為も、自身の略奪行為と連続的に捉えられるものだったのです。

田切もまた、文学者の戦争責任の追求を激しくしますが、それは自己責任の糾弾でもありました。

戦後の日本人には、「戦争責任」という共通した経験がありました。ゆえに、個人の次元における「戦争責任」の追及は、他の日本人の「戦争責任」の追及にも等しく、さらに「日本国の変革」にもつながるものだったのです。それこそ、彼らが呼ぶところの「内なる天皇制」の打破だったのです。
丸山や荒正人の文章を読んでいると、その迫力に圧倒されそうになります。それは、戦時中の日本の問題を、戦後という安全地帯から客観的に観察したのではなく、戦後も自分の精神に巣食う問題として主体的に取り組んだ「真剣さ」が伝わってくるからだろうと、私には思われます。それに対して、当時の日本共産党の文章はプロパガンダとしては面白いですが、あまり響いてきません。これは、今日の共産党社民党が叫ぶ「格差是正」や、シールズが歌う「戦争法制絶対反対」が全く感動を呼ばない感覚と似ています。

日本共産党の思想的貧困

しかし、こうした『近代文学』における「政治と文学」論争が注目を集めたのも、せいぜい1947年までで、尻すぼみ的に収束しています。そのきっかけの1つが、「東大細胞」における分裂騒動があります。「細胞」とは政党の基礎組織のことで、「東大細胞」にはあの渡辺恒雄(愛称:ナベツネ)も所属していました。

この「東大細胞」で、『近代文学』の影響を受けた革新派と、党中央に忠実な公式派が内紛を起こし、分裂にまで至ったのです。この背景には、共産党が予定していたゼネストが占領軍によって中止され、「革命は無理なんじゃないか」という空気が蔓延して共産党の求心性が低下したことがあります。共産党は、この東大細胞での騒動を重く見て、学生党員を大量に除名にします。先述のナベツネも党を追われ、読売新聞に入社しました。さらに、『近代文学』をブルジョワ思想に過ぎないと批判するキャンペーンも、大々的に実施しました。
「政治と文学」論争は、結局深まりを見せることなく、いつの間にか立ち消えとなってしまったのです。

私はこの「政治と文学」論争を見るとき、日本共産党の根深い病理をかんじざるをえません共産党幹部が戦争に反対して非転向を貫いたという「非転向神話」は、過度な自己陶酔を生んだばかりで、戦後の運動にとってかなり否定的に働いたように見えます。
まず彼らは、戦前の失敗を振り返る事が全くなかった。戦前の共産主義運動が挫折したことも、時の政府という絶対悪によって弾圧された結果だと、安易に総括してしまった。その反省なき回顧は、戦前に自分たちが展開した活動の問題点や、戦時中に転向した多くの党員を覆い隠して成立しているものでした。さらにその神話は、現在の自分たちの理論や運動を絶対化するものとなり、それに反抗するものを除名処分にするという共産党の暗黒史を招いたように思われます。

またそれは、戦争を経験した国民と、非常に乖離していたように思います。彼らは戦争を経験し、深い悔恨を抱いていた。その「悔恨」を共産党の自画自賛的な非転向神話は、受け止められていなかったのだと思います。あるとすれば、自分たちの「悔恨」「罪悪感」を覆い隠してくれる正義集団として共産党が機能した場合でしょうか。それは、個人の問題を団体に所属することによって隠蔽し、内面の問題を制度を論ずることによって唾棄せんとする、私からすると「近代的個人」から遥かに程遠い無責任な集団主義のように思われます。
これに近い主張として、「創価学会日蓮正宗)という謗法の団体に所属している時点で、与同罪だ!」というものがあります。こういう主張を真面目にする方は、21世紀を生きる私には理解不能の中世的世界を生きていると思われますので、正面から議論しても無駄だろうと思っています。

荒正人の「人類」「難民」

最後に考えたいのが、荒正人が使った「人類」「市民」という概念です。これは、池田名誉会長の「人間革命」思想を考える上で非常に重要であると私は考えています。

戦後間もない日本の言論世界では、「市民」という言葉はほとんど使われていないか、使われていても否定的に定義されている事が多いです。今日、「市民」が使われるとすれば、安保法制や9条改憲に反対する「市民団体」が代表的でしょうか。そこでは、国家権力に対する自発的な個人というような意味で使われているように思われます。

しかし戦後日本は大きく状況が異なっていました。
その理由は、「市民」という言葉が、「ブルジョワ(金持ち)」のような意味を持っていたからだと考えられます。
当時の日本の経済的格差や階層格差は、今日からはとても想像できないものでした。まず、農村人口が国民のマジョリティを占めており、彼らを「市民」と呼ぶのは、多くの人にとって奇異に映りました。「市民」とは都市においても、「エリートサラリーマン」や「文化人」、「知識労働者」などを指すのが、一般的な言語感覚に適ったものだったのです。

このような当時の社会状況と言語感覚を鑑みる時、「市民」という言葉が「ブルジョワ批判」に使われることはあっても、今日の日本のように「国家権力に対する個人」のように用いられなかったことは自然であると思います。丸山が「国民主義」や、大塚が「近代的人間類型」という概念は、西洋政治思想における「シトワイヤン(市民)」に非常に近いと思われますが、独自の概念を用いて日本国民について論じた事は、こうした背景があるからだと考えられます。

「市民」という言葉を、「近代的個人」というようなポジティブな意味で用いた数少ない思想家の一人が、荒正人です。これは、「共産党に対するアンチテーゼ」という側面を強調するためだったと思われます。マルクス主義において、「市民」とは「ブルジョワ」という打倒されるべき存在と等置される事が多かったため、あえてそうした用語を用いることによって共産党のあり方に異を唱えたのでしょう。

そして着目すべきは、荒が「人類」と「難民」という概念を「市民」と並べて使っていたことです。

今日でこそ「世界市民主義」「コスモポリタニズム」などといったタームが持て囃されるようになりましたが(その内実は薄っぺらいが)、当時そういった思想は忌避される傾向が強かった。まず共産党は、コスモポリタニズムを「国際市場で金を儲けまくるブルジョワ」のように考えており、「民族」という語を前面に押し出していました。「民族」の強調を除いては、これは今でも変わっていないように思えます。また、丸山眞男も、コスモポリタニズムに批判的でした。これは、新しいナショナリズムを探求した彼の立場から考えれば、非常に自然だと思われます。戦後間もない日本では、戦前を反省して国際主義に立とうという人間は少なく、むしろ新しい日本のあり方、戦前と異なるナショナリズムを構築しようという試みが盛んでした。

そうした時代背景を考える時、荒正人が「人類」「難民」という語を用いたことは、特筆して良いと私には思われます。
彼がその後を用いた理由は、彼がキリスト教の洗礼を受けていたこと、ヒューマニズムを掲げる白樺派の影響、外国人との個人的交流など様々でしょうが、なんといっても彼の獄中体験がそのキーだと私は考えています。
荒は戦中を回想して次のように書いています。

牢獄にゆくか、外国に逃げるか、それ以外に生きた青春を確保する純潔な手段はないように思われた

総動員体制の日本に与することなく、自身の立場を貫くには、投獄か亡命しかなかった。いずれにしても、友人・家族など全ての同胞から逸脱した「難民」にならざるをえなかったのです。それは、丸山的な「国民」とも、マルクス主義的な「階級」とも異なるものでした。

今後の私の研究課題

この荒正人の戦争体験に基づく「難民」思想は、創価学会について考察する際にも非常に重要であると思います。世界市民主義的思想を展開した牧口会長や、地球民族主義を提唱した戸田会長は、どちらも投獄された「難民」だったということができます。
そして、その両会長の系譜上にある池田名誉会長は、人間革命思想を主張しました。
もう1度冒頭の文章を引用しましょう。

「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げさらに全人類の宿命の転換をも可能にする」

「一国の宿命の転換をも成し遂げ」については、丸山などが探求した国民主義に重なる点があると思われます。しかし、「全人類の宿命の転換」は、戦後の新しいナショナリズム探求にはない発想です。それは「日本人」ではなく、さらに普遍的な「人間」「人類」のあり方を探求した思想であるように思われます。

この人間革命思想を考察するにあたり、私には現在以下の課題が思い浮かんでいます。

①そもそも人間革命とは

冒頭で書きましたが、「人間革命」という言葉はあまりに適当に使われているように思います。かくいう私も、この言葉に馴染みすぎて、果たして人間が「革命」するとは何なのか、それと国家や人類との関係は何なのか、はっきりと答える事ができない。もう1度池田思想を読み、この言葉を宗教用語としてではなく、思想として捉え直す必要があります。

②1965年頃の思想状況

『人間革命』の連載が開始したのは昭和39年。その頃、「人類」「世界市民」というような言葉は、どのような文脈で語られていたのか。それは「個人の改造」というような観念と結びついていたのか。つまり池田名誉会長の「人間革命」思想を同時代的な思想と並列した時に、オリジナリティがあったのかという事です。そもそも「人間革命」という言葉は、創価学会の造語ではないので(恐らく東大総長・南原繁が最初に使った)、言葉だけ叫んでも悲しいだけです。①の「人間革命」という言葉の思想的内実に加え、「時代的文脈」の考察も必要でしょう。

③「人間革命」の対抗思想

そして「人間革命」という言葉が、果たしてどういった思想へのアンチテーゼとして唱えられたのかという事です。これは思想を語る時に私が気を付けていることですが、思想とは神様の啓示が降りてくるような、何の脈絡もなく生まれるものではない。何かに対抗する形で生まれるのがほとんどだと思います。例えば、丸山の国民主義思想は、戦時中の日本の天皇制へのアンチテーゼでしたし、荒正人共産党に対抗する形で生まれました。カントは、伝統的形而上学やヒュームに対抗する形で『純粋理性批判』を書き、ヘーゲルマルクスは、近代市民社会に対抗しようとしてその思想を展開した。
果たして、池田名誉会長は、何に対抗して「人間革命」思想を提唱し、運動を展開したのか。私は戦時中の日本にキーがあると考え、現在近代史を勉強中です。

④牧口・戸田会長の記憶の思想化

これは、池田名誉会長が牧口・戸田会長の獄中体験をどのように受け止め、思想化したのかということです。
これは、今日の創価学会で盛んに用いられる「師弟不二」という言葉を語る際にも重要なことだと考えています。私は男子部の先輩などが使う「師弟不二」という言葉が大嫌いです。それは、彼らが神秘的だと批判する「唯授一人血脈相承」と全く変わらない、スピリチュアルな概念になってしまっているからです。
勿論「師弟不二」とは宗教用語としての側面が強いので、神秘化するのは自然でしょう。しかし、そんな側面ばかり強調していると、三代会長の思想は世間から隔絶した「創価学会にしか通用しない秘伝の教義」になってしまうでしょう。
果たして、池田名誉会長は、牧口・戸田会長の思想や人生をどう受け止め、時には否定し、自身の思想を形成したのか。こういった営みを怠ると、3代会長の歴史上の位置付けは、「日本という小国に生まれた宗教団体の教祖三人衆」のようになってしまいます。
今回、荒正人の「人類」的発想は、その獄中経験と不可分だったと論じました。これは、牧口・戸田会長の獄中体験・獄死という歴史を、池田名誉会長はどう受け止めたのかという問いを、私の中に生じさせました。

以上、課題を並列して終わりましたが、これには非常に時間がかかりそうです。私は一介のサラリーマンですので、余暇を使ってこれをやるしかない。恐らく10年くらいかかるんじゃないかと悲しくなりますが、やむを得ません。未熟で無能ですが、少しずつ勉強しながらご批判をいただいて成長していくしかありません。
ともあれ、「人間革命」という言葉を、単なる学会内にしか通用しない宗教的教義にしないこと。そのためにたとえそれが宗教的権威を消失させたとしても、思想史的にそれを意義づけること。これは、非常に重要な課題であると今の私は思っています。

 

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