学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、バリ活にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

『人間革命』における国家神道批判:池田名誉会長は国家神道の何に反対したのか③

「新・人間革命」に見る創価学会の他宗批判

現在聖教新聞に連載中の「新・人間革命」において、宗教社会学者のウィルソンと山本伸一の対談が描かれています。
これについては様々論じることができますが、1つはその他宗批判のスタンスが挙げられます。文面を表層的に読んでいると、「念仏はダメだ」と言っているように見えますが、着目すべき点はそこではないと思います。
とりあえず私が重要だと思う事を、2つ挙げておきます。

山本伸一法華経「唯一主義」ではなく法華経「第一主義」を取っていること。

山本伸一は、日蓮法華経以外の経典も用いていた事を挙げながら、日蓮が他の経典・宗教を全否定したわけではないとしています。これは昨今、そして今後の創価学会の立場を表していると思います。つまり、創価学会だけが正しい「唯一主義」ではなく、他の宗教にも一定の価値を求めるが創価学会が相対的に優れているという「第一主義」をとっているということです。
日蓮を虚心坦懐に読めば、明らかに他宗を全否定しており(不幸の根源と言っている)、他経を用いていたことを理由に、他宗にも寛容だったと結論する事はかなり難しいと思います。つまり池田名誉会長の「第一主義」は、日蓮思想の究明ではなく、創価学会の立場表明だと私は考えています。

山本伸一が「信者に生じる効果」を理由に念仏を批判していること

山本伸一は、念仏に見られる浄土思想が信者に厭世的な人生観を持たせる、と強く批判しています。これは、日蓮が行った念仏批判と大きく異なっています。『守護国家論』などにおける日蓮の念仏批判は。その教義を法華経と対置することによって低いものだとする教理的なものでした。また日蓮の他宗批判は、中国天台の五時八教の教判に基づいて、諸経・経典の優劣を論じるものです。
しかし日蓮の用いた「五時八教」は、今日の仏教学からすれば到底受け入れられないものなので、現代宗教である創価学会がこれを用いるのは時代錯誤でしょう(まだこの誤魔化しは続いており、大いに用いられていますが)。また、「どの教団が釈尊の教えに一番近いか」「大聖人直結の団体はどれか」といった論争は本当に不毛であり、「どこを探しても釈尊日蓮の精神なんてないよ」と言いたくなります(もちろん教団にとっては必要でしょうから、教団職員や御用学者は必死に取り組むべきです)。
そこで池田名誉会長は、宗教が人間にもたらす精神運動に着目しています。これは、宗教研究では非常に重要な視座だと、私は思います。私は、他宗批判をかなり馬鹿らしい試みだと考えていますが、宗教を理解するにあたって、その信者の精神生活に着目する事が重要であることは否定できません。

前置きが長くなりましたが、本日は池田思想における「国家神道」について考えていきたいと思います。上述の「新・人間革命」の考察からわかる事は、他宗教を頭ごなしに否定するのは頭が悪すぎるということです。しっかりと論点を明確にして、批判する対象の何が問題かを明らかにすること。これは「国家神道」という悪の権化のように語られるものについて考察する際にも、例外ではありません。

そういった問題意識に基づいて、これまで国家神道の定義・構成要素について考察してきました。
今回からは、『人間革命第1巻』『21世紀への対話(以下、「トインビー対談」)』『社会と宗教(以下、「ウィルソン対談」)』を取り上げ、その神道批判について考えてみたいと思います。

《本稿は「池田名誉会長は国家神道の何に反対したのか」というテーマの論考の第3回です。第1回・第2回は、以下をご覧ください。》

第1回:そもそも、国家神道とは何か

第2回:国家神道を「教育」と「宗教」から考える

『人間革命』を論ずるに当たって

まず本記事では、『人間革命』を取り上げたいと考えています。
しかし『人間革命』を論ずる時、「トインビー対談」や「ウィルソン対談」には生じない困難が生じます。それは、『人間革命』が小説であるということです。
対談集でしたら、池田名誉会長の発言をそのまま池田思想として解釈して問題ないでしょう。しかし、史実を基にしているとはいえ、『人間革命』はフィクション・作品世界です。主人公も戸田城聖であり、戸田会長が語っていることについて、それを池田思想と読むことは無理がありますし、またそれを戸田思想として読む事にも異論が生じるでしょう。

しかし私は、『人間革命』を、池田思想の表明として読んでいいと考えています。
その理由は、まず戸田会長と池田会長の師弟関係と思想的一体性が強調される創価学会において、池田会長が自身の考えと大きく異なる戸田会長の思想を記述するとは考えられないからです。よって、小説の中に出てくる戸田会長の言葉も、ある程度池田思想に近いものとして解釈して良いのではないかと考えています。
また、これは『人間革命』初版に特に言えることですが、作者である「池田大作」が前面に出てくるのがこの小説の特徴です(私は第2版にはない魅力であるとも思っている)。単なる歴史小説という作品世界にとどまらず、作者が自身の考えを声高に唱えている。この特徴を鑑みる時、『人間革命』は創価学会の歴史を観察者的に記述したものではなく、池田名誉会長が思想を表明した作品であると言っても良いのではないかと考えています。

よって問題がある事は承知していますが、『人間革命』の文章を池田思想の表明として読むことをお許しいただきたいと思います。

GHQの「神道司令」をまず読んでみよう

これまでの連載において、「国家神道」の特徴について、長々と考察してきました。
その特徴の1つは、戦前の日本政府が天皇の神聖性と日本国の優越性を国民に浸透させるために、神社神道を国家機関とし、厚遇したことでした。更には、学校教育を通じて、その教義を国民に浸透させようとしました。

GHQはこれを問題視し、戦争推進のイデオロギー的役割を果たした国家神道を解体。その文書がいわゆる「神道司令」です。『人間革命』について論じる前に、この「神道司令」を読みながら、GHQ国家神道批判を見てみたいと思います。GHQの「神道司令」には、非常にオーソドックスなアメリカ的宗教観が現れていると私は認識しています。それを読むことによって、『人間革命』の神道批判を評価する1つの視座が与えられると考えられます。

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様々な政教分離の形

神道司令」を読む前に、アメリカの政教分離について理解する必要があります。「政教分離」といっても各国色々です。例えばフランスではちょっと前に、ムスリムの女子がスカーフを巻いて登校をしたことが問題になりました。これは、フランスの「ライシテ(非宗教性)」の原則に抵触するというものでした。フランスという国では、「公」と「私」の空間をしっかりと分ける。そして、「私」では宗教を自由にやっていいけど、学校などの「公」では我慢してくださいという、こういう政教分離の形をとっています。けれども、外出時には常にスカーフをしなければならないムスリムからすれば、「公」とか「私」とかいう空間分けは、かなり乱暴で人権侵害に見えるのです。
ちなみに戦前の日本は、「私」の領域で信教の自由を認めて、色んな宗教を信じて良いとしました。しかしそれは、「公」の領域で全国民が守るべき「普遍的真理」である国家神道を遵守することが大前提でした。

アメリカの政教分離の特徴は、何でしょうか。様々挙げられますが、1つは「Seperation of religion and state(宗教と国家の分離)」ではなく、「Seperation of church and state(教会と国家の分離)」であるという事です。アメリカの大統領が就任時に、聖書に手を置く事は有名ですが、つまり完全に宗教を政治の領域から排除しているわけでは無い。教会などの宗派・宗教団体に国家が特権を与えたり、弾圧したり、あまりに接近しすぎることを禁じているのです。
この政教分離策の根本には、「宗教は本来いいものだ」という考え方があります。宗教は人間に活力を与えるいいものだけど、それが国家と癒着して利用されたりすると、とんでもない事になる。だからしっかり分離しましょう、という考え方です。

神道司令」に見るGHQ国家神道批判

このアメリカの政教分離の基本原則を念頭に、「神道司令」というGHQが日本政府に出した覚書を見てみましょう。GHQの文章は、カタカナと漢字が混じっていて非常に読みづらいのですが、ネット検索してみたところ、現代語訳にしてくださっている方がいましたので、それを使わせていただきます。

shibari.wpblog.jp

まずは、この「神道司令」が出された目的を見てみます。

一国家指定の宗教の祭式に対する信仰、信仰告白の直接的あるいは間接的な強制から日本国民を解放するために、戦争犯罪・敗北・苦悩・困窮および現在の悲惨な状態を招いたイデオロギーに対して行われた強制的財政援助から生じる日本国民の経済的負担を取り除くために、神道の教理や信仰を歪曲して日本国民をあざむき、侵略戦争へ誘導するために意図された軍国主義的で過激な国家主義的宣伝に利用するようなことが再び起きることを妨止するために、再教育によって国民生活を更新し、永久の平和および民主主義の理想に基礎を置く新しい日本の建設を実現させる計画に対して日本国民を援助するために、ここに以下の指令をする。

ここに書かれている目的は、以下の3つです。
①国家指定の宗教を国民に強制しないため
②戦争推進のイデオロギーに協力させられた経済的負担を除去するため
神道の教義を歪曲して国民を欺き、侵略戦争に導いた歴史を繰り返さないため

特に着目すべきは、③だと思います。つまり、国家神道とは、本当の神道ではない。神道の教義を歪曲して、侵略戦争のために利用したエセ宗教なのだ、ということです。つまり、GHQは、神道自体を否定していないのです。それが国家によって利用され、国民に強制される事は問題だけれども、神道の教義や信仰自体は問題ないのです。
また、②においては、「イデオロギー」という言葉が使われている事に注意すべきです。つまり国家神道の「教義」は、宗教的教義ではなく、政治的イデオロギーなのだというGHQ国家神道認識が現れています。

また、神道が一宗教として認められるために必要な条件をあげた箇所があります。

神社神道は国家から分離され、その軍国主義的あるいは過激な国家主義的要素を剥奪された後は、もしその信奉者が望む場合には、一宗教として認められるであろう。加えて、それが事実日本人個人の宗教なり、哲学なりである限りにおいて、他の宗教同様の保護が許容されるであろう。

 ここでは神道が①国家からの分離と、②軍国主義的要素を剥奪されたら、一宗教として認めますよ、と書いてあります。

ここでも、国家神道の問題として、「国家と分離していないこと」が挙げられています。
問題は②でしょうか。これは「軍国主義的要素」という、国家神道の教義的側面に踏み込んでいます。それではこの「軍国主義的要素」とは何か。それについて言及された箇所を見てみましょう。

(ヘ)本指令中に用いられている軍国主義的ならびに過激な国家主義イデオロギーという表現は、日本の支配を以下に掲げる理由のもとに他国民ならびに他民族に及ぼそうとする日本人の使命を擁護し、あるいは正当化する教え、信仰、理論を包含するものである。

(1)日本の天皇はその家系、血統、あるいは特殊な起源であるゆえに他国の元首より優れているとする主義
(2)日本の国民はその家系、血統、あるいは特殊な起源であるゆえに他国民より優れているとする主義
(3)日本の諸島が神に起源を発するがゆえに、あるいは特殊な起源を有するがゆえに他国より優れているとする主義
(4)その他、日本国民を欺き、侵略戦争へ駆り出させ、あるいは他国民の論争の解決の手段として武力行使を謳歌させるに至らせたような主義

これは大別すると、以下の2つに収斂されると思います。

①日本国が他国よりも特別だという主義
②他国に武力行使したり、侵略したりする主義

しかし、民間の宗教団体である神社神道がこのような主義主張を持つことを、果たして禁じることができるのか疑問です。現に、今日の神社本庁の幹部や保守政治家の発言などを見ると、②こそないですが、①に当たるような発言なんて山ほどあります。これを禁じる事は、それこそ政教分離に反するのではないでしょうか。

しかし私は、GHQが「その軍国主義的あるいは過激な国家主義的要素を剥奪された後は」というように、「剥奪」という言葉を使っている事がミソかなと考えています。つまり、軍国主義イデオロギーというトンデモない思想は、神道という宗教の中から出てきたものではない。国家が神道の教義に植え付けたものなんだ、だからGHQが権力で「剥奪」しないといけないんだという考え方なのかな、と思います。
権力(戦前の日本政府)によって「強制」されたものだからこそ、権力(GHQ)によって「剥奪」してもよい。これは政教分離に反しない、ということでしょうか?
ですから、「日本は神の国朝鮮半島奪還!目指せ大東亜共栄圏!」という思想を持つ国民が出ても、それは国家に強制されたものではなく、その国民自身の信条の発露だったら何の問題もないということになります(少なくとも「信教の自由」の問題との絡みにおいては)。

ともあれ、この神道司令から分かることは、GHQ国家神道の「教義」を問題にしていない。国家と癒着しすぎて利用されたという「制度」面に問題を見出しているということです。これは、次節以降で、池田名誉会長の国家神道批判を見るときに、重要な視座となります。

『人間革命』における神道

やっと、『人間革命』に入ることができます。
まずは、『人間革命』では、このGHQによる政教分離政策をどのように評価しているのでしょうか。

信教の自由は、宗教の勝劣、浅深の戦いの場をつくることである。広宣流布は、信教の完全な自由の下でなければ、達成は困難なことだ。(149頁)

この文章を見ると、GHQによる信教の自由の確立を、池田名誉会長は肯定的に評価しているようです。創価学会の目指す「広宣流布」は、信教の自由がなければ達成できない、その条件が整ったのだと。
しかし、戸田が戦前の創価教育学会幹部との懇談で、次のように語るシーンがあります。

「そりゃ、軍部は崩壊したさ。だがね、何千、何万とある邪宗教団は崩壊したかい?根本的に見れば、条件はいささかも変わっていない。むしろ、これからが社会的混乱の隙に乗じて、邪教ははびこるだろうよ。それは火を見るよりも明らかなことだ」
彼は、戦後の精神的、物質的混乱に乗じて、雑草のように邪宗教が広まってゆくことを見抜いていた。
信教は自由だ。大衆は、宗教の正邪を知らぬ。宗教の規範も知らず、宗教教育も受けずに今日まで来ている。この信教の自由、宗教の戦国時代こそ、折伏の戦いを勇敢にしなければならぬ時だ、と彼(戸田城聖)は思った。(176頁)

ここで戸田は、軍部が崩壊して信教の自由が確立しても、「根本は何も変わっていない」と言っています。つまり、大衆が邪宗を信じるという根本問題においては、状況は同じであると述べているのです。これは、「宗教は本来いいものだ」というGHQの、というよりもアメリカ的な政教分離原則とは異なるものです。
つまり国家神道の問題は、国家がそれを国策として制度化・教化を推進したということだけではない。その誤った教義を、大衆が信じたことにあるというのです。
さらに、よりはっきりと国家神道の教義を批判した箇所があります。

GHQは、占領の基本政策として、日本の民主化のために、神道の国家保護を断ち切ったが、神道こそ、敗戦の最高責任者であり、最大の戦争犯罪人であることは、知る由もなかった。

かなり過激な文章ですね。
つまり、GHQ政教分離国家神道解体)は不十分だ、彼らは神道の邪義を知らなかったのだと言うのです。「国家神道」ではなく、「神道」となっている事に注意が必要です。つまり、「国家神道」が国家保護を受けなくなって「神道」になっても、それは本質的ではない。つまり、池田名誉会長の神道批判の最大の根拠は、その教義的問題なのです。

国家神道は指導者に狂気をもたらす

他にも、『人間革命』では、国家神道が激しく非難されています。それを、いくつかを引いてみましょう。

軍部政府は、いかにも愚劣で狂信的で、わが同胞に対してすら、暴力的で、不条理であった。そのような、狂気をもたらしたものの根源が、軍部政府の精神的支柱であった、国家神道にほかならないことを、彼(戸田城聖)は骨身にしみて、熟知していたからである。(9頁)

日本政府が無謀な戦争に突入したのは、「神道が指導者に狂気をもたらしたからだ」と言っています。これはかなり過激です。さらにこんな記述もある。

国の命運が尽きた時は、大政治家も、名将も、ともに福運がなくなり、懸命な知恵も革新も喪失して、先手を打てなくなってしまうものだ。否、それらの指導者階層の福運が尽きたがゆえに、国の福運が消えたとも言える。この方程式は、いかなる国でも、家でも、同じことである。(84頁)

「命運」という言葉を「福運」と同じ意味だとするならば、この文章は、

国に福運が無くなる➡︎指導者の福運がなくなる➡︎国の福運がなくなる・・・

という負のスパイラルを描いているようです。着目すべきは、「たとえ有能な政治家でも、福運がなければ国を滅ぼす」と言っていることです。これはかなりドラスティックです。なぜならいくらいい政治家が出ても、福運がない限り、日本は良くならない。そこには、「正法を信じる政治家の出現」、つまり創価学会の政界進出が不可欠だと言っているようなものです。

要約すると、池田名誉会長はGHQのように、「愚かな指導者が国家神道を利用した」とだけ述べているのではありません。国家神道を信じたために、指導者は愚かになった」と言っているのです。これは創価学会の政治進出と非常に整合的だと私は思います。

国民の責任の強調

そして池田名誉会長の国家神道批判は、国民の責任の追及にも及びます。

宗教の無智による大謗法が、国家を死滅に追いやった。だが、誰一人、これに気付くものはいなかったのである。
このように、神道を中心とした政治形態は、祭政一致の古代を手本として、神がかり的な全体主義の権力を、国民の上に振るい始めた。
一国が滅びるのも当然のことであった。無智によるとはいえ、敗戦という総罰を受けざるをえなかったのは、残念という他はない。(219頁)

つまり、民衆の宗教に対する「無智」が「敗戦という総罰」を齎したのだというのです。これは今日から見ると過激に見えますが、国民に責任を求めるというのは、敗戦直後の思潮を見るならば、それほど珍しくはありませんでした。「『人間革命』の時代を読む」という連載で戦後思想を読んでいますが、丸山眞男大塚久雄小田切秀雄荒正人などは敗戦の原因を日本国民のあり方に求め、独自の思想を展開しています。また、戦後盛んになった平和運動も戦時中の「悔恨」「責任意識」に基づくものでした。
しかし、その責任の所在を「宗教への無智」に求める論を、私はほとんど読んだことがありません。当時の宗教界の指導者たちは、どんな文章を書いていたのか一度調べてみたいです。

しかし「無智」という言葉を使うときに生じる疑問は、果たしてそれが「責任」を伴うものなのかという点です。「国家神道が不正であると知りながら、反対しなかった」というならば、その責任を追及できるでしょう。しかし、「国家神道などの宗教について無智であり、反対も批判もできなかった」人間に、責任の所在を求められるのかは疑問です。
しかし、池田名誉会長は、「無智」を静的な状態を表す概念ではなく、アクティブな態度決定の結果であると考えているようです。

政府は、国家統治上、神道の「神勅」を、その政治体制の根本原理として、それに結びつく天皇を、神聖にして不可侵な存在にしてしまったのである。
軍部政府の時代になると、この問題は日本国民のタブーとなった。少しでも疑点を抱く人文科学者たちは、反逆者として非道な弾圧を蒙らなければならなかった。
国民の誰もが知っていながら、そのくせ、無関心のままにすぎる盲点に、いつかなっていた。(219頁)

日蓮大聖人はそれ(筆者註:絶対間違いないもの)を、明確に、具体的に、教示くださっている。それを人々は、知ろうとしなかった。そして、七百年が過ぎた。(108頁)

この2つの文章を総合すると、日蓮が絶対的真理を明らかにして700年が経過するというのに、その間日本国民はそれを「知ろうとしなかった」、「無関心だった」。
つまり、日蓮仏法を知ろうとせず、無関心に生きてきたその態度の結果が「無智」であり、その態度に責任を求めているのだと言えましょう。
これは、戦後の創価学会の激烈な折伏運動と整合的です。

日蓮教学に基づく国家神道批判

それでは、国家神道が「邪教」であるという根拠は、なんでしょうか。
池田名誉会長は、牧口・戸田会長が神札を拒否する場面において、以下のように記述しています。

大聖人の御聖訓によれば、天照大神とは法華経守護の神に過ぎない。法華経に祈ってこそ、天照大神の功力が現れる。神自身には力がない。哲学、理念がまったくないのである。
今、法華経の文底独一法門の大御本尊を無視して、一守護神に過ぎない天照大神だけを祈るゆえに、その神札には魔がすみ、魔神の札と化し、祈りは叶わず、一国の人々の頭脳を狂気と化したのである。親を見捨て、子を尊ぶに等しき狂態の姿であった。(192〜193頁)

つまり皇祖皇宗の淵源であるアマテラス(天照大神)は、法華経に祈願するものを守護する1つの神に過ぎない。その守護神に祈ると逆に罰が下る、という議論です。これは日蓮思想の中の神仏習合的な思想に、大石寺教学の「大御本尊」信仰を混ぜて、国家神道を批判したものでしょう。
この批判は、特に思想的価値はないと私は考えています。これは創価学会日蓮正宗の中でしか通用しない国家神道批判です。展開しなければならないのは、「哲学・理念がまったくない」の部分ですが、そういった記述は『人間革命』内にはありません。

三つの神の分類の基づく神道批判

さらに池田名誉会長は、『人間革命』において「神には3種類ある」という議論を展開しています(210頁〜213頁)。かなり長文なので、私の要約を記述させていただきます。

①人間の想像力が生んだ神

エホバやアッラーなどが該当する、一神教的な神だが、その実体は存在しない。結局は人間の想像力が生んだ幻影に過ぎず、これを拝むことは頭脳を狂わせる。
デカルトスピノザヘーゲルの汎神論的な神も、所詮は空想の生んだ神である。

②先祖信仰に基づく神

死んだ祖先を神として祀るもの。天照大神も、天皇の先祖である。
これは先祖を敬うという道徳的感情を宗教にでっち上げたものに過ぎない。そもそも人間が死んだ瞬間、神になるなどという不合理は、到底受容不可能である。

仏教に説かれている神

仏教を受持したものを守る諸天善神。これは、日蓮仏法を信仰して初めて、神としての働きを表す。この神は、①のような絶対唯一神としての神と異なり、生命の働きを表したものである。一人の人間も、全宇宙も生命体であり、その中に諸天善神も悪鬼神も存在する。
日蓮が図顕した御本尊に照らされてこそ、この生命の実在を知ることができる。

この議論には、かなりの批判が伴うでしょう。
①の神を「人間の想像力が生んだ神」としているが、③の神も「人間の空想の産物」と言ってしまえばそれまでです。また、スピノザヘーゲルの汎神論的な神と、「生命体」において働きを成す神の違いが明確ではありません(デカルトが汎神論者か、という点にも異論が出るでしょう)。
また、天照大神は、大衆の祖先信仰とは次元を異にする記紀神話に説かれる神であり、それを「先祖が死んだら神になるなど不合理だ」という批判で跳ね除けられるのか疑問です。

『人間革命』を読む限りでは、池田名誉会長の神道の教義的批判は、不十分である、もしくは創価学会員にしか受容できないもののように思われます。このテーマが「トインビー対談」や「ウィルソン対談」においてどのように展開されているか、注視する必要があります。

創価学会は国教化を目指していたのか

このような国家神道批判を見るとき、思い浮かぶ1つの問いがあります。
それは、「創価学会日蓮仏教の国教化を目指していたのか」という点です。第1回の連載で、「国家神道」を以下のように要素分解し、定義しました。

(教義)万世一系の天皇の神聖性を根拠に、日本の優越性を強調。
(制度)皇室祭祀・伊勢神宮を頂点に全国の神社を組織化。
(政策)教育・メディア・祝祭日などを通じた教化政策の実行。
(目的)国民への天皇崇拝・国体論の教化、浸透

GHQ政教分離政策は、この制度・政策的側面を解体したと言えるでしょう。天皇の神聖性と日本の優越性を説く「教義」は否定していない。今日でも戦前に近い信仰を持っている人間は、たくさんいます。ただそこに、国家的保護がないのが違いです。

しかしこれまで見てきた通り、池田名誉会長の国家神道批判は、その「教義」に集中している。すると、「正しい宗教だったら、国教化してもいいんじゃないか」という発想が出てきます。
しかし、『人間革命』ではそれは否定されています。その他、当時から「政教一致」批判はかなり多かったと思われますが、それに対する反論が述べられています。それは、下記2点に集約されます。

●国家が強制した宗教は、真の宗教ではない。民衆の中で民衆によって広がった宗教こそ、本物の宗教である。
王仏冥合とは、正しい宗教によって幸福になり、優れた知恵を手に入れた人間が政治を行うというものである。

これらを見ると、国教化の方向性は否定されているように見えます。
しかし、明治政府のような「上からの国教化」ではなく、「下からの国教化」の可能性は残されているのではないでしょうか。つまり、ある宗教を信じる人間が国民の中で多数を占め、それらの国民の総意の結果として、国教化が達成されるというものです。
国教化は極端かもしれませんが、「特定の宗派(創価学会日蓮正宗)に何らかの特権・利益を与える」ことを考えていたのではないか。創価学会が当初、「国立戒壇」の建立を主張していたことは、有名な話です。

これは、昭和20年〜30年代の創価学会の出版物を研究し、明らかにしなければならないでしょう。

少なくとも国家神道に対する批判として、それが神道の教義的批判に集中しており、その政教一致という制度的問題への批判を欠いている事は、注目すべき点であるように私には思われます。

総括と課題

『人間革命』における国家神道批判について見てきました。
その特徴は、国家神道政教一致的なあり方を批判した制度的な批判よりも、神道の教義的批判が多いことでした。
しかし、この批判には幾つかの問題点があります。

●教義的批判が日蓮教学の枠内に止まっている

国家神道の教義的な未熟さが何度も指弾されていますが、それは全て日蓮教学(大石寺教学)に基づいています。つまりこれは、創価学会の内部にしか通用しないものです。
よってそれの思想史的な価値は殆ど無いと言わざるを得ません。しかしこれは、『人間革命』という著作が会員の教化を目的にしている以上、やむを得ないと思います。
国家神道の教義的側面の批判は、池田名誉会長が非学会員の識者と対談した対談集を見なければなりません。

●信教の自由への積極的意義が不明瞭

小説の中で信教の自由は、「歓迎すべきもの」として記述されています。しかし、それは「自分たちの布教の基盤が整った」からに過ぎず、「邪教が蔓延る温床ができた」という否定的評価もされています。
つまり「信教の自由」には、積極的意義が与えられておらず、「戦前の国家神道という邪教を押し付けられる体制よりはマシ」という程度の意義に止まっているようです。
公明党との関係を非難されることの多い創価学会ですが、その政教一致批判を跳ね返すには、「信教の自由」「政教分離」を積極的に評価する発想が必要だと私は考えています。
思想的な議論を深める、思想的な円熟を可能にするものこそ「信教の自由」だー。
政治学における「熟議型デモクラシー」や「ラディカルデモクラシー」のような概念から、考えることができるのでは無いかと私は思ってます(政治学以上に現実から遊離しそうですが)。

次回以降、「トインビー対談」と「ウィルソン対談」を見ていきたいと思います。

余談:おすすめブログ

『人間革命』における神道などの他宗批判はかなり過激です。これは、かつての創価学会の姿を学ぶ、非常にいい資料となっています(改訂により段々消えていくでしょうが)

今回の記事を書くにあたり、「創価学会 邪宗」などでネット検索をしていたらたまたま見つけた、学会員の方によるブログがあります。

nitiren21.blog.shinobi.jp


これは非常に勉強になるブログです。
島田裕巳が「創価学会は元気が無くなった」と言っていましたが、その通りだと思います。かつてのように、学術的研究を無視して独善的・排他的な教義を作ることもできなくなり、教団の巨大化により社会的責任も増して、過激な他宗批判もできなくなりました。
このブログには、「かつての創価学会」の発想が、如実に表れていると思います(ブログタイトルは「21世紀の日蓮仏法」というより、「古き良き時代の創価学会思想」の方が適していると思います)。学会的発想の「原型」を見たい方に、本ブログは非常にオススメです。

追記:初めて見たブログかと思っていたら、以前記事で引用してました。失礼いたしました。

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【参考文献・ブログ】

●『宗教から読むアメリカ』
アメリカの宗教事情が良くわかる、目からウロコの一冊です。

宗教からよむ「アメリカ」 (講談社選書メチエ)

宗教からよむ「アメリカ」 (講談社選書メチエ)

 

 ●『国家神道と日本人』

国家神道を一側面からではなく、総合的に把握できる面白い本です。

国家神道と日本人 (岩波新書)

国家神道と日本人 (岩波新書)

 

 ●「シノドス

スカーフ事件について、わかりやすい解説がされています。

synodos.jp