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学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、バリ活にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

造反した創価学会職員3名の幼稚な教条主義:絶対平和主義再考の必要性

雑文

これからある文章を引用する。

公明党の山口代表は、朝日新聞の記者から党創立者の池田名誉会長の安保法への考えについて聞かれ、「直接伺う機会がないので、私には答えようがない」と返答したという。
思わず絶句し、怒りで体が震えた。
師を師と思わぬ、誤魔化しの回答。
もはや公明党には、師匠の精神は無くなったと判断することが、極めて自然である。

この言葉を聞いて、鳥肌が立つのは私だけだろうか?

これまで何度か記事にしてきた、創価学会本部を除名にされた職員の三人組。
どうやら相変わらず熱心に造反活動をしているようで、創価学会本部の暴露本の出版が決定。本日8月20日は、憲法学者の木村草太を招いて、平和安全法制についての講演を拝聴するとのこと。
ブログではその告知に加え、平和安全法制成立への並々ならぬ怒りが披瀝され、公明党創価学会本部を「師敵対」として糾弾している。

その現実認識を表現するには「幼稚」の一言で十分であり、あれこれと政治運動をする前に「ちゃんと高校の教科書を読んで勉強して下さい」と言いたくなる。
こうした愚かな3名と一緒に活動している会員さんがいる事は、この上ない悲劇であるが、御三方に言わせればそれも「池田先生に違背した学会本部と公明党が悪い!」という事になるのだろう。

f:id:sanseiblog:20160817130021j:plainhttp://harunokoime20150831.blog.fc2.com/blog-entry-15.html

この御三方の内、2名は創価学園・大学のご出身。つまり私の同窓の先輩なのである。

今更言うまでもないが、私は彼らに対してかなり否定的である。
そのブログを読んでいると、その幼稚さに呆れかえってしまう。
しかし最近では、なんとも言えず、悲しくなってしまうようになった。

創価学園・大学の創立から半世紀が経とうとしている。
しかし、これだけの蓄積が経てもなお、我が母校は池田名誉会長という創立者に依存し続けている。これが果たして、創価教育の姿なのかと目を覆いたくなる。

非会員の方には意外かもしれないが、創価学園・大学では宗教教育は行われていない。まぁ実際にはかなりグレーなものも多いのだが、少なくともそれは「宗教機関」ではなく、「学術機関・教育機関」を目指して創立されたのである。

なぜ、学会内の人材グループではなく、学術的研究・教育を行う学校を創立しなければならなかったのか。それは「自分の頭で考えて行動し、価値を創造する」人間を輩出するという、創価教育の精神に則ったものではなかっただろうか。

しかし、創立から半世紀を経てもなお、同校は「池田先生教条主義」を貫いて自分で考えることをしない人間を量産し続けている。

「山口公明党代表が池田先生にご了承をとっていないなんて、とんでもない!」

こんな事を平気で言う、元職員3人組がその典型である。

彼らの行状を見るにつけ、私は再度池田名誉会長の「絶対平和主義」について考察する必要を感じるに至った。そのアプローチについては後述する。

まずは元職員のブログから、彼らの思考体系を分析し、創価学園・大学が脱却しなければならない幼稚な思考プロセスを明らかにしたい。これは単に愚かな3名の糾弾に終始するものではない。創立から半世紀を経てもなお学園・大学を捉えている問題的思考を、一卒業生として批判することである。そしてそれは、私の自己批判・自己反省でもある。

また、予め述べておこうと思うが、私は学会員が行う「安全法制反対運動」に否定的ではない。ひとりの学会員・天野達志氏などには尊敬を払っており、「公明党を徹底非難する熱心な創価学会員」「組織ではなくご本尊中心の信仰者」という生き方を、内外に示してほしいと期待している。また、創価大学有志の会も、あのくらいの運動は全然OKという立場である。関西で行われたという、木村草太を招いての学会員による勉強会には、大賛成している。こういう会は、どんどんやっていい。むしろ彼らを見て「信心がない」などと言って、政治参加に伴う公共精神と宗教的動機を分離して考えられない人間の方に、嫌悪を感じる。

であるから私が非難するのは、3人の政治的立場ではなく、宗教官僚という「極めて特殊な職業」を選んだにもかかわらず、その立場を理解できない幼稚さと無責任性である。また、その活動根拠・方法の短絡性や社会人としての未熟さであり、創価学園・大学卒業生によく見られる「池田先生教条主義」である。
(それを詳細に語った記事は以下がある)

sanseimelanchory.hatenablog.com

 

ただ、私は安保法制には「違憲だが容認」という極めて微妙な立場をとっており、創価大学有志の会についても結局は、私の嫌いなSEALsやオールド左翼と何ら変わりない活動に止まっていることから、やや否定的であることも付言しておく(これについては長くなるので、また記事にします)。

元職員3人組の思考回路を考察する

早速、元職員3人組の思考回路について、そのブログ文から考察してみたい。以下は、3人組が公明党の「加憲」ならびに「平和安全法制成立」に関する評価についての文章である。

無論師匠が目指されてきたのは、「絶対平和」である。
それは戦争の放棄と戦力の不保持を謳った平和憲法を堅持し、その精神と理想とを、世界の人々の心に植え付け、戦争放棄の人間世界を築くことである。
非暴力、そして「対話」という手段で、また人間外交によって世界平和を実現することである。
いや、そうはいってもそれは宗教上の話であり、政治の世界ではそうはいかない。宗教と政治は別だ。
しかし、本当にそうだろうか。

ダラダラとしてわかりづらい文章だが、それには一応以下の「葛藤」「弁証法」らしきものに分解できる。

テーゼ:池田名誉会長の思想は「絶対平和主義」であり、公明党はそれに反しているから悪である。
アンチテーゼ:政治と宗教は次元が異なるから、公明党は、現実的な選択肢をとらなければならない。

この2つの異なる見解を示した後の、彼らの結論は以下である。

いや、むしろ真逆である。
三代の師匠はそのことを、命を削って我々弟子に教えてくださった。

(筆者註:池田名誉会長の指導の引用が続く。彼らの文章の内部に、池田名誉会長の言葉を位置付けるのは、私の良心に反するが、そうも言ってられないので1つだけ引いておく)

「一切の軍備は撤廃すべきであるというのが、私の信念です」(名誉会長)

公明党の議員は師匠の弟子である会員が当選させ、その弟子の戦いによって成り立つ政党である。(中略)創価の政党が、師の思想、また世界平和とは真逆に進んでいいはずがない。
武力で他国を威圧することが、どうして平和に繋がるのか!
抑止力を高め、どうして対話が進むのか!
平和の党という看板を掲げながらも、我々の師匠が命を賭けて伝えて下さる平和思想とは、完全に真逆ではないか!

これまでの議論の蓄積を全てひっくり返し、「先生がこう言われているんだ!」という「熱情」が結論を決める。そこに成熟した思考は一切見られない。

結局彼らは、池田名誉会長のテキストという「聖書」に基づいた神学的解釈しかできない。二者択一を迫られた時には、それぞれの主張の合理性や現実妥当性を考察することなく、「池田先生はこう言われている!」と言って、感情的に燃え上がり、独善的に結論を出す。全ては、「池田先生の言葉」から、演繹的に導かれる命題に従って答えを出すのみであり、考察すべきたくさんの問いに蓋をして逃避するのである。

この3名のブログは緩慢と長文が書き綴られているが、結局全てのロジックは、「池田先生教条主義的」に帰結する。

「ご了承」の要求

この3名の池田名誉会長への依存体質は、「ご了承」の要求という形において、その極致に達する。冒頭で引用した文章を、再度見てみたい。

公明党の山口代表は、朝日新聞の記者から党創立者の池田名誉会長の安保法への考えについて聞かれ、「直接伺う機会がないので、私には答えようがない」と返答したという。

思わず絶句し、怒りで体が震えた。
師を師と思わぬ、誤魔化しの回答。
もはや公明党には、師匠の精神は無くなったと判断することが、極めて自然である。

どうやらこの文章の執筆者は、山口公明党代表が平和安全法制の成立にあたり、池田名誉会長と面会して「ご了承」をとらなかった事に対して、かなりの怒りを覚えたようだ。
つまり彼らは、公明党の理想像として、「法案の議論の度に、賛否を池田名誉会長に一々確認する政党」を掲げているのである。こんな斬新なビジョンを描ける御三方の異能には、脱帽する。というか、「勝手に震えていろよ」と思う。

さらに、3人組が平和安全法制についての態度を表明した記事「安保法制に対する私たちの考えと決意 」には、以下のような記述がある。

私たちは、今回の安保法制について、私たちの師匠であり、命がけで「平和主義」を訴えてこられた「創価三代の永遠の師匠」であられる池田先生の「ご了承」が果たしてあったのかどうか、師匠の弟子として、確認しなければならないと考えております。

ここでも出ました、「ご了承」である。

彼らに出来ることはたったの2つ。
1つは、池田名誉会長のご指導という「不磨の大典」を神学的に解釈して、それに外れた「仏敵」を徹底指弾すること。
もう1つは、新しい状況が生じてどうしていいかわからなくなったら、池田名誉会長に頼って、指示をいただくことである。

この御三方は、アラフォーである。
40の男が、未だに乳離れできずに、お母ちゃんのオッパイを吸い続けている。
その醜態には、もはや憐れみさえ感じるようになってきた。

「アンチ学会」という救われ方

これまで私は彼らの活動について、「こんなアホなことさっさと辞めればいいのに」と思ってきた。しかし、彼らへの憐れみが募るにつれ、考えが変わってきた。

彼らは、「アンチ学会本部」「アンチ公明党」という生き方を選択する事によって、ある意味で学会と公明党に救われているのである。

学会を退会して、過激な学会批判を繰り広げている人と話していると、「この人は、学会無しではもう生きていけないんだな」と思わされる。つまり、「学会を批判する」ということが、自己定義、アイデンティティの確立に不可欠になっている。その意味では、「学会こそ我が人生」という学会員と同じく、学会に救われているのである(私もそうである)。

そもそも、学会から心身ともに「脱会」出来ているならば、わざわざ近づいて批判する必要もない。生活圏に入ってこないように遠ざけ、無視しておけばいい。
それが出来ないのは、「学会非難」という自分なりの「正義」に生きる事が、その人間にとっての人生の態度となっているからだろう。

創価学会は、泥をかけられる事によって、その泥をかける人間を救うという、損な役回りを任されているわけだが、このくらいの事は甘受すべきだと私は思っている。
ちなみに「相手を非難する事によって自分も存在できる」とは、創価学会が「日顕宗」批判をするのも同様だと思う。完全な「精神の独立」が出来ているならば、放っておけばいい。それが出来ないのは、彼らから真に独立できていないからである。

造反3人組も同様である。再度彼らのポエムを引用したい。

もはや今の学会本部には、師匠の精神が形骸化しているとしか思えない!
ならば、真の弟子が勇気の声を上げ続けねばならぬのだ!
師の正義を守り抜くために、心ある同志が皆で叫ばねばならぬのだ!

つまり、自分たちを「師匠の精神を知る真の弟子」と位置付けて、諸悪の根源である学会本部を攻撃している。

「池田先生に違背した学会本部・公明党を糾弾する」ことが彼らの生きがいならば、それを続ければいいと、最近ではそう思うようになってきた。
憲法学者小林節が、彼らが主催した講演会に参加した際に、「学会本部を外から変えるというような無謀な事はやめて、‘池田教’のような一派を作ったほうがいい」と言ったそうだが、これは結構正しい。

彼らの運動が学会本部に及ぼす影響なんてほぼ無いだろうし、多くの会員は彼らを馬鹿にしているのではないだろうか。もうこんな誰のためにもならない運動を続けるなら、自分たちで一宗派を作って信仰活動をした方がいい。それか、彼らの政治的主張は共産党に近いようだから、入党して9条護憲を訴えればいい。共産党の機関紙・赤旗も、彼らがやりたくて仕方がない学会本部の内部事情暴露を喜んで掲載してくれるだろう。日本共産党は、「元学会本部職員」という異色のキャリアを持つ人間が歓迎される、数少ない場所の1つである。

だが、創価学会を無視して彼らは生きていけない。「池田先生の指導に忠実な自分たち」という自画像を描き、「師匠に違背した極悪の学会本部・公明党」を糾弾すること。それが彼らの生きている世界であり、そういう形でしか自分を保てないのならば、そうやって生きていけばいい。

ただ、あまり多くの会員を巻き込まないでほしいと思う。彼らは社会人として未成熟であり、集団のリーダーには不適格である。こんな人間に率いられて不幸になる会員が出ない事を、切に祈る。
ただ、彼らの極めて特殊で幼稚な活動に共感することができ、彼らと心中しても構わないという人間のみ、彼らに付き従えばいい。
多くの会員さんは純粋だから、彼らのような人物につくのではなく、常識的な人物に集まってほしい。そしてそれが、学会の幹部だというのが理想なのだが、それも難しい状況があることは、理解しなければならないとは思っている。

創価学園・大学卒業生としてすべき事は何か

さて、元本部職員3名に現れている「池田先生教条主義」を見てきた。これはこの3名が異常なのではなく、私の同窓の友人にも同様の思考をする人間は大勢いる。

誤解していただきたくないのは、私は池田名誉会長の宗教的指導を「如是我聞」的に読むことを否定していないことである。そもそも私自身、「池田先生大好きの典型的創価学会員」を自認しており、カルトだと罵られても、池田名誉会長を「永遠の指導者」と仰いでいる。御本尊への祈り方や宿命との戦い方などに関しては、そのご指導を真摯に拝するようにしている。私もいわゆる「未活」ではなく、真摯に信心に励んでいる学会員さんを馬鹿にするつもりは全くないどころか、尊敬しているし、日々怒られている。

しかし問題は、社会的・政治的行動をする時に、安易な「教条主義」に陥って稚拙な行動をとってしまう事である。3人組の一連の活動は、紛れもなくこれに当たる。政治的意見構築に池田名誉会長の「ご了承」を求める無責任体質には、丸山眞男も仰天だろう。

そして何より私は、こんな「教条主義」的意見構築や行動決定を、池田名誉会長は望まれていないと思う。

初めの問いに戻るが、なぜ学術・教育機関である創価学園・大学が創立されたのか。
1つには「自分の頭で考えて真理を認識し、価値を創造する人間」を輩出する創価教育の実践場をつくるためだろう。
そしてこれは私の考えだが、「池田名誉会長の思索に迫る」こと。これが我々創価学園・大学出身者の使命であると思っている。

当たり前の事が忘れられがちだが、池田名誉会長は人間である。
その思想も、神が預言者に啓示を行うように池田名誉会長の脳内に宿ったものではない。人類の叡智の結晶である学問との対話を繰り返しながら、その思想を紡ぎ出してきたという事を、忘れてはならない。
その結論部分だけを取り上げて、「池田先生は戦争反対だと言ってるから、安保法反対!」というのは、この池田名誉会長の知的営為に対する冒涜であるとすら思う。

こうした池田名誉会長の知的営為を少しでも理解しようとする事。
それが学術機関である創価学園・大学の卒業生の使命であり、思考を放棄する教条主義者となる事ではないと思う。
その思索の結果が、池田名誉会長の結論と異なっていても、私は全然いいし、むしろ健全だと思っている。

これを「我見」「傲慢」と否定する意見もあろう。
それも当たっているのかもしれない。所詮、池田名誉会長という稀有な指導者の思想など、我々凡人には到底理解できないものであり、それにただ従っていた方がいいのかもしれない。

しかしもうそういう時代ではない。また、創価学園・大学が創立された理由がわからない。戦前の国民学校が皇国思想を身体的・精神的に染み込ませる役割を果たした様に、創価教育の学校機関も、創価学会の教義でその人物をがんじがらめにするために創立されたのだろうか。そうでは無いと信じたいし、だとしたら私はファシズムの被害者である。

「宗教」「信仰」という謙虚さを取り戻させてくれる次元に生きながら、その実践的な場である社会・政治において、自分の頭で考えて価値創造を目指す。
これが私の考えるあるべき姿である。

池田名誉会長の絶対平和主義

平和安全法制が成立し、憲法改正にも話題が集まっている。9条改正が俎上に上る日も、そう遠くはないのかもしれない。

そこで池田名誉会長の絶対平和主義を、私も一創価学会員として考えなくてはならない。
3人組のような「池田先生教条主義」的にではなく、足りないオツムを駆使しながら、極力池田名誉会長の思考過程に迫らなければならない。

現在考えているのは、以下のアプローチである。

●思想史の考察

先述の通り、池田名誉会長は人間である(こんな命題を唱えるのは恥ずかしい)。
神の啓示を受けて、絶対平和主義を唱えているのではない。そこには、人類の叡智の長年の議論の蓄積があり、それらを批判的に受け止めながら、仏法者として出した結論だろう。

まず行うことは、「平和主義」を巡る過去の議論を考察し、その中に池田思想を位置付けることである。
現在の私の想像では、憲法9条的な平和思想はカントに端を発して、日本では中江兆民内村鑑三などが論じている。トルストイやラッセル、ガンジーなども外せない。これらの思想的巨人の思想を逍遥しながら、池田名誉会長も現在の立場を決定したはずであるから、過去の偉人の平和思想を追うことはそのまま池田名誉会長の足跡を辿る事にもなろう。

●池田名誉会長の文献考察

池田名誉会長が「啓示」を受けて思想を表明する預言者ではない以上、その思想は固定的なものではなく、「生成する」もの、即ち変化するものであると仮定できる。池田名誉会長の文献を時系列的に読みながら、その変化とその時代的背景や要因を関係づけて考察すること。さらには、同時代を生きた思想家との関連を調べること。
これはかなり大変そうだが、何年かけてもやる価値はある。

創価学会史の考察

忘れてはならないのは、池田名誉会長が自分の思う通り、好き勝手に発言しているのではないという事である。公称約800万世帯の巨大教団の精神的指導者であり、政権与党の創立者でもある。その発言の影響力は測り知れなく、様々な意図を持った人間に監視されている。発言1つが、多くの人間の人生に決定的な影響を与えたり、組織的崩壊を招きかねない立場である。
こうした池田名誉会長の立場や権力関係も考察しなければならないだろうが、何せこれは資料が少ない。池田名誉会長と同時代的に生きている以上やむを得ないが、今後閉鎖的な学会本部から考察に値する資料が出るのか甚だ疑問である。
できる限り、という但し書きをつけねばならない。

こうした探求は所詮「歴史研究」に過ぎないという批判もあろうが、池田名誉会長の言葉をそのまま受け止めるのではなく、その思考過程に迫ろうという試みは、アクチュアルな意思決定に役立つ。

池田名誉会長の意思を政治に反映したいと望むならば、やるべきことは3人組のように「ご了承」を求めることではない。「もしも池田名誉会長が公明党代表だったら、どのように主張するだろうか」という、非常に知的緊張度の高い問いを引き受ける事である。
この問いに回答するためには、歴史の中に生成した池田名誉会長の人間らしい思索過程を明らかにする必要がある。さらにこれは例であるが、山口公明党代表の置かれている権力関係や政治的文脈を考察する。そして、そこに池田名誉会長を代置した際に、どのような思索が可能になるのか考えるのである。
こんな方法に限界はあると非難されるだろうが、教条主義的に池田名誉会長の言葉を振りかざす人間よりマシな点は、理性を用いている以上「議論」ができる事である。

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