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学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、バリ活にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

【追記あり】創価学会に反対する会員を「反逆者」と罵ってはいけない:『基督教徒のなぐさめ』を読む①

創価学会考

私には、創価大学生だった頃から男子部となった今日まで、意識して続けていることがあります。
それは、「学会を辞めたい」「学会が嫌いだ」という人と積極的に話すことです。

創価学会の全てが無謬だと思っていた頃の私は、彼らを「信心がない」と決めつけ、活動させようと「啓蒙」を続けていました。
しかし、彼らの言葉を聞くうちに、自分の態度を恥じるようになりました。

「御本尊に祈る意味がわからない」
「池田先生の偉大さがわからない」
「友人を失ってまで、折伏や選挙をしたくない」
「成果ばかりを求める組織に疲れた」・・・・・

これらは全て、彼らの心の声です。そして学会の中には、彼らを救うことのできる思想が存在していない。
彼らに投げかけられる言葉は決まって、「とりあえず活動しよう」「祈って不信と戦うんだ」「法戦で自分の壁を破るんだ」など、彼らの態度を変更させようと迫るものばかりです。彼らの心の声を、肯定するような言説は、学会の中に存在していませんでした。

そして、近年よく聞くようになったのが、以下のような言葉です。

「今の学会は、池田先生の精神から反している」
公明党のやろうとしていることに反対だから、もうF活動はしない」
「学会の会則変更に納得できない」

これらの意見を発する人に共通する事は、彼らが池田名誉会長を愛し、自分なりに熱心に信仰に励んできたことです。以前から学会には色々な意見を言う人がいましたが、最近は特に多様な意見が表面化するようになったと思います。ひとりの学会員・天野達志さんの活動などは、その典型でしょう。

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その理由については、また別記事で仔細に考察する予定ですが、一言で言えば、「池田先生が会合に出られなくなったから」でしょう。

池田名誉会長が会員が目にする会合に出席されなくなってから、学会と公明党には様々な変化がありました。最大のものは、平和安全法制の成立と会則の変更でしょう。これらの問題は、組織を二分するほどの重大な問題ですし、これらの動きに反対する学会員さんが出たことは極めて自然です。

これまでにもこのような大問題はありました。教団を揺るがした最大の事件は、日蓮正宗からの分離独立でしょう。この時にも会員に動揺が走り、退会する会員が一定数出ました。

しかし、このような過去の事件の際に反旗を翻した会員と、安保法制ならびに会則変更に異を唱える会員には、大きな違いがあります。それは、前者では「池田大作は間違っている!」という主張が大多数だったのに対し、後者は「今の創価学会は池田先生の精神を忘れている!」というものであることです。

つまり、安保法制の成立や会則変更といった大きな変化が、池田名誉会長の「ご不在」の間に起きてしまった。この事は、創価学会執行部や公明党は、池田先生のご了承なしで暴走している」という疑念を生み、「反学会・反公明党」の運動を引き起こしたのです。
私の周囲にも同様の意見を持っている方がいますし、結果組織に居づらくなり、離れてしまった友人もいます。

この傾向は、今後も強まっていかざるをえないでしょう。はっきりと申し上げるならば、池田先生もご高齢ですから、私たちは将来の学会について真剣に考えなければならないのです。その将来の学会では、さらに様々な意見が噴出して、分派ができるような事も十分考えられます。

しかし現在の創価学会には、その来るべき将来に対応できる思想・言説は、全くないでしょう。
それは当然といえば当然です。「学会に反対する」「学会は間違っている」と主張する人間を受け止める言説など、学会本部から出てくるはずがない。それは、組織を自ら破壊する自虐的な思想になりかねない。

結局、学会内部から出てくる言説は、「組織から離れたら、信心が狂うよ」「教義も大切だけど、活動が根本だよ」「公明党は歯止めになっているんだよ」「公明党が勝つ事が、先生にお応えすることなんだよ」など、組織維持を目的にしたものだけ(註:本稿末に追記あり)です。
それが極まった時、反対者を「反逆者」「不知恩の輩」「共産党員」などと罵るに至るのです。

要するにこれらは全て、反対者の「態度の変更を迫る」という外圧的なものなのです。

これらの動きは創価学会が巨大組織である以上仕方がないですし、学会に「反対者に寛容になれ!処分するな!」と言っても、よほど大規模な運動にならない限り、無駄だと思います(註:本稿末に追記あり)。それは、組織維持の論理に反するからです。

しかし私は、創価学会という一教団や公明党という一政党の、極めて相対的、政治的な変節によって、それまで信心を真面目にしてきた会員が不幸になる事は、避けたいと思っています。

そこで、内村鑑三の『基督教徒のなぐさめ』を、「教団と異なる意見を持ちながらも、信仰を保持する思想」として、読んで見ることにしてみました。

このブログのテーマの1つは、「バリ活でもアンチでもない生き方」を探求することです。学会と異なる意見を持った時に、組織に全面的に賛成する「バリ活」になろうと自己欺瞞に陥るのでもなく、学会を全否定する「アンチ」にもならない。組織と反対の生き方を持ちながらも「一信仰者」としての姿勢を保つという、第三、第四・・・の生き方を考察していきたい。

僭越ながら、そのような想いのもと、偉大なる内村先生に学びたいと思っています。

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教団と異なる意見を持ってしまった内村鑑三

それでは早速、『基督教徒のなぐさめ』を読んでみましょう。文体が古くて少々読みづらいかもしれないので、私お手製の現代語訳も併記します(誤りがございましたらご指摘下さい)。

そもそも内村鑑三は、優秀な儒学者の家に生まれた、バリバリの江戸時代型日本人でした。彼が熱烈な愛国者であった事は有名です。しかし、その先祖伝来の宗教を捨てて、イエスを信じて基督教徒となったわけです。しかし、現実はそう甘くなかった。

【原文】
余は基督教会は善人のみの巣窟にあらざるを悟らざるをえざるに至れり、余は教会内においても気を許すべからざるを知るに至れり、しかのみならず余の最も秘蔵の意見も、高潔の思想も、勇壮の行績も、余をして基督教会を嫌悪せしむるに至れり。

【現代語訳】私は、キリスト教会が善人だけの教団ではないと悟らざるを得なかった。私は、教会の中においても、他人に気を許すことができない事を知った。それだけでなく、私の偽らざる意見も、高潔な思想も、勇敢な行績も、私にキリスト教会を嫌悪させるに至った。

熱烈なキリスト信者だった内村も、キリスト教会という教団に失望せざるを得なかった。それは、彼の信仰心が「純粋」だったからでしょう。純粋で高潔にイエスを信じていたからこそ、それとキリスト教会の乖離を感じざるを得なかった。
この内村の感覚は、ある程度理解できるという学会員さんも多いのではないでしょうか。

内村は、自分の「秘蔵の意見」とキリスト教会の見解が異なる事を述べています。その時に彼は、教会という組織に従うか、自分の意思に従うかという選択を迫られる。

【原文】
余の思想ならびに行績においてしばしばかのキリスト教先達者、この神学博士と意見全く相合するを得ざるに至れり、或は余の一身を処するにおいて忠実なる一信徒より忠告を蒙るあり、いわく、「君の行績は聖典の明白なる教訓に反せり君よろしく改むべし」と、親愛なる友人の忠告として余は再び三度己を省みたり、されども沈思黙考に加うるに祈祷と聖典研究の結果を以てしかしてのち友人の忠告必しも真理なりと信ぜざる時はやむをえず自己の意志に従いたり

【現代語訳】
私の思想と行動において、しばしばキリスト教の先達者や神学博士と意見が全く異なるようになった。私は自分の態度を決定するにあたって、ある忠実な信徒より忠告を受けた。それは、「君の行動は、聖書に明らかな教訓に反しているから、改めなさい」というものだった。親愛なる友人の忠告を受け止め、私は何度も自分を省みた。しかし、思索をめぐらして、祈りと聖書研究を重ねた結果、その友人の忠告が正しくないと思った時には、自分の意志に従った。

キリスト教先達者(学会幹部のようなもの?)と意見が異なってしまった。その時に内村は、他の信徒から「考えを改めろ、お前はキリストに反している」と言われたわけです。

しかし内村は、祈り、聖書を読み、考えて、「自分が正しい」と結論した。自分の意志に従ったわけです。

反対意見を唱える人を「反逆者」と罵ってはいけない

しかしこの生き方は、彼を窮地に追いやります。

【原文】
ついには教会全体より危険なる異端論者、聖書を蔑ろにする不敬人、ユニテリアン(悪しき意味にて)、ヒクサイト、狂人、名誉の跡を追う野望家、教会の狼、等の名称を付せられ、余の信仰行蹟を責むるに止まらずしてよの意見も本心もことごとく過酷の批評を蒙るに至れり

【現代語訳】
ついに私は、教会全体から、「異端者」「聖書を蔑む不信心者」、「ユニテリアン」、「ヒクサイト」「狂人」「名誉を追う野望家」「教会の狼」などと呼ばれ、私の信仰や行動を責めるだけでなく、私の意見や本心も全て過酷に非難されるようになった。

自分の意志を貫いた結果、内村は教団から異端者や狂人扱いされるに至ったわけです。

安保法制成立に反対した学会員の中には、「お前は共産党だ!」と言われた方もいたそうです(陰口レベルでは、私も何度も聞きました)。内村が直面したのは、この状況に似ているかもしれません。
「そんな主張をするなんて日顕宗だ!身延だ!念仏だ!」なんて事を言う先輩にも、私はお会いしたことがあります。しかし、こうしたレッテル貼りは、本当にやめたほうがいい。内村は以下のように書いている。

【原文】
余はかつて聞けり、無病の人をして清潔なる寝床の上に置きしかして彼は危険なる病に罹れる患者なれば今は病床の上にありと側より絶えず彼に告れば無病健全なる人も直ちに真性の病人なると、人を神より遠ざからしめ神の教会を攻撃せしむるものは必しも悪鬼とその子供に非ざるなり。

【現代語訳】
私はかつて聞いたことがある。健康な人を清潔な寝床の上に寝かせて、「お前は重病人だから、病床の上にいるんだぞ」と絶えず言い続ければ、健康な人間もすぐに本当の病人になってしまう、と。人を神から遠ざけたり、神の教会を攻撃させる者は、必ずしも悪鬼とその子供ではないのである。

つまり、どんなに信仰深い人間も、「信心がない」「共産党員だ」「日顕宗だ」などと言い続けると、その人間は本当に「信心がない」人間になってしまう。人を信仰から遠ざけるのは、「魔」だけではない、熱心な信者が他の信者の信心を奪うことがあり得るのです。

創価学会公明党は、反旗を翻した人間を「反逆者」と罵り、それを「絶対悪」と位置付けることにより、自分たちの正当性保証に不利な歴史を、総括(隠蔽・改竄ともいう)してきました。
私の意見では、竹入義勝などの例は、明らかに創価学会公明党も「やりすぎ」です。宗門からの独立の際の「日顕は極悪坊主」というネガティブキャンペーンも、信者へのPR戦略としては優れていても、倫理的には褒められたものではありません。

百歩譲って、創価学会本部という巨大官僚機構がそのような戦略をとらざるを得ないとしても、現場の組織では避けたほうがいい。
つまり信濃町の「反逆者論法」に従って、組織に反対意見を述べる人間を、「信心がない」「反逆者」などと決めつけていると、その人間は創価学会、さらには御本尊や池田名誉会長からも離れてしまうわけです。
たとえ、「健康な人間」、つまり「強い信仰心を持っていた人間」であったとしてもです。このような例を私は、創価学園時代から何度も見ています。

創価新報などに掲載される「絶対悪」「反逆者」等の浅薄な批判からは距離を置いて、それを冷淡に見る必要があると私は考えています。それは普段の学会活動において、「反逆者論法」を他の会員さんに「悪用」するのを避けることにもつながるはずです。

✳︎(筆者註)共産党日蓮正宗の名前を出しましたが、この2つを揶揄しているのではありません。ただ、この両者が現在の創価学会の中において、「反逆のシンボル」のように扱われている事から、このような表現を例示しています。これは私の宗教・政党批判ではなく、「お前は日顕宗だ!」という言説が「お前は信心がない反逆者だ」という弾劾と同じ意味を持っている創価学会内部の事情によるものです。また後述しますが、私は日蓮正宗を「邪教」などと思っておらず、信徒の方にも尊敬している方がいらっしゃいます。

続きは、以下。

sanseimelanchory.hatenablog.com

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文中の以下の表現に関しまして、渋調さんより、ご指摘をいただきました。

結局、学会内部から出てくる言説は、「組織から離れたら、信心が狂うよ」「教義も大切だけど、活動が根本だよ」「公明党は歯止めになっているんだよ」「公明党が勝つ事が、先生にお応えすることなんだよ」など、組織維持を目的にしたものだけです。

ご指摘①:「組織維持」は、「目的」ではなく、「広宣流布のための手段」ではないか。

筆者回答:上述の言葉の発話者は、それを利他的な目的や、創価学会の究極目的である「広宣流布」のためなど、純粋な動機に基づいて行っている。これらへの配慮をすることなく、それらの言説を、「組織維持」という組織の内在論理からのみ説明した事は、配慮が足りなかったと反省している。

とはいえ、「広宣流布」は、創価学会内部にのみ通用する理念であるため、それを使用して上述の言葉を使う事は、「組織の意見に反対してしまった人」を対象にした本稿の目的に反するように思われる。

なので、「組織維持を目的にしたものだけです」を「それを言われた人間にとって、組織の目的に賛成する事を要求されるものに映ってしまうものである」に変更したい。

 

さらに、以下の表現について、ご指摘いただきました。

これらの動きは創価学会が巨大組織である以上仕方がないですし、学会に「反対者に寛容になれ!処分するな!」と言っても、よほど大規模な運動にならない限り、無駄だと思います

ご指摘②:「反逆者」は組織維持に反するため処分されるが、反対者は組織維持の論理に反しない。

筆者回答:

これについては、「反対者」と「反逆者」について、本稿での定義をしておきたい。私が考える両者の違いは、何らかの造反行為をした主体者の「動機」の違いである。

つまり、「反逆者」とは「組織の破壊を目的とした活動を行う人間」である。

それに対して「反対者」とは、「組織の見解が組織本来の目的に反していると認識し、それについて反対の声を上げる人間」である。

この両者には確かに大きな違いがあるように見えるが、組織側から見て重要なのは、その人間の「動機」ではなく造反活動が組織に齎した「結果」である。ゆえに、組織破壊を目的としていなくても、結果的に組織側にとって都合の悪い結果を齎す事があり得る。よってその結果を見て、「処分」を下す事があり得る。例えば、竹入義勝矢野絢也などが、はじめから組織破壊を意図していたのか、私には疑問である。また、創価学会を解雇・除名された3人組は、「組織改善という純粋な動機」から造反活動を続けているというが、学会本部の内部事情の暴露などは、明らかに組織破壊という結果をもたらしている。彼らが純粋な動機で活動しているというのは、嘘であるとも考えられるが、そんな事は分かりようがないし、私は彼らには嘘をつくほどの能力はないと考えている。

そもそも私も、創価学会が反対者を処分しているなどと考えていなかった。しかし、創価学会を解雇・除名された3人組の開催した会合に参加した知人によれば、そのような「処分」を受けた会員が一定数いたという。そして彼らは、ひとりの学会員・天野達志氏などともに、「反対した会員を処分するな」という運動を繰り広げているという。

即座に組織の横暴だ等という気はないし、創価学会が不当な処分をしているなどとは私は考えていない。

しかしこのような実体験に基づいた運動が一定規模になっている以上、「組織が反対者を処分している」という事実を、とりあえず受け止めて、論を進めなければならないのかもしれないと思っている。