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学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、バリ活にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

創価学会の信仰の本質とは何だろう:内村鑑三『基督教徒のなぐさめ』を読む②

創価学会考 政治考(公明党)

暑い日が続きますね・・・。
前回に引き続き、本日も、内村鑑三『基督教徒のなぐさめ』を読みながら、「組織に反対意見を持ちながらも信仰を貫く生き方」について、考えていきたいと思います。

(前回記事は以下)

sanseimelanchory.hatenablog.com

 

教会に捨てられた内村鑑三

教会の見解に反して、自分の意志を貫いた内村鑑三
しかしそれは、教会の聖職者や神学者、他の信徒を敵に回し、「反逆者」「異端者」と罵られるに至りました。

【原文】
余は教会に捨てられたり、余は余の現世の楽園と頼みし教会より勘当せられたり。
【現代語訳】
私は教会に捨てられた。私は、私がこの世の楽園としていた教会から勘当されてしまったのである。

熱烈な信仰者として生きてきた内村。その内村にとって、教会から捨てられることは、何を意味していたのか。
本稿は、客観的学術研究ではなく、創価学会員の私のアクチュアルな問題意識に基づいたものです。でしたら、内村鑑三の立場に自分を重ね合わせて、実存的に主観的にその心情を想像することも許されるでしょう。

例えば私が、創価学会から除名されたらどう思うか。しかも除名の原因が、「現在の創価学会が、自分の愛する池田先生の精神に反している」という自分なりの正義・信念に基づいた行動の結果だったのならば。

私は、「アンチ創価学会」と言われる事も多い。それは当たっているでしょう。私は、学会の主張や運動の99%に批判的であり、かなり突き放した意見を述べる事もあります。学会の内部は、無知や盲信、不条理と呼ばざるを得ないものも多く、それらに全て肯定的になれというのは、自己欺瞞に陥るほかはない。

それでも尚、学会は偉大であると思います。学会のお陰で人生の悲運を乗り越えた人々を、私は限りなく見てきましたし、私もその一人であります。
創価学会を絶対無謬の存在と考えて、世間的に見れば「カルト」と評さざるを得ない主張や活動を繰り広げている方が大勢いる。私はそに違和感を覚えながらも、同時に心から尊敬している。
その姿には、世間的な地位や金銭の追求に終始する政治家や拝金主義者や、自分は賢者であると傲慢に生きる評論家や学者には無い、崇高さがある。たとえ傍から見たら愚かであったとしても、そこにこそ人生の真理があると思わされることがある。

そのような創価学会は、私にとって自分自身それ自体であるとも言える。
そんな学会に捨てられたとしたら、自分の精神の背骨が音を立てて崩れ、もはや立っていられないかもしれない。
内村のいう「教会から捨てられる」ということーその事は、私にとって切実な響きを持って胸に迫ってきます。

「キリスト」と「キリスト教」は違う

自分の精神の背骨を抜かれてしまった内村鑑三。彼はどのようにして立ち上がったのか。少々長いですが、彼の文章を引用します。

【原文】
人は真理を知るの力を有し、ただちに神の「インスピレーション」に接するを得るものなりとは余がキリスト教基本の原理と信ずる処なり、教会必ずしも真理の証にあらざるなり、教会は真理を学ぶにおいて善良なる扶助なるべけれども、真理は教会外においても学び得べきものなり。
(中略)
ああ神よ、この試練にして余のいまだ充分に爾を知らざる時に来たりしならば余は全く爾の手より離れしならん、しかれども爾は世に堪ゆ能わざるの試練を降さず、教会は余が自立し得る時にあたって余を捨てたり、教会我を捨し時に爾は我を取り挙げたり、余の愛するもの去て余はますます爾に近く、国人に捨てられて余は爾の懐にあり、教会に捨てられて余は爾の心を知れり。


【現代語訳】
人は真理を知る力を有している。私は、神の「インスピレーション」に接する事によって真理を得ることが、キリスト教の基本原理と信じている。教会は必ずしも真理の証ではない。教会は真理を学ぶ上では善良な助けとなるけれども、真理は教会の外でも学ぶことができる。
(中略)
ああ神よ、この試練によって私がまだあなたを十分に知らなかったとしたら、私は完全にあなたを捨て去っていたでしょう。しかしあなたは、私が耐えることのできない試練を下さることはない。教会は、私が自立できる時に私を捨てた。教会が私を捨てた時に、あなたは私を取り上げてくださった。私の愛するものは去ったが、私はますますあなたに近くなった。同胞に捨てられて、私はあなたの懐に入ることができた。教会に捨てられる事によって、私はあなたの心を知ることができた。

教会に捨てられた内村が悟ったこと。それは、「教会」や「教義」などといった、イエス以外の人間がつくったものが取り除かれた、純粋な「イエス・キリストの心」だったのではないでしょうか。

創価学会立正佼成会日蓮正宗日蓮宗という教団がたくさんあります。それぞれ異なる教義や儀礼を持つ。それらは、全て「一生成仏」の実現という仏法本来の目的の「善良な扶助」となるべきもの、あくまで日蓮仏法を信ずる信者の信仰を補助するための、相対的なものに過ぎません。

しかし、それらが「組織信仰」となって本末転倒を引き起こしたり、偏狭な教義論争で信者の分断を招いてしまったりする。そして更には、教団の政治的立場が、熱心な信者を「反逆者」と決定づけ、信仰から離れさせるに至る。これらは大変な悲劇であると思います。

内村は、キリスト教会から捨てられた。しかし、教会から捨てられたからこそ、キリスト教会という相対的な存在を遥かに下に見下ろしながら、真に信ずべきもの、「キリストの真理」を自覚するに至ったのではないでしょうか。

宇宙の教会

内村はさらに筆を進めます。

【原文】
神の教会は宇宙の広きがごとく広く、善人の多きがごとく多し、余は教会に捨てられたりしかして余は宇宙の教会に入会せり。
余は教会に捨てられて始めて寛容寛有の美徳を了知するを得たり、余が小心翼翼神と国とに事えんとする時にあたって、余の神学上の説の異なるより教会は余の本心と意志とに疑念を懐きついに或は余を悪人と見るに至れり。

【現代語訳】
神の教会は、宇宙のように広い。善人が多いように多い。私は、教会に捨てられた、しかし私は宇宙の教会に入会したのである。
私は、教会に捨てられて始めて寛容の美徳を知る事ができた。私がビクビクしながら国と教会に貢献しようとするに当たって、私の神学上の説が異なることにより、教会は私の本心と意志とに疑念を懐き、ついには私を悪人と見るに至った。

教会に捨てられた内村は、地上の教会ではなく、「宇宙の教会」に入るに至ったと言います。これは即ち、カトリックプロテスタント英国国教会、ユニテリアン派など様々な地上的教派を遥かに見下ろした、普遍的な絶対者に帰依する立宗宣言とも言えるでしょうか。

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この文章は本来、こうした教派や教義などの相対的な違いを乗り越えて、「イエス・キリスト」自体に迫ろうという試みでもあります。

しかし敢えて、この文章を「創価学会の内部事情」という非常に狭い世界において解釈するという、「誤読」を試みてみましょう。

創価学会員」と一括りにしても、様々な意見があり、論点があります。

創価学会の御本尊には功徳があるか
・本門戒壇の大御本尊を出世の本懐と信じるか
・3代会長を永遠の指導者と仰ぐべきか
日蓮末法の御本仏であるか
日蓮正宗は邪教であるか
・財務や聖教新聞の講読料、印税中心のビジネスモデルは適正か
公明党への支援活動をすべきか
・平和安全法制に賛成するか

などなど、挙げればキリがありません。

これらの全てに賛成できる方は、稀でありましょう(前述の通り私も、99%は批判的です)。そして厄介な事は、公明党への支援活動」や「平和安全法制」といった、時流によって大きく旗色の変わる政治的な問題が前面に突き出し、教団を二分してしまう事です。そしてそれは、反対を唱える人を教団に居づらくさせてしまう。

この原稿の執筆動機は、「池田名誉会長ご不在の時代」に、もはや組織が一枚岩になる事が困難になり、様々な意見が噴出せざるをえない事に対する危惧でした。
そこでしなければならない事は、学会員の意見を1つにまとめようと、外圧を加える事ではないと私は思います。
創価学会内に存在するあらゆる論点の中で、「創価学会の信仰の本質」を抽出すること。その本質における同意を重視しながらも、それ以外の論点は寛容になり、多種多様な意見を許容することです。

キリスト教徒でない私が語るのもおこがましいですが(というか資格がないかもしれない)、キリスト教における本質とは以下ではないでしょうか。

●イエスを「キリスト(救世主)」であると信ずること。

内村鑑三は、教会に捨てられた。捨てられたからこそ、三位一体などに関する教義論争や政治的衝突によって分裂を繰り返してきた、たくさんのキリスト教会の教派から自由であり得たのだと私は思います。
彼は、「イエスこそキリストである」というキリスト教の本質を見抜く事ができた。だからこそ、偏狭な教義論争や政治紛争を遥か上空から見下ろし、「宇宙の教会」に入会する事ができたのだと私には思われます。

創価学会の信仰の本質とは何か

それでは、創価学会の信仰の本質とは何でしょうか。私の考えでは、以下の2点です。

創価学会の本尊に祈ることにより、功徳が受けられると信じる事。
②3代会長、特に池田名誉会長を「永遠の指導者」と仰ぐ事。

(これについては私の考えですので、また会員の方からご批判いただければと思います)

まずは①について。創価学会の下附する本尊に祈るという行為は、創価学会の信仰活動の中核と言えるでしょう。この行為により、功徳が受けられると信じられなければ、創価学会に在籍する意義が問われます。
ちなみに、「功徳が受けられる」という言葉は、厳密には定義しません。「功徳」とは主観的な概念であり、それを「一生成仏」のような抽象的・彼岸的概念で解釈する方もいれば、「病気の克服」のように具体的・現世的に解釈する方もいる。どちらが正解だとか、高尚かという問題ではなく、それぞれ信仰者が「学会の下附する本尊に祈る事が、自分に価値をもたらす」と感じる事が重要だと思います。

続いて、②について。創価学会の教義は、日蓮原理主義ではない。それは、3代会長、とりわけ池田名誉会長の思想・人生と不可分です。我々は、池田名誉会長の言葉を通じて日蓮思想を解釈し、『人間革命』などを通じて学んだ池田名誉会長の人生を「日蓮仏法の体現」と考えています。いわば池田名誉会長は、創価学会の「信仰者のモデル」のような存在であるわけです。

会則変更と勤行要典改正によって、3代会長の位置づけが「広布の指導者」から「永遠の指導者」に変わりました。これも解釈が難しいですが、「宗教活動の運動論の指導者」という相対的な位置付けから、3代会長を「仏教史の中でも特異な存在」と位置付け、その人生や思想、信仰態度を「我が人生・信仰の絶対的規範」とすることだと私は解釈しています。

この3代会長、中でも池田名誉会長の思想を通じて日蓮思想を解釈し、その人生を自らの目指すべき理想像とすること。これが私の考える創価学会の信仰の、第2の本質です。

①と②を高い要求に感じられる方もいらっしゃるかもしれない。「御本尊を信じられない」「池田先生を師匠と思えない」とは、私も何度も受けてきた相談ですし、私自身悩むことがある。
しかし、信仰という精神活動に到達点はありません。大切な事は、「まだ信心の確信なんてないけれど、御本尊を信じよう」「偉大さがよくわからないけど池田先生に学ぼう」というような、上述の2点を志向して生きる「態度」「心構え」でしょう。その途上での様々な煩悶や懐疑、葛藤の生じるのは至極当然であり、それらの人間的感情をもって「学会員失格」などとすべきではない。

①に対して疑義がある方は、日蓮正宗を選ぶ。そういう選択は、私は本当に賢明だと思っています。学会の本尊認定権にどうしても疑義があるならば、信仰活動を継続することは非常に難しいと思います。それを「不信心」などと罵ってはいけないと思います。
また、「②池田名誉会長を信じられるが、①御本尊には帰依しない」という佐藤優的な生き方も考えられます。

②3代会長に関してもそうであり、これをどうしても受け入れられないならば、学会にいる事はかなり辛いでしょう。私は、「創価学会だけが日蓮正統の団体」という立場をとっていません(私の解釈では創価学会も、似た立場をとっています)。創価学会という教団は、日蓮を厳密に解釈しようという教団というよりも、池田名誉会長を「信仰のモデル」と仰ぐ新宗教的色彩の強い教団です。

もしも②の受容が難しいが、日蓮や御本尊は信じられるというならば、日蓮系の教団は日本にたくさんあるし、そちらを選択するのもアリです。それが本人にとっての幸福ならば、これもまた「不信心」などと罵ってはいけない。それも尊敬すべき、偉大な決断です。

公明党の支援活動について

強調されるべきは、学会の組織活動においては、上述の2点以外は極力寛容であることです(上記2点の指導に当たっても注意が必要ですが、本稿では措いておきます)。

最大のものが、公明党の支援活動。これはもう今後、ある程度自由を許容していかざるを得ない。特に、公明党が与党に残り続けるならば、それが採用する政策や意思決定は、政治色をどんどん増していきます。

平和安全法制の議論の際に、公明党の矛盾を指摘する声が相次ぎました。しかし私の考えでは、あれは公明党の矛盾というより、「日本の矛盾」です。公明党共産党のような「万年野党」の立場をとらない限り、直面せざるを得ないものです。
政治という矛盾と不条理に満ちた世界に突入する決意をした以上、創価学会本部は、会内の意見が割れることを覚悟しなければならない。

公明党改憲勢力ではない!」と信じたい気持ちもわかりますが、いずれ9条改憲(3項加憲ではなく2項改憲)は直面せざるを得ない問題だと思います。こうした政治的な問題によって、創価学会が分裂するのは、非常によろしくない。

創価学会本部は、これまでのように公明党への全面的支援活動を続けながら、組織の一体性を保ちたいというならば、公明党に「連立脱退」を要求すべきでしょう。与党である以上、公明党の政治的判断が創価学会の宗教的思想と乖離していく事は、避けられないからです。その時公明党は、共産党社民党のような路線を選ばなければなりません。

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もし与党への残留を選択するならば、学会員の公明党への支援の程度は弱めていかざるを得ない。現在の創価学会では、公明党への支援活動は「法戦」とされ、宗教的動機と不可分のものになっています。政治的行動と宗教的動機を深く結びつけている以上、「安保法制は池田先生の絶対平和主義に反するから反対だ!」という意見が出ることなんて、当たり前すぎます。
そうした異論を「信心がない」などと抑えつける組織運営では、信仰の中核である「御本尊への祈り」「3代会長への尊敬」さえ揺るがしかねない。それは組織の体面を保持するだけであり、宗教団体の中核である信仰を骨抜きにしてしまいます。

残された難問

しかし、まだ残された難問があります。それは、①本尊義と②3代会長の思想の間に位置し、引き裂かれた会員さんがいる事です。

それは、「本門戒壇の大御本尊」を巡る教義変更に如実に表れている。
創価学会は、2014年にかつて日蓮の「出世の本懐(生まれてきた意味)」と位置付け、自分たちの正統性の根拠としてきた「弘安2年の本門戒壇の大御本尊」を受時の対象から外しました。

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2014年といえば、すでに池田名誉会長が会合にご出席されなくなった後です。
この教義改訂により、創価学会執行部は、池田先生の精神に反して暴走している!」と抗議の声を上げた方が、私の周りにもいらっしゃいます。未だに納得できていない、年長の会員の方も沢山いる。

しかしこれは、以前以下の記事で書きましたが、池田名誉会長の長年の宿願であるというのが私の考えです。

創価学会執行部のホンネ:2014年会則変更問題をめぐって

池田名誉会長に批判的な人(平たく言えば嫌いな人)は、「池田率いる創価学会は、暴走している!」と声をあげればいいし、その葛藤はそこまで深刻ではない。そういう方には、日蓮正宗というオルタナティブもある。

しかし問題は、池田名誉会長を尊敬し愛しながらも、この教義改訂に納得できない人でしょう。こういう方が取れる態度は、以下の2つです。

A.教義改訂に池田名誉会長の「ご了承」が無かったと仮定して、学会執行部を非難する
B.「池田名誉会長」と「本門戒壇の大御本尊」の二者択一を迫られ、その葛藤に無限に苦しむ

深刻なのは、明らかにBでしょう。
合致していたはずの信仰の対象であった「池田名誉会長の思想」と「本門戒壇の大御本尊」が分裂して、相互に相容れなくなり、安住できる場所を失ってしまうのです。これほど苦しいものはない。

果たしてどのような立場をとればいいのか。
この分裂状況の中に無い、平成生まれ学会員の私には、教えを垂れる資格はないでしょう。
これは、このような悩みを抱えてしまった方が、実存的に解決しなければならない問題です。こうした矛盾した2つの命題に引き裂かれた時、偉大な思想が生まれるのだと私は思います(他人事のようで申し訳ないですが、私にはこれしか言えない)。

しかし、私なりの意見を述べる事は最低限許容されると思っています。
これについては、次記事にて述べさせていただきます。

「組織信仰」と「自分信仰」

かなり長くなってしまいましたが、内村鑑三を読みながら、「教会(宗教団体)に頼らない信仰」について考えてきました。
彼が言う通り、本末転倒の「組織信仰」は絶対に避けるべきです。

しかし、この「組織信仰」よりも、もっと厄介な人間がいると思っています。
それは、「今の創価学会には池田先生の精神はない」などと決めつけ、熱心に組織活動をする会員さんを見下したり、馬鹿にしたりする人間です。

その人間が学会員を自称し、池田名誉会長を指導者と仰ぐならば、池田名誉会長が決死で創り上げてきた創価学会を、なぜ簡単に唾棄できるのか。たとえその人にとって、創価学会に池田名誉会長の精神が形骸化しているとしても、この池田名誉会長が創価学会に全生命を賭してきたという歴史的経緯をどう受け止めているのか。私には全く理解できません。

別に「組織活動をやめる」というのも選択肢の1つですし、場合によっては学会員として偉大な決断でしょう。そういう生き方を選んだ方は私の周りにもいるし、中には尊敬している人も一定数いる。

しかし、創価学会を簡単に見限って、池田名誉会長が建設してきた学会の活動に真剣に励む人間を見下すメンタリティが、全く理解できない。少なくとも、「非活」という選択は、池田名誉会長を愛していればいるほど、大きな苦しみを伴う選択であり、嬉々として自分を絶対化して他人を侮蔑する事のできるようなものではないはずです。

そういう人間は、結局「組織信仰」よりも桁違いに厄介な、「自分信仰」に陥っている。我見を絶対視して謙虚さを失うのは、信仰者として一番恥ずべき事だと私には思われます。

内村鑑三が、「無教会派」として一番主張したかった事ーそれは、「教会の人間を見下すこと」ではない。人間が作り上げたものを絶対視する「自分信仰」「人間信仰」への警鐘だった。それが私の考えです。
それについては、次回詳述します。

(続く)

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