学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、バリ活にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

ヘーゲルとの復縁を決意:『小論理学』を読む①

現代思想をを勉強しはじめました。
きっかけは、「創価学会員による創価ダメ出しブログ」の管理人の否創価活動家さんと「学問と信仰」の問題について、意見交換したことです。

宗教を勉強していくと、どうしても学問と自分の所属教団の教義が矛盾してしまうという事態が発生します。そうした時に、「学問を完全に無視する」か、「教義を捨てる」という立場をとる事もできますが、それは極端にすぎると思います。

矛盾する両者の間に立ち、両極のどちらでもない新しい立場を創出することーそれが思想という試みであるように、私には考えられます。

とはいえ、そんな巨大な任務を私の独力で行うことはできません。
そこで、「理性と宗教」というような問題を頭がおかしくなる程考えてきた、ヨーロッパの大哲人たちに学ぶ事から始めようと思いました。

とりあえず取り掛かるのは、カント、ヘーゲルキルケゴールカール・バルトです。

本稿で着手するのは、ヘーゲル『小論理学』です。

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ヘーゲルの嫌な思い出

実は私は、創価大学時代にこの本に挑戦したことがあります。
法学部だった私は、論理学を勉強し、その中でヘーゲルを知って同書を手に取りました。
しかし本当にわけがわからない。法律の条文の方が、何億倍も易しい。論理学は「クリアでシンプル」なものだという私の先入見は、粉々に砕け散りました。

結局挫折し、私はヘーゲルとの絶縁を決意しました。

しかし社会人になってから思想に興味を持った私は、色々と本を読みましたが、絶縁したはずのヘーゲルは至る所に姿を現しました。どうやらヘーゲルは、通過しなければならない関門のようです。
近代哲学を学ぼうと決めた以上、ヘーゲルと復縁しなければならないと重い腰を上げることにしました。

とはいえ、前回の挑戦時よりは、読書量は積み上がっておりますので(まだまだ浅学ですが)、あの時よりは上手く付き合えるのではないかと期待しています。

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読書の方針

ヘーゲルを読むに当たって、以下を基本的な読書方針にしたいと考えています。

●原書に忠実に読む

ヘーゲルには様々な解説本が出ていますが、あえてそれらを使わずに、ヘーゲルのテキストに向き合おうと思っています。まぁ過去にヘーゲル解説本を何冊か読んでしまっておりますので、それらから完全に自由に解釈することは不可能ですが、できる限りの努力はします。

「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」というようなキャッチコピー的なヘーゲル理解に引きずられないよう、十分注意したいと思います。

また、私はドイツ語はできませんので、松村一人訳『小論理学』(岩波書店)を使用します。場合によっては英語版を購入して、理解の助けとします。

辞書だけは使用させていただきます。『岩波小辞典 哲学』を使います(『岩波思想・哲学大辞典』が欲しいですが、なかなか手が出ません。「ヘーゲルを読了できたら買う」と決めるのもアリかもしれません)。

●わからない所はわからない

どうせ私の頭では、壁にぶつかる事は目に見えています。「わからない所はわからない」と決めて、そうはっきり書きます。あまりにわからないことばかりが続き、迷宮に迷い込んだ場合、の就職・結婚・親の介護を全て断念して哲学科の大学院に進んだ友人に助けを借りながら、脱却を試みます。

論理学とは何か?

それでは早速、『小論理学』の第1章「予備概念」を読んでいきます(「序文」は、とりあえず措いておきます)。
同章は、以下のような一文から始まります。

論理学は純粋な理念に関する学、言い換えれば、思惟の抽象的な領域にある理念に関する学である。(95頁)

恐らく、ヘーゲルという人はこの本において、自分独自の論理学を打ち立てようとしているだろうと予想できます。そこでまずは論理学という言葉を、定義しているのでしょう。それによれば、論理学は「理念」に関する学のようです。参考までに辞書を引いてみると、

イデー(理念と同義):ヘーゲルは、イデーをまた絶対的実在とする絶対的観念論を展開した。彼のイデーは論理的イデー、自然、精神の三段階を通じて弁証法的に自己発展するものである。

とあります。よくわかりませんが、ヘーゲルは「イデー=理念」を「絶対的実在」として持論を展開したようです。何が言いたいのかわかりませんが、とりあえず措いておきましょう。

続いて「思惟」という言葉も辞書で引いてみると、以下のようにあります。

感性の作用と区別され、概念・判断・推理の作用をいう。われわれはこれらによって感性的に与えられた材料を総括し、対象の諸側面の連関、全体、法則性、本質を認識する。

感性とは、外界を感覚的に感受する作用です。いま、私の机の上にコーヒーがあります。これを視覚的に捉えるのは、「感性」の仕事です。それに対して、「コーヒーとは、飲み物である」「コーヒーとは、液体である」というような命題をつくるのは、「思惟」の仕事でしょうか。

このような抽象的な領域で働く「思惟」を対象とした学問を、ヘーゲルは論理学としているようです。これは、我々の考える論理学と、近いのではないでしょうか。
例えば植物学では、「植物とは、光合成をする生物である」というような内容を扱います。つまり、「植物」という外界の対象を研究する学問です。

それに対して、「論理学」とは、上述の「植物とは、光合成をする生物である」という考察の前提となる思惟作用を対象にします。つまり、「AはBである」と「AはBでない」という2つの命題は、同時に成立しないというような人間が持つ思考作用を対象とするものです。

発展・生成するヘーゲル論理学

理念は、形式的な思惟としての思惟ではなく、思惟に固有の諸規定および諸法則の発展する全体としての思惟であり、そして思惟はこのような全体を自ら作り出すのであって、すでにそれを所有しそれを自己の内に見出しているのでは無い。(95頁)

これだけ読んでも、現時点ではチンプンカンプンです。しかしなんとなく分かることは、ヘーゲル論理学は、矛盾律のような、我々の思惟の形式・法則を対象にしている。しかし、どうやらその思惟は、諸法則はもともと持っているのではなく、思惟自身が発展しながら自らそうした法則を作り出していくようです。
ヘーゲル論理学は、思惟の諸法則を静的に観察するのではなく、動的に発展するものとして把握していくようです。これについてはまだわかりませんので、追って明らかになっていくのでしょう。

事件は会議室で起きているんじゃない、現場で起きているんだ!

論理学は直観的なものを取り扱うものではなく、(中略)、純粋な抽象物を取り扱うものである。それは純粋な思想の内へ退き、純粋な思想をしっかりと捉え、純粋な思想のうちで動く力と熟練とを要する。(95頁〜96頁)

これについては、我々が「論理学」と聞いてイメージするものと近いと思います。すなわちそれは、経済学が経済を対象としたり、植物学が植物を対象としたりするのとは異なり、純粋な「抽象的な思考」を対象にするものです。ヘーゲルもこれには同意していますが、「思惟の評価」に対しては過去の哲人たちに異論があるようです。

思惟の評価となると、これを非常に低く評価するような考え方もあり、また非常に高く評価するような考え方もある。前者のような考え方の例としては、それは思想に過ぎないというような事が言われている。この場合思想は、単に主観的なもの、恣意的なもの、偶然的なものと考えられていて、事柄そのもの、真なるもの、現実的なものでは無いと考えられているのである。(99頁)

ここでは、「思惟に対する評価」として、それを「低く評価する立場」と「高く評価する立場」の2つが挙げられています。「低く評価する立場」の例として、思惟を「単なる主観的なもの」と捉えて、それは現実世界とは違うよ、という立場をとっています。
これは伝統的形而上学や大陸合理論、イギリス経験論、批判哲学などを念頭に置いていると考えられますが、あえて卑近な例で考えてみましょう。

コンサルタント」とされる方々がいらっしゃいます。ロジカルシンキングの権化ともいえる存在であり、現実をロジカルに把握して、ロジカルにソリューションを提供する。膨大な資料の海に揉まれながら、果てしないエクセルの密林を逍遥し、極めて整然とした答えを出す。

私も憧れた時期がありましたが、よく聞くのは「コンサルタントは現実離れしている」というものです。彼らは理路整然としていて美しいパワーポイントを作るが、それが必ずしも現実に合致しているわけではない。乱暴に言えば、「現場を知らない」。

すごく俗っぽい解釈をすると、「現場主義」も、この「思惟を非常に低く評価する」1種と言えるのかもしれません。つまり、会議室でお偉いさんたちが考えた戦略やマニュアルは、現実に合致しない。重要なのは、個別具体的な事実であり、事件である。

「事件は会議室で起きているんじゃない、現場で起きているんだ!」的な立場です。

かなり極端な話をしてしまいましたが、ヘーゲルの挙げている「思惟を低く評価する立場」は、論理学(ロジカルシンキング)を主観的なものに過ぎず、「現実それ自体」とは乖離したものと捉えるものであると言えるでしょう。

精神とは神であり、思惟のうちにある

そして、ヘーゲルの言う「思惟を高く評価する立場」です。

しかし他方にはまた、思想を非常に高く評価する考え方もあって、われわれは思想のみが最高のもの、すなわち神の本性に達しうるのであって、感覚は全く神を認識する事ができないと考える事もできる。(99頁)

「思惟」と「思想」の語義を一緒のものと仮定すると、思惟こそが「神の本性」に達することができるんだという、非常に大胆な立場です。
先ほどの「思惟を低く評価する立場」、俗っぽくいうと「現場主義」は、コロコロ変わる現実に左右されてばかりおり、神や真理を全く認識することができないといいます。

注目すべきは、ヘーゲルが「思惟を低く評価する立場」よりも、「高く評価する立場」の記述に、大幅に紙幅を割いていることです。

神は精神であるから、精神及び真理のうちで崇拝されねばならないと言われている。感覚的なものは精神的なものではなく、精神の最奥のものは思想であり、精神のみが精神を認識しうるのである(中略)精神的な内容、すなわち神そのものは、思惟のうちにおいてのみ、また思惟としてのみ、その真の姿のうちにあるのである。したがってこの意味から言えば、思惟は単に思想に過ぎないものではなく、むしろ最高のものであり、厳密に言えば、永遠で絶対的なものをとらえる唯一の形式である。(99頁〜100頁)

思惟を「永遠で絶対的なものをとらえる唯一の形式」であるとしています。これが、「思惟を高く評価する立場」についての記述なのか、それともヘーゲル自身の立場なのか、文脈からは必ずしも明らかではありません。

ですが、「①思惟を低く評価する立場」と「②思惟を高く評価する立場」の2つを例示して、前者を軽く記述して終わらせる一方、後者を何倍もの文量で記述している事を考えると、ヘーゲルの立場は②に近いのかもしれない、と仮定してもいいと思います。

また、「神は思惟の中にある」という記述も重要かもしれません。「①思惟を低く評価する立場」をコンサルタントという俗な例で考えてみましたが、それは彼らのロジカルシンキングが、必ずしも現実と一致していないというものでした。
つまり、主体(コンサルタント)における「認識」と、客体(ビジネスの現場)という「対象」が一致していないというものです。

しかし、上述の文章でヘーゲルは、思惟の対象として「神」をあげています。さらにその「神」は、人間の思惟の中にあるという。これだけではまだよくわかりませんが、巷のロジカルシンキングの本が夢にも思わないような、とてつもない構想をヘーゲルは持っているようです。

「精神」とは何か

「精神」という言葉がどうやらヘーゲルの中では、非常に重要なタームのようなので、考えてみましょう。もう1度前述の文章を引用します。

神は精神であるから、精神及び真理のうちで崇拝されねばならないと言われている。感覚的なものは精神的なものではなく、精神の最奥のものは思想であり、精神のみが精神を認識しうるのである(中略)精神的な内容、すなわち神そのものは、思惟のうちにおいてのみ、また思惟としてのみ、その真の姿のうちにあるのである。したがってこの意味から言えば、思惟は単に思想に過ぎないものではなく、むしろ最高のものであり、厳密に言えば、永遠で絶対的なものをとらえる唯一の形式である。(99頁〜100頁)

「精神」というと、我々の言語感覚では、人間の中にある「心」だとか「魂」のようなものと思われますが、ヘーゲルは違うようです。

つまり「精神」とは、「神」なのです。
そしてどうやら、その「精神」とは、我々から隔絶したところにあるものではない。「精神の最奥のものは思想である」と書かれている通り、我々の思惟作用と不可分のもののようです。

私には「思惟」と「思想」の違いがまだわかりませんので、等置していますが、以下のことは明らかではないでしょうか。

精神とは「神」という絶対的な存在である。しかしそれは、この世界から完全に独立して存在する絶対者ではなく、我々が生み出す「思想」と連続的に存在している。

とはいえ、「崇拝されなければならないと言われている」と、他人の意見を客観視するような書き方をされているので、これがヘーゲルの意見なのか、まだわかりませんが。

矛盾する「思想」の語義の解釈

そして上述の文章では、一見矛盾する2つの命題が示されています。

① 精神の最奥のものは思想である。
② 思惟は単に思想に過ぎないものではなく、むしろ最高のものである。

1の命題では、思想は「精神の最奥のもの」と、非常に高いランクを与えられています。しかし2の命題では、「思想に過ぎない」というネガティブな語のように使われています。
これはどのように考えればいいのでしょうか?

私の考えでは、「思想」というおなじ言葉が、全く違う意味で使われているのだと思います。
つまり1の命題では、思想とは、「精神=神」の最奥のものという意味で使われている。
それに対して2では、先述の「思想を低く評価する立場」にとっての「思想」という意味で使われているのです。もう1度引用してみましょう。

思惟の評価となると、これを非常に低く評価するような考え方もあり、また非常に高く評価するような考え方もある。前者のような考え方の例としては、それは思想に過ぎないというような事が言われている。この場合思想は、単に主観的なもの、恣意的なもの、偶然的なものと考えられていて、事柄そのもの、真なるもの、現実的なものでは無いと考えられているのである。(99頁)

つまり、思想とは、「思惟を低く評価する立場」の人たちにとっては、「主観的・恣意的・偶然的なもの」に過ぎないのです。このような意味で、「思想」という言葉が使用されているのだと思われます。

読書歴の浅い私ですが、読書する際には用語の定義を絶対視するのではなく、その文脈において柔軟に捉えることが必要であると考えています。

論理学を尊敬しろ!:ヘーゲルの論理学礼賛

そして、ヘーゲルは、「論理学」という学問を礼賛する文章を書きます。

論理学がこのような地盤を持っている限り、われわれはそれに普通払われている以上の尊敬を向けなければならない。(101頁)

「論理学を尊敬をしろ、まぁ今でも尊敬されてはいるが、まだ十分じゃないんだよ」とヘーゲルはそう書いているわけです。
なぜ尊敬しなければならないのか。それをヘーゲルは、2つの理由から説明しています。

第一の理由は、以下の通りです。

人間は、自分が何であるかを知り、また自分のする事を知ることによって、動物から区別される。(100頁)

つまり人間を人間たらしめるもの、それこそが「自分自身を知ること」、それをする学問が論理学であるからという理由です。論理学は、自分の思惟の活動を対象として考察し、展開される。これは動物にはできないことであり、人間を尊厳ある存在たらしめるものだ、ということです。

確かに動物を「思惟活動のできない存在」と規定するならば、彼らに論理学なんて無理でしょう。思惟能力のない動物は、論理学はもちろん、あらゆる学問をすることは一切不可能です。
もっというと、論理学が対象とする「思惟」を与えられてすらいない。例えば、「砂漠のど真ん中でイルカの生態について研究しろ!」といっても、無理でしょう。

第二の理由は、以下です。

思想はこの感覚の最後の名残からさえ去って、自由に自己のうちに安住し、内外の感覚をしりぞげ、あらゆる個人的な関心や傾向を遠ざける。論理学がこのような地盤を持っている限り、われわれはそれに普通払われている以上の尊敬を向けなければならない。(101頁)

つまり、論理学とは、「感覚」という不確かなものを一切廃した学問である。そうした学問は、論理学だけだというのです。
さらに論理学は、「自己のうちにあるもの」を研究対象とします。先ほどヘーゲルは、「神は思惟のうちにある」というような事を書いていました。ここでは詳細は書かれていませんが、どうやらこの当たりにも、「尊敬すべき理由」が存在していそうです。
(続く)

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