学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、バリ活にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

【末尾にお知らせあり】今日の創価学会における日恭・日淳評価

聖教新聞に連載中の『新人間革命』において、池田名誉会長の会長ご勇退への言及が始まりました。30巻程度を予定しているとしてスタートした『新人間革命』も、いよいよ佳境に入っているのだと思われます。

私が本連載で注目しているのは、細井日達の位置づけ」です。

創価学会日蓮正宗からの分離独立の際に、「日顕という極悪僧侶の出現により、宗門は謗法の団体と化した」という歴史の統括を行いました。当時の話を聞くと、阿部日顕の名前が書かれた紙や写真を「踏み絵」したり、日顕撲滅唱題会を開催したりと、色々と考えられない話が飛び出します(現場に近い幹部が行ったものに過ぎず、本部の指示があったかはわからない)。さらに、宗門のスキャンダル暴露は苛烈を極め、田中金脈を暴いた立花隆を「感心」させるまでになりました(『立花隆の書棚』)。

このような歴史的統括を行った理由は、宗門の歴史を全て否定すると、それがそのまま学会の歴史を自己否定することになってしまうからでしょう。初めから宗門が「謗法団体」であったならば、それに教義や本尊において依存しており、密接に結びついていた創価学会もまた「謗法団体」となってしまう。
ゆえに、日顕という人格的欠陥性を強調する事によって、歴史に断絶をつくった。つまり、それまで日蓮正統の宗派と規定していた団体を、「極悪法主の出現により、大謗法の邪宗門と化した」と総括したのです。

とはいえ、この統括方法には限界があります。
まず、日顕より前の時代の宗門史評価が曖昧なままであるからです。創価学会が使う「第一次宗門事件(1970年代後半)」と「第二次宗門事件(1990年前後)」という名称が示す通り、2つの騒動は相互の独立したものではなく、むしろ連続的に捉えられています。つまり、日顕という「極悪法主」の出現によって、急に「邪宗門化」したのではない。日顕より前から「謗法団体」としての潜在的要素があったという事が、示唆されているのです。

さらに『人間革命』では、戦時中に宗門が政府の政策に迎合した話や、戸田会長の「宗門の邪宗化」を予期したような発言(「追撃の手を緩めるな」)などが出てくる。これらを見ると、創価学会の歴史における日蓮正宗は、初めから純粋清浄な団体ではなく、何らかの「潜在的悪性」をはらんだ存在として認識されているのだと考えられます。「善」とも「悪」とも描く事ができない微妙な存在。それが日顕より前の宗門ということになります。

細井日達は、まさにそのような「微妙な存在」の極致と言えましょう。宗門が完全なる「邪宗門」と化す歴史の変節点の直前に位置する人物であるからです。日達の評価は、宗門全体の評価の中でも、重要な位置を占めると私は考えています。

そこで、『新人間革命』の連載を待っている間に、『人間革命』第2版における宗門ならびに歴代猊下歴史的評価を見てみたいと思っています。
ここでは「一人立つ」の章を取り上げます。初版における記述を視座としながら、第2版を読み、そこからわかる今日の創価学会における宗門評価について考えます。特に、第64世法主の日恭ならびに第65世法主の日淳の位置付けがポイントとなります。

日蓮正宗を「謗法団体」などと記載しておりますが、それは私の個人的見解ではなく、創価学会においてなされている宗門への評価です。学会と宗門の一連の騒動については緒言入り乱れており、私自身は判断がつきかねています。しかし、阿部日顕の「極悪性」や僧侶の「堕落」などを理由に宗門を「絶対悪」と決めるける歴史的統括は、乱暴と言わざるを得ないと考えています(創価学会が教団としてそのような立場を取らざるを得ないことは理解しています)。
ちなみに私は、日蓮正宗を1つの伝統的仏教団体と考えており、「邪宗門」などとは規定しておりません。

戦友としての堀米(日淳)

物語は戸田会長の出獄の僅か2日後の昭和20年7月5日の回想から始まります。戸田会長は病身に鞭打ちながら、中野の歓喜寮(日蓮正宗寺院)を訪れます。そこでは、堀米住職と再会(のちに法主となる日淳)。その約1年後、牧口常三郎の1回忌が同じく歓喜寮で行われ、その模様が描かれます。

《第1版》
「昭和二〇年七月五日ー彼(筆者註:戸田城聖)はこの日、暑い日中は家にいたが、日も傾きかけた時、脳裏から離れなかった宗門の様子を知ろうと、歓喜寮の堀米尊師を訪ねた」(182頁)

《第2版》
「彼は、出獄の日の翌々日、一九四五年(昭和二〇年)七月五日は、暑い日中は家にいたが、日も傾きかけたころ、脳裏から離れなかった宗門の様子を知ろうと、歓喜寮の堀米泰栄住職を訪ねた。」(217頁)

「尊師」という言葉が「住職」に変わっています。「尊師」とは私には聞きなれない単語でしたが、先輩に聞いたところ、宗門からの独立前には普通に使われていた敬称です。日蓮正宗から独立した宗教教団になったのですから、この変更は自然でしょうが、小説の地の文において敬称が使われているのは奇異にも思われます。よくわかりませんが、当時の創価学会と宗門の関係の微妙さが感じられます。

さらに、以下のような堀米住職への呼びかけの名称も変わっています。

《第1版》
「先生・・・」(183頁)

《第2版》
「ご住職・・・」(218頁)

【考察】
「先生」とは、今日の創価学会では原則として「永遠の指導者」である三代会長にしか使われない敬称のため、呼び名が変わっているのだと考えられます。

そして、同章を読み進めていくと、以下のような記述があります。

《第1版》
堀米尊師は、彼の傍に寄って、痩せた手をのばし、戸田の手をとった。大御本尊の真ん前であった。戸田は、思わず両手でその手を握った。すると堀米尊師は、もう片方の手をその上に重ねた。二人は、互いに抱擁するような姿で、戦友のように固く握り合ったのである。
二人のあいだには、語るべき多くのことが溢れていた。だがあまりの懐かしさに、その感慨は、言葉にはならなかった。ただ、無言で固く握っていた手が、言葉以上の多くを語っていた。(183頁)

《第2版》
堀米は、彼の傍に寄って、痩せた手をのばし、戸田の手をとった。御本尊の真ん前であった。戸田は、思わず両手でその手を握った。すると堀米は、もう片方の手をその上に重ねた。二人は、互いに抱擁するような姿で、戦友のように固く握り合った。
二人のあいだには、語るべき多くのことがあふれていた。だが、あまりの懐かしさに、その感慨は言葉にはならなかった。ただ、無言で固く握っていた手が、言葉以上の多くを語っていた。(218頁)

「大御本尊」が「御本尊」に変わっていることは措いておいて、堀米住職と戸田会長の再会の様子が「戦友のように」と描写されています。これは初版と第2版で変わっていない。のちに詳細を確認しますが、堀米は戦時中に宗門の中心人物として奔走した人物のようです。創価学会における戸田会長と、日蓮正宗における堀米住職。両者が「軍部政府」という共通の敵に異なる立場において共に戦った事が、示唆されています。

戸田会長の偉業の強調

上述の文章から、今日も創価学会は、堀米の戦時下での功績に対して一定の歴史的評価をしている事がわかります。しかし、以下のような記述の変更もあります。

《第1版》
堀米尊師は、戦時下、総本山の中枢であり、宗門の矢面に立って戦ってこられた。特に、国家権力に対峙する一切の衝にあたり、骨身を砕いて来ていた。
戸田城聖は、学会の要として、あらゆる受難を一身に浴びてきていた。そして、弾圧の二年の歳月は、二人を全く隔離していたのである。複雑怪奇ともいうべき、時代の激流は、助け合い、呼び合う二人を、見る見る遠ざけてしまった。流れの上には、誤解や曲解が流木のように、浮かんだり、消えたりしていた。(183頁)

《第2版》
堀米は、戦時下、総本山の中枢にあった。
総本山は、自己保身のため、最終的に軍部政府に屈したが、一方で、戸田城聖は、学会の要として軍部政府と対峙し、あらゆる苦難を一身に浴びてきていた。そして弾圧の二年の歳月は、二人を全く隔離していた。複雑怪奇ともいうべき時代の激流は、二人を、見る見る遠ざけてしまった。流れの上には、誤解や曲解が流木のように、浮かんだり消えたりしていた。
(219頁)

第1版では、「宗門では堀米住職が、創価学会では戸田会長が正法護持に死闘した」とされており、両者の偉業は相互に比肩するものと位置付けられている。
しかし、第2版では戸田会長の偉業のみが強調されています。つまり、戦時中の政府による宗教弾圧に対抗した点において、戸田会長の功績は、堀米に勝るとされています。そのことは、以下の文章が第2版では削除されている事からも解釈できます。

《第1版》
後世の歴史家は、この昭和の最大の法難にあたって、勇敢に弾圧と戦った人は、二人いたというだろう。
一人は、日蓮大聖人の法水を、微塵も汚すことなく護り切った、本山側の堀米尊師ーと、一人は、最大の講中である創価学会側の戸田城聖その人であるーと。
ともかくも、やがて、世界人類を救済しゆく最高無二の大宗教は、この二人によって、七百年以来の危機を切り抜けたのである。(184頁)

難しいのは、戦時中の日蓮正宗が「軍部に屈服した」と評価されており、かつ堀米住職が「本山の中枢にあった」とされていることです。これを、「日蓮正宗が軍部に屈服したのは、本山の中枢にあった堀米にも責任がある」と解釈することもできます。

堀米の戦時中の抵抗について

しかし、以下のような記述も見られます。

【第1版】
堀米尊師は、後に六十五世の猊座に登られた方である。
戦時中、総本山の中枢として、数々の難局打開に身を捧げて奔走され、寧日なかった。軍部政府は思想統一政策の必要から、宗教の統制にまで乗り出してきた。そこで、日蓮大聖人の教義に基づくとされている各宗派を、身延山日蓮宗を総本山として、一宗に取りまとめることを企んだのである。とくに軍国主義者たちの暗躍は活発となってきた。
残念なことに、本宗の僧侶の中にも、軍部に迎合し、神本仏迹論などという狂言を唱え、あまつさえ、政府当局の言うままに、邪宗身延派との合同を企んで、獅子身中の蟲となった者さえあったのである。(191頁)

《第2版》
後に六十五世の法主となった堀米は、戦時中、数々の難局の打開に奔走した。
そのころ、軍部政府は、思想統一政策の必要から、宗教の統制にまで乗り出してきた。彼らは、日蓮大聖人の教義に基づくとされている各宗派を、身延山を総本山とする日蓮宗に合同させ、一宗に取りまとめることを企んだのである。特に軍国主義者たちの暗躍は活発となってきた。
日蓮正宗の僧の中にも、軍部に迎合し、神本仏迹論などという狂言を唱え、あまつさえ政府当局の言うままに、身延派との合同を企んで、獅子身中の虫となった者さえあったのである。(227頁)

表現は変わっていますが、初版・第2版ともに、「堀米は難局打開に奔走した」とされている。
少なくとも今日でも創価学会は、堀米に一定の評価をしていることがわかります。これを、上述の戸田会長の記述と総合すると、以下のようになります。

●戦時中の軍部による宗教弾圧への抵抗において、戸田会長の功績は類例が無いほど顕著である。
●堀米住職も軍部に完全に迎合することなく、一定の役割を果たしたが、それは戸田会長に比肩するものでは無い。

日恭ならびに日達への言及

そして、生前の牧口会長が登山を命じられ、「神札を受けてはどうか」と持ちかけられるシーンです。

《第1版》
昭和十八年六月、学会の幹部は、本山に登山を命ぜられた。そして、一人の僧侶から『神札』を一応、受けるようにしてはーとの話があった。(193頁)

《第2版》
一九四三年(昭和十八年)六月二十七日、学会の幹部は、総本山に登山を命ぜられた。当時の法主・鈴木日恭ら立ち会いのもと、宗門の庶務部長から、「神札」を、一応、受けるようにしては、との話があった。(229頁)

第1版では、神札を受けることをすすめたのは、「一人の僧侶」となっていますが、第2版では固有名詞が登場している。しかもそれが時の法主であり、庶務部長だと言います。「日恭が戦時中に軍部に迎合した」という話は、私も何度も聞いた事がありましたが、学会の公式見解としては聞いた事がありませんでした。この記述から、日恭が「軍部政府に迎合した」、少なくともその動きを「看過した」という事ができます。
さらに名前こそ出ていませんが、神札をすすめた人物として庶務部長が挙げられています(渡辺慈海という人物のようです)。

以上から、戦前の宗門について、創価学会は以下のように総括しているのだと考えらえます。
●宗門は、組織として時の政府に迎合した
●日恭法主も、その迎合に責任がある(積極的に戦争協力した、などとはこの章からは読み取れないが、少なくとも「看過した」と解釈できる)

そして、本章には細井日達も登場します。

【第1版】
尊師の左脇に、唱題しておられた細井精道尊師こそ、第66世の現日達猊下であられる。戦時中の宗門厳護の戦さには、堀米尊師の身に影の添うがごとく活躍され、堀米尊師の御登座の下にあっては、宗務総監として、宗門の要となって、今日の大宗門への、発展の原動力となられた方であった。(196頁)

これは第2版では削除されています。これは日達への評価云々はあまり関係無いと私は考えています。本文では日達は、堀米住職のサポート役という副次的な役割を果たしたとされているので、堀米の評価が相対化されたことに伴う評価の変更だと思われます。本文から、今日の創価学会の日達評価は読み解く事ができません。

 

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