学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、バリ活にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

「ご了承」不在の時代①:活動家でも反逆者でもない生き方

ここ数年、創価学会の「内紛」が目立つようになっている。
その筆頭は、安保関連法の成立に反対する創価学会員の反対運動だろう。天野達志氏を筆頭に、三色旗を振って国会前に詰め掛ける学会員がメディアでも大きく取り上げられた。
さらに2014年に創価学会は、かつて自分たちの唯一の正統性の根拠としていた「本門戒壇の大御本尊」を受時の対象から除外すると発表。これをめぐり、(調査や報道等ございませんので管見の限りですが)会員に動揺が走り、反対の声を上げる会員が出た。
そして、学会本部に造反し除名処分となった職員3名による学会本部への批判運動。彼らのブログを見ている限りでは、単なる造反劇に止まらず、一定数の会員に支持を集めているようである。

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70年代に見られた日蓮正宗との対立による集団脱会や、90年代の宗門からの分離独立に比べれば、これらの騒動はまだまだ小さいと言えるのかもしれない。しかし、これらの騒動には、これまで見られなかった1つの共通点がある。それは、学会に反旗を翻した人間が、「池田名誉会長に違背する学会執行部・公明党を糾弾している」という事である。

過去に学会に造反した人間の主張を見ると、それはほとんどが「反・池田」の旗を掲げるものだった。原島嵩や龍年光、藤原行正、矢野絢也、大橋敏雄、福本潤一等、彼らの主張は池田名誉会長を糾弾するものだった。さらに1991年に創価学会日蓮正宗から分離・独立した際に、学会を脱会して法華講員になった人は大勢いる(創価学会では彼らを「退転者」と呼ぶ)。彼らの脱会理由を調査した研究などはないが、「退転者」が集団執筆した『サヨナラ私の池田大作』を読むと、それは全て「大聖人の精神に違背した池田大作創価学会に別れを告げる」という趣旨のものである。

しかし最近の造反者に目をやると、彼らの全ては池田名誉会長を「池田先生」と呼んで師と仰ぎ、その指弾の矛先は学会本部や公明党に向けられている。これまでも同様の形式をとった批判はあっただろうが、脱会や大規模な批判キャンペーンに至ることはほとんどなかったと私は理解している。

なぜ、このような事態が生じているのか。
一言で言ってしまえば、「池田名誉会長が会員の目に触れる会合に出られなくなった」という一点に尽きるのだけれども、事態はそう単純ではないと私は考えている。すなわち、これまで創価学会が内部に抱えてきた「顕教」と「密教」の二重構造の矛盾が、池田名誉会長の「ご承認」の不在によって一気に表面化したというのが私の認識である(これだけ読んでも意味不明だと思われるが、詳細は追って説明させていただく)。

そこで本稿では、現在創価学会において起きている「学会本部・公明党批判」の構造を分析し、それがこれまでも学会内に生じていた事、それが池田名誉会長という絶対的指導者の存在により表面化しなかった事を明らかにする。

私は現在学会内で起きている一連の騒動について考察する事は、創価学会にとって非常に重要であると思っている。なぜならそれが、これまでの学会が乱用してきた「反逆者」のロジックでは処理できないものだからである。「反逆者」のロジックとは、創価学会に反旗を翻した人間を「信心のない犬畜生」「師弟の精神を失った忘恩の輩」等と糾弾するものである。
しかし、「ひとりの学会員」として公明党ならびに学会執行部にノーを突きつけた天野達志氏に見られるように、彼らは彼らなりに池田名誉会長の精神を理解・消化して、現実の活動を展開している。彼らを「信心がない」「師弟がわかっていない」と非難するならば、それを非難する人間は、何を根拠に自分が「信心がある」「師弟がわかっている」と思っているのかという話になる。それは結局、「創価学会執行部と公明党は池田先生の精神を正しく継承している。ゆえに、それに反対する人間は極悪人だ」というような主張に行き着かざるをえない。それを基礎づけるには、日蓮正宗の「唯授一人血脈相承」のような、3代会長の「信心の血脈」が学会執行部やそのご子息に継承されているというような教義をつくらなければならないだろうが、流石に学会の体質上無理であろう事に異論はないだろう。
池田名誉会長の思想は、学会執行部や公明党議員だけのものではない。天野氏のような一会員にも、原田会長や谷川主任副会長と同等に、池田思想を解釈・実践する権限があるはずである。とはいえ、あまりに種々雑多な主張が「我こそは正統の池田後継者なり」という信念に裏打ちされて登場するのは、組織運営上非常にマズい。だから、学会本部は「反逆者」ロジックでない、組織を穏当にまとめるための融和的なロジックを考えなければならない。

そしてこれは、学会執行部よりも、私のような一末端会員にとってこそ重要であると考えている。私は、「池田先生大好きの典型的学会員」を自認しているが、矯正しがたい歪な性格が災いし、明日には不満の心が爆発して「反逆者」となりかねない。
しかしこれは、私のような社会生活不適合者だけに当てはまるものではない。私の周囲を見ていても、公明党を非難したり、2014年の学会会則変更の取り消しを求めたり、学会本部の腐敗を糾弾したりしている学会員は、決して異常者でない。これまで信仰生活に真面目に取り組んできたからこそ(選挙活動を含む)、自分の信念(=彼らにとっての池田名誉会長の精神)に反する行動を起こした公明党創価学会に怒っているのである。

今後、学会本部や公明党に対する批判は増加する一途だろう。その時に、「組織の言う事には全て従う熱心な活動家」か「組織の方針に反対する反逆者」というどちらかの生き方しか提示されていない事は、組織運営上の問題よりも、会員一人ひとりの幸福という観点から見た時に問題がありすぎる。また、創価学会の意向に異を唱える事が長期的なスパンで見れば学会にプラスをもたらすこともあるだろう。
本稿は、「池田名誉会長のご承認が不在になった」今の学会を、これまでの学会と比較する事によって明らかにし、その中で「イエスマン」でも「反逆者」でもない第三の「学会員としての生き方」を考える準備段階でもある。

(続く)

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牧口・戸田会長の投獄・獄死の意味を再考しなければならない:日本共産党とリベラリストの思想から

「牧口会長と戸田会長は、勇気を出して軍部政府に反対した。だから偉かった」

創価学会初代・二代会長の牧口・戸田両氏は、治安維持法不敬罪によって逮捕され、投獄されています。牧口会長は、獄中にてお亡くなりになられている。
この両会長の投獄の記憶は、今日の創価学会の「反戦平和」「反権力」というアイデンティティ・ブランド構築にも不可欠なものとなっています。また池田会長が創価学会に入会した理由も、「戸田先生は戦争に反対して牢獄に入られた。その人なら信頼できる」というものだとされている。つまり、戸田会長と池田会長を結ぶ交差点も、「戦争反対」なのです。

この牧口会長と戸田会長の投獄の歴史は、創価学会の対外宣伝にもよく使われますし、左派知識人への学会理解の推進にも一定の役割を果たしてきたように思われます。

しかし私は、今の創価学会の牧口会長・戸田会長の投獄に対する認識は、かなり甘いと思っています。それが象徴的に表れているのが、「軍部政府に反対したから偉い」という、冒頭の文章です。今日の学会において両会長の投獄が語られる時、それ以上の中身はほとんどない。

明らかにしなければならない事の1つは、「両会長が当時の日本の何に反対したか」という点です。これをはっきりさせていないから、一部の史料を過度に取り上げて、「牧口は法華経信仰を貫いただけで、戦争には肯定的だった」などという浅い言説が跋扈するのです。こんなに偉大な牧口・戸田両氏を会長に持っているのだから、神話化して「偉い偉い」と言うのではなく、しっかりと学問によって明らかにすべきです。

そしてもう1点、「戦争に否定的だった」「獄死するまで戦った」だけでは、はっきり言ってそんなに偉くないのです。戦争に反対した最大勢力は、日本共産党です。また、宗教弾圧に関しても、大本教などの弾圧に比べれば、創価教育学会へのそれはまだまだ甘い。他にも思想犯とされた人間は沢山います。さらに世界史に視野を広げれば、反戦・反権力を貫いた人物なんて、一々取り上げていられない程います。
果たして、牧口・戸田両会長と日本共産党大本教は何が違うのか。両氏の戦いは、世界史的に見ても特筆すべきなのか。そうだとしたら、その理由は何なのか。

そこで本日は、戦時下において時の政府に否定的だった「日本共産党」と「オールドリベラリスト」について考えます。どちらも戦争に反対した人たちです。
「戦争に反対した」ーその1点だけでは牧口・戸田会長と同じです。彼らと両会長を差別化するためにどうしたらいいか。それを考えるための準備作業の1つとして、本稿を位置付けたいと思っています。

(本稿は「『人間革命』の時代を読む」という企画の一部です。連載目次は下記をご覧くださいませ。)

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戦後、日本共産党は絶大な精神的権威を誇っていた

1945年の終戦から約10年間、日本共産党の精神的権威は、絶大なものでした。これには色々と理由がありますが、何と言ってもそれは「戦争に反対した唯一の政党だった」からです。
徳田球一宮本顕治などの戦中非転向を貫いた共産党幹部は、今日の我々からは想像もつかない程の尊敬を勝ち得ていました。
それはマルクス主義に惹かれた人物に限りません。マッカーサー徳田球一などを高く評価していたように、反共のアメリカでさえ彼らを尊敬していたのです。さらに、反マルクス主義の学者たちにとっても、共産党は批判する事の難しい権威となっていました。

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共産党が絶対的な尊敬を勝ち得た背景には、戦後の人々が共有していた「罪悪感」「悔恨」という感情が挙げられます。
戦争中の為政者や知識人のほとんどは、程度の差はあれ戦争を推進・賛美していました。その自身の人生における汚点は、深い悔恨を生み、汚点を持たない清廉潔白共産党にひれ伏すしかなかったのです。
さらに積極的に戦争を賛美しなかった人間や、当時ほとんど影響力のなかった丸山眞男のような若手知識人も、敗戦という破綻を迎え、それまでの自身の態度を省みる義務に直面していました。
さらに注目すべきは、「戦死者の記憶」です。戦友を亡くした復員兵は、「友の代わりになぜ自分が生き残ったのだ」という悔恨に苛まれ、夫や息子を戦場に送り出した女性たちもその行為を悔いました。

丸山の「悔恨共同体」という言葉は、当時の日本の思潮をよく表現しています。

また、当時はマルクス主義が最先端の「科学」と見なされていた事も挙げられます。戦後日本の経済的格差は凄まじく、いたるところに窮乏の惨状が溢れていました。こうした日本の状況を現実的に解決するサイエンスとして、マルクス主義経済学は期待を集めたのです。

「左翼」とは本来、「人間の理性に信頼を置き、理想社会の実現を目指す」ものです。
この原義を見るとき、今日の左派政党にはがっかりさせられます。戦後の世界経済史を見ると、60年代くらいは資本主義と社会主義は、「経済成長」という点で対抗し合っています。しかしいつの間にか、今日の共産党社民党のように「成長より国民の生活」というような主張がされるようになりました。
彼らの口から聞かれるのは、極端な理想論ばかり。「理性」を忘れて「理想」だけを保持しているように見えます(彼らの「理想社会」像も今日ではかなり瓦解している)。
今の日本政治において、左翼的な「理性主義」は非常に重要であると思います。左派政党が存在感を示すなら、左翼の原義と科学的姿勢に立ち返るべきだと思います。

共産党の「民族」観

本企画の冒頭で述べた通り、日本共産党は「真の愛国の党」を掲げていました。
これは、当時の国際共産主義路線に沿っていました。当時の国際的な共産主義運動の思想的基盤となったバルティスキーの論文を見てみると、「共産主義者やすべての左翼労働者には愛国心が欠けている」と述べた上で、「保守派」を打倒すべきと主張している。その「保守派」の例が、ナチスドイツの占領下で傀儡政権と成り下がった保守勢力です。彼らは、「愛国主義」を掲げていながら、その実態は「売国奴」そのものだった。それに対して、バルティスキーが「本当の愛国者」のしたのが、占領国においてレジスタンスを行った共産主義者たちです。

この主張において攻撃されているのは、一見「愛国的」に見える自国中心主義の帝国主義者たちです。バルティスキーいわく、彼らのような独善的で排他的な帝国主義は本当の愛国ではない。フランス革命や植民地独立運動に見られるように、自己民族のために戦い、かつ他民族を尊重する勢力こそ、本当の愛国者だというのです。

また、バルティスキーは、コスモポリタニズムも激しく非難しています。共産主義は国際的連帯を目指しているが、それは各国の共産主義者たちが祖国という基盤に立って行うものだというのです。自分の民族の利益から遊離した活動を行うコスモポリタニストは、「国際的なブルジョワ」に過ぎない。これは今日的にいうと、どんどん海外移転を進めるグローバル企業だと思います。またこのバルティスキーの批判は、今日の反グローバル主義者たちの主張にも似ています。

日本共産党も、このような国際的な潮流を受け、「真の愛国の政党」を掲げました。それは、皇統に基づいた日本中心観を持ち出し、アジアへの侵略を推進して、挙げ句の果てには米国との無謀な戦争に突入した戦時政府への批判でもある。彼らのようのな帝国主義者は、愛国者のようでありながら、その実態は全く異なる。自分たちのような戦争に反対した勢力こそが、真の愛国者だというのです。

池田名誉会長の愛国観

この「愛国」というキーワードは、戦後の創価学会の歴史を見る上でも重要だと思っています。理由は、池田名誉会長が戸田会長との初めての出会いの時にした質問の1つが、「本当の愛国者とはどんな人か」だった事です。19歳の池田青年は、「本当の愛国者」たることを希求して生きていたのです。
これは何度も書いている事ですが、池田名誉会長も「時代の子」です。会長が17歳までを皇国思想の中で生きた事を考えるとき、「日本」「天皇」「愛国」といった発想にとらわれ続けた事は、極めて自然です。
創価学会に入会した後の活動においても、この「愛国者」をめぐる問題は、池田青年の頭から離れなかったのではないでしょうか。もしかしたら、今日まで名誉会長にとっての大きなテーマかもしれない。少なくとも池田名誉会長は、日本の歴史認識問題や教育政策について積極的に発言されています。これは、名誉会長の「日本人」として、「愛国者」としての思いの発露かもしれません。

池田思想における「愛国」。
私は、「公明党」と「日中関係」の2つが、この問いに対する重要なキーワードだと思っています。それについては、また別記事にて考察したいと思っています。

オールドリベラリストとは

共産主義者たちに続き、戦後に保守論壇を形成した「オールドリベラリスト」について考えてみます。和辻哲郎津田左右吉・田中美知太郎、小泉信三などが代表例です。
この「オールドリベラリスト」という括り自体、結構乱暴であり、便宜的なものに過ぎないとも言えますが、その特徴を抽出してみます。

まずは世代ですが、敗戦時に50代以上であり、大正時代に青年時代を送った事です。これは、若手保守派知識人との違いを考察する上で重要になります。年代だけならば、戸田会長とも近しい人たちだと言えます。
もう1つは彼らの多くが、戦争に否定的だったことです。これは後述しますが、「戦争に反対したから偉い」という至極単純な主張に対して、彼らの姿勢は疑問を投げかけてくれます。
さらに、天皇制という既存の体制を重視し、共産主義に対して強い抵抗感があったことが挙げられます。

まず彼らの思想を考察する上で欠かせないのが、彼らが上流階層に位置する「勝ち組」「文化人」だったということです。
このことは、彼らが共産主義を嫌ったことと不可分です。つまり、労働者が力を持ち、自分たちにとって都合の良い体制を崩壊させようとする共産主義には、否が応でも否定を貫かねばならなかったのです。
これは、彼らが戦争に否定的だった理由にも通じます。上層階級のエリートではなく、下層階級出身の軍人が影響力を増大させていくことは、彼らにとって我慢ならないことでした。
彼らが戦後に「天皇擁護」を掲げたのも、日本の既成秩序が崩壊することを恐れたからでした。
彼らの思想的立場は、体系的思想よりも一種の生活感覚に基づいていた。この事に注意するべきです。

若手知識人との隔絶

オールドリベラリストが描いたような心情は、若手のエリート知識人にも共有されていたものでした。例えば丸山眞男は、戦地に動員されるという経験によって、社会階層の低い軍人と多く接触しました。その結果、彼は「大衆への蔑視」を心情として持つようになりました。

しかし、オールドリベラリストたちが戦前体制への回帰を志向したのに対し、丸山や竹内好などは強く反発します。これは、世代間格差による戦争経験の違いが理由であると考えられます。
オールドリベラリストたちは、日本が戦争に突入した理由を、「軍人の台頭と暴走」であると考えていました。それは突発的な異常事態であり、軍人をコントロールできる仕組みさえ整えれば、慣れ親しんだ戦前の大勢の方が好ましいと考えたのです。津田左右吉などがこの例です。

それに対し、丸山は反発します。丸山も東大助手を務めていたエリートでしたが、従軍によって下層民との接触を経験し、自分たち知識人が抱いている観念的思想が大衆と隔絶していることを思い知らされていました。日本においてマジョリティを形成していたのは、知識人たちが抱いていたような近代的な国家観ではない。非常に情緒的で暴力的契機をはらんだ神がかり的なファシズムだったのです。
つまり、日本の敗戦は、「軍人の台頭と暴走」などという突発的な事件によるものではない。戦前の日本のあり方に関わる根本的な問題だったのです。
丸山の「国民主義」思想は、こういった経験と不可分と言えるでしょう。

牧口・戸田会長の偉大さとは何か?

「牧口・戸田会長は戦争に反対したから偉い」
この主張は、日本共産党やオールドリベラリストと両会長を、「戦争反対」を基礎に等値するものです。
しかし共産主義というイデオロギーと、エリート特有の保守的傾向・大衆蔑視を理由に戦争反対をした人物たちと、牧口・戸田会長は本当に同じだったのか?創価学会は、この点についてよく考察する必要があると思います。
戦前の研究は資料が馬鹿高く、私には到底できませんが、優れた研究を紹介するくらいの事は、このブログでもやっていきたいと考えています。そして、両会長の特異性について考えていきたいと思います。

そして、もう1つ。長年の疑問が「池田名誉会長はなぜ共産党に入らなかったのか」ということです。
私は以前、池田名誉会長と宮本顕治共産党委員長の対談集『人生対談』を読んだことがあります。本当は改めて購入したいのですが、かなりのレア本になってしまい、現在手元にはありません。私の記憶によれば、終戦間もない頃池田青年は宮本顕治の演説を聞きに行ったというエピソードが披瀝されていたように思います。これは、戸田会長と出会う前です。
池田名誉会長の入信の理由は、「戦争に反対して牢獄に入った戸田先生なら信用できる」ということだったとご本人が語られています。
しかし、戦争に反対した唯一の政党である日本共産党には入ることはなかったのです(宮本顕治はリンチ事件容疑もありましたが…)。
これはなぜなのだろう?これに対する答えの出し方自体検討がつきませんが、共産党が神聖視されていた時代に、池田青年がそれを選ばず、弱小宗教団体である創価学会を選んだことは、非常に興味深く思います。

 

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創価学会執行部のホンネ:2014年会則変更問題をめぐって

いつもブログを読んで頂いている方より、天野達志さんの新サイトについてメールいただきました。

soka-dakkan.amebaownd.com

昨年の安保法案成立時に、「ひとりの学会員」として公明党に「ノー」という声を上げられた天野さん。三色旗を振りながらのその活動は、様々なメディアでも取り上げられ、一躍時の人(?)となりました。

私は、学会員が個々の政策について議論し、場合によっては公明党を批判していくのは極めて健全だと思います。デモという形が私は嫌いですが、それもあっていいと思います。
けれども、天野さんのサイトを見たら、その活動範囲がかなり広がっていてビックリしました。
まず、スローガンが「三代会長の、池田先生の創価学会を取り戻そう!奪還!!DAKKAN!」となっており、どこかの政党が掲げていた「日本を取り戻す」というスローガンを彷彿とさせます。
そしてその主張も、「ひとりの創価学会員として安保法制に反対する」から、かなり拡大しています。主なものは以下。

●安保法制を認めた創価学会に反対!!
●2014年の会則変更をした創価学会に反対!!

そしてこれらの主張の前提となっているのが、「池田先生の教えに違背した学会本部執行部が悪い」というもの。最近かなり増えている論調であり、私が以前下記の記事で紹介した、造反本部職員三人組とも瓜ふたつの主張です。

造反した創価学会職員3名の救いようのない「病い」:創価同窓の後輩としての苦言

うーん、まぁどんな活動しようとも自由ですけど、違和感ありまくりです。
とはいえ、天野さんのような方が出てきて、それを支持する学会員さんが一定数いるのは、創価学会公明党が使っている「タテマエ」に説得力がないことが一因だと思います。

学会の会則変更の際は、「世界広布を推し進めるため」「時代の変化に合わせて教義を変えるため」。
安保法制の際は「世間は色々言ってるが、公明党はしっかり歯止めをかけた」「平和のために必要な法案だ」。

はっきり言って、子供騙しの域かな、と思います。まぁ、それらも全部本当といえば本当なんですが、これで納得できない会員さんが出るのは当たり前です。憲法学者の偉い先生がいろいろ言ってるのに、「いや実は俺たちの方が正しいんだよ」なんて、信じるのは難しいです。
また、池田先生が会合にご出席されなくなった今、「学会本部執行部は大丈夫か?」「先生を無視してるんじゃないか?」と思う会員さんが出ても不思議じゃないでしょう。

この安保と会則変更の2件に関して、実は結構のメール・メッセージをいただいています。
そこで、本記事では、僕が思っている「創価学会公明党のホンネ」を書いてみたいと思います。あくまで僕の推論に基づいたものです。「学会と公明党の言っていることが信用できない」という方の、思考の一助となれば非常に嬉しいです。

注)以下の記事は、創価学会員の方が読むことを前提に書いております。他の宗教の方が見ると、奇異・不快に映るかもしれません。ご了承ください。

 

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「本当は時代遅れの日蓮正宗の教義なんて、さっさと捨てちゃいたい。でも会員さんの理解が進まないから、ちょっとずつやるしかない」

 

これが創価学会本部の本音だと、私は考えています。

2014年の創価学会の会則変更。
最大のポイントは、「弘安2年の本門戒壇の大御本尊」を受時の対象から外したことでしょう。かつて日蓮大聖人の「出世の本懐」として、自分たちの正統性の最大の根拠としてたものを変更したのですから、これに動揺するのは当たり前です。

これは私の意見ですが、この変更は何の問題もありません、大賛成です。
「執行部の暴走」なんていう、短期的な事件ではないです。1990年ごろからの既定路線であり、もっと言うと1970年代にはこのような変更に向けて学会は動いていました。
何より、この変更は池田先生の長年の宿願であると私は考えています。

まず前提として認識すべきことは、創価学会日蓮正宗は正反対、水と油。
創価学会は、海外布教を推進し、その教義や信仰の形態も変えていきましょう、場合によっては日蓮よりも釈尊を立てましょうくらいの、(よく言えば)「柔軟」な教団です。日蓮大聖人は鎌倉時代の人ですから、その教義も今日から見れば色々と問題があります。それも、仏教学や文献学、解釈学を取り入れて変えていきましょう、というスタンスです。そして何より、池田先生の思想・人生と不可分の新宗教です。

それに対して日蓮正宗は、室町時代・江戸時代の価値観で存在しているような、伝統仏教団体の中でも保守的な教団です。教義変更なんてトンデモない、儀式も伝統を重んじなければダメだ。仏教学や文献学?そんな青い目をした西洋人に仏教はわからない、我々は「文底」を読むのだ。

まぁ要するに、全然違うのです(どっちが正しいという問題ではない、全然違うってことです)。
しかしこの両者は、最近まで一緒に活動していたのです。それもかなり特殊な形態です。
創価学会は、教義と本尊という信仰の中核を日蓮正宗に依存しながら、独自路線を展開。政界に進出して一大勢力となり、中国やソ連とも太いパイプを築いてしまう。キリスト教イスラム教とも積極的に交流する。その国々のお国柄に合わせて、教義も見直していこうとしている。
こんな両者が上手くいくわけがありません。

これが顕在化したのが「昭和52年問題」、そしてこれは池田先生の会長ご勇退につながっていきます。この時何があったのか、ゴシップレベルの話しか残っていなくて、私にはよくわかりません。
しかし、2014年の会則変更に関わる「教義」の問題に着目すれば、少しはわかる事があります。
それは創価学会、そして池田先生が、日蓮正宗が完全に無視していた仏教学や文献学などの成果を積極的に取り入れようとしたことです。その頃書かれた『仏教史観を語る』などを読むとよくわかります。
池田先生については、良い悪い評価様々ありますが、私はかなりのインテリ・知識人である事は間違いないと思っています。その著作を読んでいると思いますが、宗教指導者でありながら、かなりの合理主義者です。
はっきり言って日蓮正宗の「一大秘法」「唯授一代血脈相承」「日蓮本仏論」などの教義は、世間の学者はみんな馬鹿にしています。アカデミズムを重視する池田先生がそれらを「変えたい!」と思ったのは、当然と言えば当然なのです。

そこで池田先生は、創価学会独自に日蓮仏法を解釈しようとした。しかしそれは、日蓮正宗からすればタブーだった。そこに、山崎正友やら、原島嵩やら、御本尊模刻事件やら・・・とカオスの様相を呈していく。そして、先生は辞任せざるをえなくなった・・・。
これは、第一次宗門事件を教義解釈という一面から見た解釈です(かなり複雑怪奇な事件なので、簡略化はお許しくださいませ)

要するに言いたい事は、創価学会は1970年代から、ずっと大石寺教学からの脱却を図ってきたという事です。それはやがて1990年初頭の第2次宗門事件につながり、両者は別れる事になる。

創価学会は、少しずつ日蓮正宗の教義を捨て去ってきたわけです。
急に捨て去れなかった理由は、日蓮正宗との軋轢。そして、学会員さんが動揺するからです。
「唯授一人血脈相承」も、当初は「日顕で血脈は切れた!」というものでしたが、いつの間にか「神秘的な血脈観」として相承の教義自体が全否定されるに至りました。そして、「生死一大事血脈抄」を使って「信心の血脈」が強調されるようになっています。

このような長期的な流れの中に、2014年の会則変更は位置付けられます。「本門戒壇の大御本尊」は、大石寺教学の根幹中の根幹。そしてそれを「一大秘法」だと定める限り、日蓮正宗の絶対的優位は揺るがないのです。これを捨て去る事は、創価学会、そして池田先生にとって宿願だったわけです。

「会則変更に、池田先生のご了承はあったのか」という問いを発せられる方が多くいますが、当然あったと思います。
というか、これは池田先生が1970年代から率先して進められてきた事です。約40年の時を経て、ようやくそれが叶ったのです。

「学会寄りで書く」と決めたからか、かなり日蓮正宗の教義を非難するようなものになってしまいましたが、もうこれはどちらが正しいというものではないです。池田先生は、合理主義・アカデミズムを重視されましたが、それも万能ではないでしょう。明治以前のパラダイムから仏教学・文献学を相対化するという立場もありでしょう。

日寛のような江戸時代的パラダイムの「文底読み」を好むならば、日蓮正宗がいい。
西洋的な学問的考証を好むならば、創価学会がいい。
私のような西洋中心主義者は、迷わず創価学会ですが(といっても、創価学会の教義や運動にも、問題ありまくりですが、今後に期待しています)。

また、本門戒壇の大御本尊を信じておられる方も、これまでの信仰を全て捨て去る必要はないし、学会をやめる必要もないです。
本門戒壇の大御本尊も、変わらず功徳がある「本門の御本尊」であることに変わりはありません。各家庭の日達や日寛の御本尊に祈る時に、大御本尊を念頭に祈っても、それは学会の会則には抵触しないと思います。大御本尊を受時の対象にしないのは、それに功徳・力がなくなったからではなく、「大謗法の地にあるから」というのが創価学会の立場だからです。

ただ学会の会則に賛成するならば、「大御本尊唯一主義」(一大秘法思想)だけは捨てなければなりません。「本門戒壇の大御本尊に直結しない、他宗の御本尊は謗法だ!」という立場です。
これは、身延日蓮宗などの大聖人の直筆曼荼羅などに功徳を認める事になりますが、今の時代この位の寛容性は持つべきだと私は思います。また、キヨスクのような露店で売られている土産曼荼羅には私も否定的ですが、それは教義や功徳の問題ではなく、御本尊の扱いに関するメンタリティを批判すれば良いと思います。

とはいえ、御本尊という宗教的な感情がモロに関わる領域の話なので、そう簡単には割り切れないと思います。ただ、日蓮正宗という全く異なる教団に依存せざるをえなかった創価学会の宿命として、受け入れていかなければならないのだろうと思います。

長くなったので、公明党と安保については、別記事で言及します。

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日蓮遺文を再読するに当たって③:別に「池田教」と言われたって胸を張っていればいい

「文証を出せ!」
嗚呼、こんな言葉を全く無反省にいう人間が大嫌いです。

創価学会員である私は、大学生の頃から、何度も日蓮正宗との「対論」に駆り出されています。「対論」とは、要するに「創価学会こそ日蓮正統の教団だ!日蓮正宗は邪教だ!」ということを、日蓮正宗の人と議論するわけです。

これを私は非常に「くだらない」と思っています。
はっきり言って決着なんて着きません。
大体いつも、日蓮正宗秘伝の(学術的に一切信頼不可能な)「相伝書」なるものの偽書問題で紛糾したり、スキャンダル合戦になってしまったり、と酷いものです。

教団というものの本質上、自身の正統性を証明しようとする試みは不可欠でしょう。しかし、そんな「くだらない」試みは、信濃町の宗教官僚や出家僧侶といった「きわめて特殊」な職業に就いた人間に丸投げしておけばいい。さっさと協約でもなんでも結んで、こんな不毛な論争で会員の手を煩わせるのは止めるべきです。ただでさえ、選挙や新聞啓蒙に忙しいのだから。そんな暇あったら、題目の一遍でもあげたほうがよっぽど有意義です(比較するのもおこがましい)。

(本記事は、連載企画「日蓮遺文を「再読」する」の一部です。連載一覧目次は、下記をご覧くださいませ。)

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歴史という場の中の「イエス」の探求

長くなりましたが、本日は「日蓮遺文を読む」シリーズ序論の最終回です。
前2回の記事において、「歴史的アプローチ」と「非歴史的アプローチ」について叙述しました。その上で、このブログでは「歴史的アプローチ」を重視し、「鎌倉時代の日本という場を生きた日蓮という1人の人間」を探求しようと思っています。

このような探求をするにあたり、非常に参考になる本があります。
田川建三の『イエスという男』です。

イエスという男 第二版 増補改訂 | 田川 建三 | 本 | Amazon.co.jp

これは、聖書に描かれるような「救世主(キリスト)としてのイエス」ではなく、「1世紀パレスチナを生きた1人の男・イエス」を歴史学的に明らかにする試みです。私はこれを読んだ時、「これが歴史学か」と目から鱗が落ちました。そして、自分の日蓮理解を反省せざるをえませんでした。

田川の言葉を引用します。

「イエスは殺された男だ。ある意味では、単純明快に殺されたのだ。その反逆の精神を時代の支配者は殺す必要があったからだ。こうして、歴史はイエスを抹殺したと思った。しかし、そのあとを完全に消し去ることはできなかった。それで、今度はかかえこんで骨抜きにしようとした。」

田川は、イエスを「時代に反逆した先駆者」と位置付けています。イエスは、当時隆盛を誇っていたユダヤ教を批判し、挙句の果てには十字架に架けられました。
これと同じ評価を、日蓮にすることもできるのではないかと思います。念仏や国家権力という一大勢力に立ち向かい、極寒の地に流罪までされたその生涯は、「時代に反逆した先駆者」の名に相応しいでしょう。
しかし田川は、後世の人間がイエスを「骨抜き」にしたといっている。どういうことか。

体制は、その人物を偉人として褒め上げることによって、自分の秩序の中に組み込んでしまう。カール・マルクスが社会科の教科書に載った時、もはやカール・マルクスではなくなるということだ。こうしてイエスも死んだ後で教祖になった。

イエスにしても、マルクスにしても、日蓮にしても、彼らは「時代の先駆者」として、体制に反抗し続けた存在でした。しかし彼らは、キリスト教ソビエト連邦、そして日蓮正宗創価学会という「既成勢力」によって教祖として組み込まれてしまった。それが田川に言わせれば「骨抜き」なのです。

冒頭で「文証を出せ!」という言葉に対する嫌悪感を述べました。私がそれを嫌うのは、それが時代の先駆者だった日蓮の生き方に迫ろうとするものではなく、800年後を生きる日蓮と全く無縁な教団や自分の生き方を正当化するために日蓮の言葉を用いることだからです。
そんな体制的な態度を取った瞬間、日蓮の姿は消えて無くなる。そこに出来上がるのは、自分たちの都合や願望を投影した「偶像としての日蓮」に過ぎません。

自分たちの教義を「発見」しようとする試み

クェンティン・スキナーという政治思想研究者の『思想史とは何か』という本があります。これから日蓮を読むにあたって、1番参考にしたいと考えている本の1つです。
スキナーは以下のように述べています。

もっとも根強い神話が生ずるのは、それぞれの古典的作者が、それぞれの歴史家の主題を構成するとみなされるトピックスについて何らかの教義を説いているだろうとの期待をもって歴史家の側が構えている時である。危険なことに、そのようなパラダイムの影響下に(たとえ無意識のうちにではあれ)置かれてしまうと、いわば指定済みのあらゆるテーマについて、その著者の教義を「発見しよう」とする気になるまではほんの一歩である。

少々読みづらいですが、日蓮に当てはめて意訳するとこういう事です。
私のような学会員や法華講員が日蓮遺文を読む時、どうしても先入観にとらわれてしまう。それは、大石寺教学や創価思想といった後世の人間が作った「パラダイム(認識の枠組)」です。日蓮が何を言っているのか、耳を澄ますように遺文を読むのではなく、大石寺教学や創価思想がそこに書かれているのを「発見」しようとして読む。それが日蓮の意図と異なるのは明らかであり、「自分の信仰が正しい」と自らの宗派への信心を自己強化する試みに過ぎません。

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「聖人御難事」の解釈について

その後世の教義の最たるものが「本門戒壇の大御本尊」でしょう。それについては、以前下記の記事にて記述しました。

ゆとり世代学会員の本音②:質問にお答えして - 学会3世の憂うつ

大前提は、私はそれへの信仰をする人を最大に尊重しますが、学術的にはかなり疑わしいという事です。その文献学的な理由は以下の2点に収斂されます。

①「本門戒壇の大御本尊が絶対」という主張の根拠になる史料が、偽書の疑いだらけ。また日寛など後世の人物のアクロバティックな解釈に依存
②「日蓮真筆」とされる遺文や史料から、「本門の戒壇一大秘法」説を導く事はかなり困難

①については、日蓮正宗が外部の研究者に対してかなり閉鎖的なので、決着がつく事はないでしょう。
②については、創価学会が長年採用してきた「聖人御難事」における「出世の本懐」解釈が挙げられます。

仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり。

この「余は二十七年なり」という文言から、この遺文の執筆された弘安二年に日蓮は「出世の本懐」を遂げたと解釈されます。そして、その「出世の本懐」こそ「本門戒壇の大御本尊」建立だというのが、かつての創価学会と今日の日蓮正宗の見解です。
しかし、「聖人御難事」には、その「本門戒壇の大御本尊」の事は一切出てこない。「出世の本懐」といえば、「俺はこのために生まれてきたんだ!」という人生の総決算のようなものです。それを明かした筈の書に、それを書かないというのは首を傾げざるを得ない。
この「聖人御難事」を根拠に「本門戒壇の大御本尊は日蓮の出世の本懐だ!」と主張している仏教学者を、日蓮正宗創価学会以外では、私は1人も知らない。

私は「本門戒壇の大御本尊」を信じる人を否定しませんが、少なくともこの「聖人御難事」の解釈にはかなり無理があると思います。
スキナー風に言うならば、予め「本門戒壇の大御本尊こそ出世の本懐」という先入見・パラダイムを有している人間だけが、そこに「一大秘法」信仰を見出す事が出来るのだと思います。そういえばこの事を法華講員の幹部の方との法論で指摘したら、「西洋人には到底わからない文底の世界の解釈なのだ」という反論をされました。返す言葉が見つからず、完全論破されてしまいましたね。
この「出世の本懐」説を創価学会は既に廃棄しましたが、私はそれに賛同しています。

創価学会は池田教でいいし、日蓮正宗は日寛教でいい

とはいえ、創価学会日蓮遺文の読み方にもかなりの問題があります。一例を挙げましょう。
「御義口伝」に、以下のような文章があります。

一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり。

恐らく、これを読んだ学会員が想起したのは、若き日の池田名誉会長の大阪での選挙戦でしょう。池田名誉会長は、この日蓮遺文の一節を読みながら、それを体現し凄まじい戦いをしたとされています。

実は「御義口伝」は偽書説が強いのですが、それは措いておきます。
問題は、学会員がこの言葉を日蓮が発した文脈においてではなく、「池田名誉会長の生き方」と連関させて認識しているという事です。つまり日蓮の思想は、池田名誉会長という1人の人物の生き方に現れていると、学会員は信じている(かくいう私もそうです)。そのような「先入見」を持って、日蓮遺文を読んでいる。また、学会員の日蓮理解は、殆どが池田名誉会長の日蓮解釈に基づいています。

以前、「創価学会は池田教だという指摘は全く正しい」という記事を書きました。この意見は変わっておりません。

創価学会日蓮を宗祖としながらも、それを「池田名誉会長」というプリズムを通して解釈し、その活動を展開する「池田教」であると考えています。
これは別に創価学会を揶揄しているわけではありません。何より私自身立派な創価学会員であり、池田名誉会長を愛しております。別に池田教だと揶揄されたって、堂々と胸を張っていればいいじゃないかと思います。こんな1千万人単位の人間を惹きつける稀有な人物を指導者に持ったのですから、変に日蓮正宗への対抗意識を燃やして神学論争に終始せず「日蓮正統の団体」なんてこだわらなくてもいい。ただし、池田本仏論などのレベルの低い主張には反論すべきですが。

またこれは、創価学会に限った話ではない。「創価学会は池田教」と揶揄する日蓮正宗の方は多いですが、私から見ると「日蓮正宗は日寛教」です。
日寛を尊敬している創価学会員は多いですが、その日蓮解釈は、今日の文献学・解釈学から見ると問題がありすぎです。「本門戒壇の大御本尊」「一大秘法」「日蓮本仏論」「唯受一人血脈相承」などの日寛の思想は(全てを日寛に帰することは出来ませんが)、明らかに彼独自のものであり、そのパラダイムを継承して教義を構築すると、「日寛教」と呼んで構わない宗派ができあがります(「日有教」などでも別に構いませんが、「日顕教」ではないと思います。日顕日蓮正宗への思想的貢献はほとんど無いというのが、私の理解です)。

「江戸時代の人間(日寛)と、現代を生きている人間(池田名誉会長)を同列にするな!」と言われるかもしれませんが、私から見るとそんなに大差ない。こんな両者が「日蓮正統」を巡って論争をしているのは、非常に滑稽だなと思います。そんな不毛な議論よりも、日蓮遺文を拝しながら、御本尊に題目をあげるべきです。

私はこの認識に立った上で、「池田教」を選んで生きております。

教義構築ではない日蓮に迫る試み

話が大きく逸れましたが、本連載「日蓮遺文を「再読」する」とは、イデオロギーに満ちた日蓮解釈ではなく、思想史的に日蓮に迫ろうとする試みであります。

上述の田川建三の言葉をまた引きます。

1人の歴史的人物をどう描くかは、とどのつまり、その人の生きていた歴史の場をどう捉えるかという問いに帰着する。たとえ抽象的思想の言葉であろうとも、1人の歴史的人物の言葉をとらえようと思えば、その人の生きていた歴史的場を見なければならない。

イエス像を描く課題はどこまで己の思い入れを制御して、イエスをイエス自身として描けるか、ということになろう。言い換えれば、イエスが生きていた時代の状況の中でイエス像を描くということにほかならない。その歴史的状況をどこまで深く広くとらえることができるか、という課題であり、その状況の中で、密接不可分に、その状況そのものを全身で呼吸しているものとして、しかもその状況に激しく抗った者としてイエスを描く、という課題である。そしてそこに浮かび上がるのは、とても私の理想像なんぞを生易しく投入するわけにはいかない、一人のものすごい人間がいる。

日蓮を、「末法の御本仏」としてその言葉を絶対化するのではなく、あくまで「鎌倉時代の日本を生きた一人の男・日蓮」に迫る事。その時代的制約の中で、彼はどう生き、その思想を生成したのか考える事。これが本連載の課題です。
そもそも、「御本仏」と仰がなければ読めない思想家なんて、なんの価値もない。また、一人の人間としてみた時に果たしてどれだけすごいのか。この生身の日蓮像を「御本仏」論は覆い隠してしまうと考えています。

もちろん私は創価学会員ですから、創価学会の教義を捨て去る気はない。たとえそれに問題があろうとも、立場上それを保ち続けなければなりません。
けれども別に、その教団的な視点以外の視点を持ってもいいじゃないか。そう思うのです。

さて、いよいよ次回からは「守護国家論」や「立正安国論」に取りかかり、その念仏批判を中心に考察していきます。

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公明党の原点は軍部政府へのアンチテーゼ:『人間革命』を読み比べる

人間革命の新旧版を読み比べる本企画。
今回は、「終戦前後」の章を取り上げたいと思います。

今年も終戦記念日がやってこようとしています。
改めて『人間革命』を読めば読むほど、太平洋戦争の記憶が池田名誉会長と今日の創価学会の思想に不可欠なのもであると感じさせられます。

 

(本記事は『人間革命』新旧版を読み比べる企画の一部です。連載の目次一覧は、下記URLまでお願いいたします)

sanseimelanchory.hatenablog.com

「終戦前後」の章あらすじ

時代は敗戦直前の日本。広島、長崎への原爆投下、さらにソ連参戦を受けた日本は、いよいよ八方塞がりとなり、無条件降伏の道を選ぶ。戸田城聖は、日本の指導者の無能を憎みながらも、日蓮仏法の流布に闘志を燃やす。通信教授の新事業を開始した彼だったが、それは活況を呈する。

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作者の観察者化

太平洋戦争時の米ソの指導者についての記述です。比べてみましょう。

【第1版】

一国の暴君も、世界の暴君も、所詮、普通の人間の範疇を出ていないものだ。一体、彼等は、世界を、誰人のものだというのであろうか。(83頁)

【第2版】

今にして思えば、既に米ソの対立は、この時から兆し始めていた。彼らは、戦後の世界に君臨することを考えていたのであろうか。それは、言うまでもなく、大国の横暴というものである。人間は、権力の絶頂に登ると、皆、暴君的な一面を持つのと同じように、大国になればなるほど、いよいよ暴君的な色彩を増す。(104頁)

《考察》
読み比べればわかる通り、明らかに当時の指導者に対する疑義・怒りがトーンダウンしています。
第1版では、「暴君も所詮人間にすぎない」「世界を誰のものだと思っているのだ」という極めて感情的な怒気のこもった記載がされている。
それが第2版では、「大国の横暴である」「暴君的な色彩を増す」という、第三者的、観察者的なものに穏健化されています。
これまでの読み比べでも、第2班の特徴は、「客観的歴史叙述」の色彩を増すことであることがわかってきました。本箇所のトーンの穏健化も、その一環かと思われます。

また『人間革命』では何度も戦時中の日本の指導者を弾劾する記述が出てきますが、池田名誉会長は日本だけでなく、米ソの指導者に対しても否定的であったことがわかります。

「福運」説の削除

【第1版】

国の命運が尽きた時は、大政治家も、名将も、ともに福運がなくなり、懸命な知恵も革新も喪失して、先手を打てなくなってしまうものだ。否、それらの指導者階層の福運が尽きたがゆえに、国の福運が消えたとも言える。この方程式は、いかなる国でも、家でも、同じことである。(84頁)

《考察》
これは、第2版では削除されている記述です。
以下、2つの命題が述べられています。
●国の命運が尽きる→指導者の福運がなくなる→有効な対策ができなくなる
●指導者の福運が尽きる→国の福運が消える

「命運」を「福運」と同じものとみなした上で、この2つを総合すると、
「国の福運が尽きる→指導者の福運が尽きる→国の福運が尽きる・・・」というスパイラルを描いているようです。

私には着目すべき点は、以下の2点であるように思われます。
まず、国の指導者の失政が「国の福運の欠如」に帰せられるというものです。『人間革命』では、戦時中の日本の指導者を「愚かな指導者」として糾弾する記述が見られます。しかし、この記述を勘案すると、「愚かな失政」をしてしまうのは単に指導者が無能であるからではない。たとえ名将であったとしても、「国の福運」がなくなれば「賢明な知恵も革新も喪失」してしまうというのです。
そして、その「国の福運」を決定する要素の1つとして挙げられているのが、「指導者の福運」です戸田城聖が、時の石橋湛山首相を日蓮宗であることを理由に、非難していたことを聞いたことがあります(確か岸信介との絡みで、『人間革命』にも出てきていた気がします)。

これらを総合すると、「国の指導者がどんな宗教に帰依しているかは、その指導者の福運を決定する。そして、その指導者の福運は、国の福運、そしてその国の国家運営に重大な影響を与える」という立正安国的な思想になるかと思われます。

この箇所が削除されている理由は、このような思想を学会が捨てたからではなく、あまりにエッジが効きすぎているからだと思います。また、「創価学会員を総理大臣に」という主張に見られかねません(当時の学会も、今日の学会も、果たして公明党のゴールをどこに定めているのかは私には判断がつきかねていますが)。

かなり丸くなっているにせよ、このような発想は、今日の学会でも生きています。
学会員が保守政治家の靖国参拝を非難するときに、上述のロジックに基づいた主張はよく聞きます。また、学会員の公明党支援も、それが全てはありませんが、「正しい宗教を信じる福運ある政治家を政界に」という思いに基づいています。

思うに、『人間革命』第1版執筆当時の昭和40年頃は、言論出版妨害事件以前です。つまり、学会と公明党が猛批判を受けて「丸くなる」前なのです。ですから、この時代の学会の書籍を読むことは、創価学会公明党の目指すものを非常に先鋭化された形で学ぶことにつながります。

「民間外交」の役割強調の穏健化

続いて、当時の和平工作に絡めながら、「民間外交」について言及されている箇所を読み比べます。

【第1版】今度の大戦では、日露戦争の時と異なり、我が国の和平工作が悉く失敗していったことは、当然なことであった。すべて、政界、軍部の上層部の工作のみであって、民間人の和平工作は皆無の状態であったからだ。

国民の中からの、国民の立場に立っての和平工作の運びは、全く影を潜めてしまった。それほど軍部政府の強圧は、言語を絶していたのである。

いつの時代でも、上層部の外交の大切なことは言うまでもない。しかし、それよりも、はるかに重大な外交は、民間と民間との交流であり、結合である。この自然に成立する外交こそ、強靭な鎖であり、価値があり、かつ永遠に続くことを、指導者たちは常に忘れてはならないのである。(84頁〜85頁)

【第2版】

今度の大戦では、わが国の和平工作が、ことごとく失敗を重ねていったのも、当然なことであった。

むろん、いつの時代でも、最高指導部による外交が大切なことは、言うまでもない。しかし、一切の基盤となるのは、民間人と民間人との交流であり、人間と人間の信頼の絆である。いわば鉄の鎖のように強い、心の結びつきである。この民衆次元の幾重もの交流こそが、平和の大河となるのである。

戦時には、外交交渉の当事者が戦争の渦中にある。和平工作の糸口を見出すためにも、民間の自然な結びつきが大事になる。だが、独裁的な軍部政府の圧力は、それさえも封じ込めてしまっていたのである。(106頁)

《考察》
「民間外交」に関する記述が明らかに変わっています。
まず第1版では、民間外交が「上層部の外交よりはるかに重大」とされ、国家間の外交よりも圧倒的に優位なものとされています。さらに、それが「永遠に続くもの」としてその永続性が強調されており、短期的な利害関係や情勢の変化に左右される国家間外交と対置されている。

それが第2版では、民間外交が「一切の基盤」「平和の大河」と述べられている。これは、第1版において国家間外交と民間外交を比較して後者の絶対的優位が述べられていたのとは、大きく異なっている。つまり、民間外交と国家間外交の明確な比較をすることを避け、民間外交の「絶対的優位性」ではなく「重要性」を説くものに変わっています。

「民間外交の方がよっぽど大事」という主張は、かなりエッジが効いており、「何で創価学会が外交の場に出てくるんだ」という批判を浴びそうなので、穏当な記述に変わったものとみられます。しかし、第2版のものは、大学生の国際交流サークルのホームページにも載っているような物なので、あまり面白くない。
本連載後の池田名誉会長の中国・ソ連訪問などを考えるとき、私には非常に感慨深いものがあります。これは、当時(今日も?)の池田名誉会長の本音だったんだろうなと思います。さらに、池田名誉会長が中国などとの民間関係を重視したのは、戦前の軍部政府の圧迫に対するアンチテーゼだったこともわかります。
これについては、また池田名誉会長の外交の歴史を改めて学びなおしながら、考えたいと思います。

「大衆」という言葉の持つ意味

続いて、ポツダム宣言が提示されながらも、「黙殺」を選択した時の政権を非難した箇所です。この「黙殺」によって終戦が後ろ倒しになり、広島と長崎に原爆が投下されました。

【第1版】

時代こそ違っても、指導階層は、常に冷徹なる理性をもって、大衆の幸福と平和を招来する方向への分析を怠ってはならぬ。その決断に臨んでは、大感情を集中し、身命を賭して事に臨むべきである。所詮、大衆を根本とした思索であれば、衆議も速やかに決するはずであろう。(87頁)

【第2版】

いつの時代にあっても、指導者階層は、常に冷徹な理性をもって、民衆の幸福と、平和への方向性の分析を怠ってはなるまい。その決断に臨んでは、大感情を集中し、それぞれ命をかけて事に臨むべきだろう。民衆の利益を根本とした思索であれば、衆議も速やかに決しなければならないはずだ。(109頁)

《考察》
「大衆」ーこの言葉を聞いて、創価学会員が真っ先に思い浮かぶのは、公明党だと思います。
公明党は、「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」が立党の原点とされています。

この「大衆」という言葉が「民衆の利益」に変わっており、それに基づいた思索ならば「衆議が速やかに決するはず」という記載から「決しなければならない」に変わっています。

まず、「衆議」をめぐる記載の変更についてですが、私は意味は変わっていないと思います。つまり、どちらも「日本の民衆のことを根本に考えていれば、議論は速やかに決したはずだ」という道理を述べている。これは、「自分たちの都合や国体の維持ばかり考えて、モタモタして決断できなかった」政府を批判していると言えます。

問題は、「大衆」から「民衆の利益」への変更です。前述の通り、「大衆」という言葉が公明党と密接に結びついていることを考慮に入れる必要があります。
そのことを念頭に置いて、第1版の記述は、以下のように解釈できます。

「戦時中の愚かな指導者は、大衆を忘れて自分たちの地位や面子に固執し、ポツダム宣言を黙殺した。その結果、広島長崎に原爆が投下され、多くの無辜の大衆が死んだ。この戦時中の愚かな政府ではなく、大衆を根本にした公明党が必要なのである」

乱暴な解釈であることは承知していますが、創価学会の政界進出、そして公明党の結党は、戦争を推進したかつての日本政府へのアンチテーゼであったと、私は思っています。
つまり、「大衆」という言葉は、税金を集めて再配分しようというような社会民主主義的な思想に回収されるものではない。それは、「大衆」を忘れて戦争を推進したかつての日本の指導者たちへの怒りに基づいた、反戦」「反権力」思想であるということです。

この事を考える時、私は、今日の公明党に物足りなさを感じてしまいます。
公明党議員は、非常に課題解決能力が高い専門家集団になりました。「福祉の党」と呼ぶにふさわしい党ではあると思います。
しかし問題は「平和の党」の看板です。私は、2014年の平和安全法制の事を言っているのではありません(ちなみに私は様々な論点において、同法制に異論がありますが、基本的には「容認」の立場です)。
自民党の右傾化と野党の弱体化。国際環境・安全保障環境の変化。
これらを背景に、憲法9条改正に象徴されるように日本のあり方が問われています。そうした中で、公明党が「現実主義」以上の路線を示せていないことは、残念に思います。

過去の戦争の記憶にルーツを持つ党として、護憲を掲げるのもいい。ただし、その場合は憲法9条を持つことの積極的意義を思想的に構築して欲しいし、同時に現実的な外交の場でどのような役割を果たしていくのかという日本像も示して欲しい。
別に9条改憲を掲げてもいいと思います。しかしそれは、これまで日米安保自衛隊、そして改憲に関する見解を「なし崩し」的に変えてきたようにではなく、公明党なりの国家観、日本観に立って欲しいと思います。
今のままの現実路線の公明党では、北朝鮮のミサイルが日本に着弾したら、簡単に再軍備論者になりそうに見えてくるのです。「自民党の補完勢力」「短期的政策実現に注力する政党」と自らを位置付けるのならいいですが、『人間革命』を読んでいると、そのような公明党のあり方は、一学会員として寂しく思います。

・・・さて、かなり脱線してしまいましたが、上述の「大衆」記述が「民衆の利益」に変わっている理由について、私が思い浮かぶのは以下のものです。

●「大衆」という言葉があまりに公明党を連想させるため、「政治一般の事を語っているのだ」という普遍性を持たせる事を企図している

●第1版執筆当時は、公明党結党からまだ2〜3年。当時の創価学会は、「公明党を通じて、戦時中の日本とは異なる大衆のための政治をやるんだ!」というような気概に溢れていた(当時はまだ原島や辻など学会の幹部が公明党議員をやっていた)。しかし、社会からの「政教一致」批判が止まない昨今、公明党を連想させるタームは削除することにした

一人称的パースペクティブの消失

【第1版】

トルーマンは、原爆落下のその日、ラジオで演説した。
「(中略)もし彼等が、我々の条件を受理しないなら、彼等の頭上には崩壊の雨が降るであろう」
アメリカらしい言い草である。しかし原子爆弾があることを表明した、このラジオ放送を、日本の首脳部は聞いていたはずである。
この世のものともいえぬ、地獄界を現出した広島の惨状。戦争を呪う声は巷に満ちた。しかし政府は、単なる威嚇として、黙殺する他に智慧がなかったのだろうか。
戦争だけは、永久に、断じてあってはならぬ。(90頁〜91頁)

 

【第2版】

原爆投下のその日、トルーマンの声明が、ラジオで発表された。

「(中略)もし彼等が、我々の条件を受理しないなら、彼等の頭上には崩壊の雨が降るであろう」

原子爆弾があることを表明した、このラジオ放送を、日本の首脳部は、聞いていたはずである。だが政府は、単なる威嚇として、黙殺する他に知恵はなかった。(114頁〜115頁)

《考察》
「アメリカらしい言い草である」「戦争だけは、永久に、断じてあってはならぬ」といった作者(池田大作)が一人称的に感情を込めて語った文章が、削除されている。これは『人間革命』における歴史叙述を、第三者的なものにしようという試みの一環であると考えられる。同様に、以下の文章も削除されているが、同じ理由であろう。

悪夢の連続に終止符を絶対に打たねばならない。そして、平和な正夢の歴史を創ることに、世界の責任ある指導者達は、全魂をなげうつべきである。(94頁)

敗戦総罰論の維持

「総罰だ。日本一国の総罰だ。いよいよ末法の大白法の必要な時になったのだ。大聖人様の大仏法が、本当に光り輝く時が到来したんだ」(第1版:98頁、第2版:123頁)

《考察》
下記の文章は、敗戦を迎えての戸田城聖のセリフであるが、初版と第2版で変わっていない。
これは、「日本国の敗戦は国家神道という邪教を信じた事による」というものである。

この主張は、以下の2点に注目すべきであると考えられる。
①敗戦は国民全体に科がある罰であること
太平洋戦争における敗戦は、「総罰」という言葉の示す通り、国民全体の責任であると述べられている。これは今日からするとドラスティックであるが、敗戦後の思想状況から見れば決して奇異なものではない。例えば、丸山眞男なども、敗戦を国民一人一人が「近代的個人」でなかった事に求めている。

②誤った宗教を信じることが国を滅ぼすこと
ここでは、「敗戦」の原因が誤った宗教を信じたことにあり、「大聖人様の仏法」が必要になったと述べられている。これは、「誤った宗教は国を滅ぼす」という、「立正安国論」を彷彿とさせる記述である。この文章の指し示すところは、宗教は政治や国土の荒廃までを決定づける「下部構造」とも呼べるものであるということだろう。宗教は人間の思想や観念を作り上げるにとどまらず、物質的側面をも規定するという主張である。
「誤った宗教を信じる」という原因と、「敗戦を迎える」という結果を結ぶのは何であろうか。私には、以下の2つが思い浮かぶ。

(A)誤った宗教を信じた結果、誤った観念や思想を人間が構築する。その人間は、誤った観念や思想に基づいて行動するがゆえに、誤った行動をする。誤った行動の結果として、惨憺たる結果(=敗戦)が到来する。

(B)誤った宗教を信じた結果、神々は去り、国土を守る働きは無くなる。その結果、国は滅びる(=敗戦)。

(A)に関しては、ある程度合理的であり、一定の説得力を有するだろうと思われる。敗戦の一因になったとされる戦時中の過度な精神主義は、神話に基づく自国への過度な信頼と不可分ではないだろう。
しかし、(B)に関しては、特定の宗教体系の内部で説明されるものであり、かなり飛躍している。
しかし、『人間革命』では(B)が採用されており、これは第2版でも変わっていないようである。詳細は、以下記事で検討しているので、ご参照されたい。

長くなりましたので、「終戦前後」の章、次回に続きます。

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創価学会と憲法9条:戦後日本における議論から考える

共産党は護憲、護憲と言っているが、日本国憲法制定時に反対したのは、共産党じゃないか!」

共産党が「国民連合政府」構想を掲げた頃から、公明党はこのような批判を好んでするようになりました。

私はこれを初めて聞いた時、「流石にそんな批判はないだろう」と思いました。もしも私が共産党議員だったら、「お前らだって王仏冥合国立戒壇建立を掲げていただろう!」と言い返しますが、公明党はなんと反論するのでしょうか。

それにしても、創価学会公明党共産党は仲が悪いですね。その理由として、「ターゲット層が重なっているから」という紋切り型の答えがありますが、十分ではない気がします。私は共産党の事を別になんとも思っていないのですが、周囲の学会員の共産党アレルギーはすごい。これでもかというほど悪口が飛び出します。これについては、機会を改めて、じっくりと考えてみたいと思います。

さて、本日も「『人間革命』の時代を読む」と題して、戦後日本の思想史を考えていきます。今回のテーマは、「日本国憲法」。当時の日本共産党や保守派の政治家などを取り上げ、憲法制定時の日本における議論を考察していきます。
さらに、創価学会憲法9条についても末尾において考えたいと思います。

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(本記事は、連載中の「『人間革命』の歴史を読む」の一部です。連載の目次一覧は、下記をご覧くださいませ。)

sanseimelanchory.hatenablog.com

憲法9条に「新しい日本像」を見出そう

未曾有の敗戦を迎えた日本。戦後の日本人が求めたのは、「ナショナリズムの廃棄」ではなく、「新しいナショナリズム」の探求でした。これまでの連載において、丸山眞男南原繁を見ながら、戦前の皇国思想に代わる新しいナショナリズムの探求を概観してきました。

そのような「新しいナショナリズム」探求の土壌の上に、憲法9条も登場しました。

政治、軍事、経済、全てが壊滅してしまった日本。そんな日本にとって新しいナショナルアイデンティティを構築するための鍵として、「文化」と「平和」が見出されました。
京都学派の高崎正顕は「文化戦争に勝て」と述べ、河上徹太郎も「我が国唯一のホープはぶ文化である」と述べている。

また、軍事的に壊滅した日本にとって、欧米に対抗する唯一の根拠は、平和主義に基づいた「道義」であったことも注目すべきです。戦後、アメリカの原子爆弾投下を道義的に非難する声が高まりを見せます。昭和天皇玉音放送でも、東久邇首相による記者会見でも、原爆投下が「人道無視」の行為であると批判されています。
しかし、そうした道義的な非難をする為には、自らが道義に適っている事が求められます。石原莞爾はこの理論に沿って、非武装中立を掲げて、米国の非道行為を非難しています。

これらの当時の日本人が抱えていた「心情」を見るとき、非武装と平和を掲げる憲法9条は、決して「押し付け」でなかったことがわかります。「道義」と「平和」は、プライドを完全にズタズタにされた日本人が、誇りを失わないための「最後の砦」だったのです。

保守派は憲法9条を大歓迎した

日本国憲法は押し付けだ!」「自主憲法を制定すべきだ!」

今日、保守派の政治家から盛んに聞かれる主張です。しかし日本国憲法案がGHQによって示された時、保守派の政治家たちは、一様にそれを歓迎しました。
その主な理由として、以下の3点が挙げられます。

第一に、憲法9条が日本の新しいナショナリズム構築の一環として認識されたことです。これは前節でも述べましたが、完敗を喫した日本人は、新しいナショナリズムの拠り所を求めていました。9条の非武装平和主義が「新しい日本のあり方」の規定として、肯定的に解釈されたのです。

第二に、憲法草案の制定が保守政治家たちにとって、非常に都合が良かったからです。保守化の政治家たちが恐れていた1番の事、それは天皇の処遇でした。天皇主権はさすがに認められないものの、「象徴天皇」として天皇制を維持する日本国憲法は、彼らにとって都合の良いものだったのです。当時の国際世論を見ると、「ヒロヒトを処刑せよ」という主張も多かったため、これは彼らにとって僥倖と言えましょう。
また、共産党の躍進に伴い、保守政権が自分たちの体制護持に危機感を覚えていたことも挙げられます。日本国憲法という思い切った改革案をした結果、自由党などの保守政党は1946年の選挙で躍進し、政権を獲得することができました。

そして最後に、憲法9条の受容は、決してドラスティックなものではなく、「既成事実の順応」であったことです。既に日本は連合国に占領されており、非武装化も相当程度進行済み。とても再軍備や他国との戦争など考えられる状況ではない。憲法9条による戦争放棄と非武装化は、そうした敗戦後の既存の状況を是認する穏当なものでもありました

日本国憲法に反対した日本共産党

しかし、日本国憲法に反対した勢力の急先鋒は、前述の通り日本共産党でした。
とはいえ彼らが反対したことは、そのイデオロギーを考えれば当たり前です。

まず、日本国憲法に規定された「基本的人権の尊重」は、日本共産党にとって「絵に描いた餅」でした。日本国民は貧困のどん底にあり、苦しみの中にいる。その元凶は資本主義経済であり、いくら憲法で美麗字句を並べ立てても現実変革にはなんの役にも立たない、というのです。

また9条に関しては、主に2つの理由から反対を唱えていました。
まず、「全ての戦争の放棄」への反対です。共産党は、資本主義とその究極系である帝国主義による「侵略戦争」には異を唱えました。しかし、人民のために行われる(彼らのイデオロギー成就のための)「解放戦争」は正義だとしたのです。
また、9条が説くような「消極的平和主義」を彼らは批判したのでした。日本共産党は、戦後の日本において、「外国」という外部の視点を持った希少な存在でした。彼らは日本を単なる敗戦国と認識するではなく、アジア諸国に対する「加害者」であるとし、その罪過の解消のためには積極的に国際貢献する必要があると考えたのです

南原繁の9条批判

前回の記事でも取り上げた、東大総長・貴族院議員であり「人間革命」の提唱者でもあった南原繁もまた、憲法9条を批判した1人でした。

それは、今日の日本でも議論となっている「国際貢献」の問題と大きく関わっていました。
南原は、「自国さえ平和なら良い」という平和主義ではなく、侵略戦争という罪過を償った上で、国際社会における平和の確立に積極的に貢献すべきだと主張したのです。
このような立場をとっている政党は、おそらく今日の日本にはないですね。積極平和主義を唱え、国際社会における日本の役割を強調する自民党と安倍首相も、それは「侵略戦争への反省」に基づいたものではない。また、「侵略戦争への反省」を強調する共産党社民党などの左派政党も、「9条護憲」が第一のテーゼであり、積極的な国際貢献を唱えておりません(民進党の議員などにはいるのかもしれません)。

南原のような議論は、とても重要だと思います。今日の日本では、「日本の文明史的役割」のような大きな枠組みでの議論がほとんど無い。目につくのは、日本大好きの自民党がするような愛郷的国家観くらいでしょうか。そのようなヒロイックな自国観に基づいて、国際社会への貢献を考えるのは、非常に危険であると思っています。それが一切の自省的契機を持たないため、正義を振りかざした暴走になりかねないからです。私は、「侵略戦争の果ての敗戦」という歴史を日本の財産と受け止め、日本の国際社会における役割を考えるべきだと思っています。

公明党に関しましては、そのような大きな国家観や文明史的な視点は、ほとんど持っていないと思います。彼らはミクロな世界での実務能力は非常に高いですが、長期的視点に立った日本観は持ち合わせていない。田原総一郎が「公明党は日本をどんな国にしたいのか見えてこない」と言っていましたが、その通りです。佐藤優などは「宗教政党として独自色を出すべき」と言っていますが、公明党にそれができるか・・・。
自民党の補完政党」くらいの立ち位置でいいならば、今のままでもいいのでしょう。しかし、今後政界再編が起きたり、公明党の党勢がしぼんだ時などに、「公明党の存在意義」という根本的なテーマが問われるのかもしれません。

「アメリカ主導」への批判

さて、今日の保守派政治家がする「押し付け憲法批判」も、当時から為されていました。
といってもそれは、米国が起草したという「出自」に関わるものではなく、それが日本人による十分な議論を経ずに安易に受容するという「受動性」を批判したものでした。

先述の南原の日本国憲法への批判の大きな理由も、それが米国によって主導され、日本人が創意と討議を経て「自分のもの」としていないことにありました。
さらに丸山眞男も、日本国憲法に対して、否定的だったといいます。日本人の「自立性」の欠如を指弾した彼ですから、当然といえば当然でしょう。竹内好も、その米国に与えられたという事実と安易な改正過程に冷淡な態度をとっていました。

しかし、当時の保守派政治家は、憲法を既成事実として受け入れました。このように後に改憲派に転ずる保守派政治家が憲法制定を推進し、南原などの護憲派に転ずる人々がそれに反対していた事は、注目すべき点です。
彼らの主張の評価は、また日本国憲法をめぐる議論の推移を見ながら、行っていきたいと思います。

創価学会日本国憲法

本記事では、戦後日本における憲法をめぐる議論を見てきました。
今日まで、日本国憲法をめぐる議論は止むことを知らず、早晩憲法審査会が本格始動しようとしています。

ところで私は、公明党を「9条改憲派」と位置付けています。これについては、また彼らの掲げる「加憲」についての考察とともに詳しく記事にしようと思っていますが、その理由の1つは、昨年成立した平和安全法制です。あんな明らかに違憲の法案を成立させておきながら、「9条護憲」を本気で唱えているとしたら、余程の法律素人だろうということになります。

公明党はかつて憲法9条については、議論の俎上にさえ上げないという立場をとっていましたが、それをタブー視しない「論憲」に変転し、さらに今日の「加憲」に至っています。彼らがなし崩し的に「改憲」に向かっているのは、その現実主義的な性格と整合的です。

とはいえ、憲法9条についてはっきりした態度をとれないのは、やはり創価学会の存在が大きい。詳しい調査はありませんが、学会員の9条改正アレルギーは強く、「公明党改憲勢力」と言っただけで怒り出す会員が大勢います。
これは、創価学会=平和主義」という自画像を公明党に投影しているからだと私は考えています。そしてその自画像は、牧口・戸田両会長の投獄、さらに牧口会長の獄死という戦時中の記憶と密接に結びついています。そして憲法9条は、その戦時中の記憶と不可分のため、戦争を知らない世代が大多数になった今日においても、9条護憲派の学会員は多いのです。
また、池田名誉会長が徹底した9条護憲派である事は、よく知られています。

私は、憲法9条と創価学会思想について、今後下記のアプローチをしたいと思います。

憲法9条と創価学会アイデンティティの関連の言語化
上述の通り、創価学会アイデンティティは、戦時中の軍部政府による弾圧が不可欠の構成要素となっています。この創価学会における「戦争の記憶」と憲法9条の関連性、さらに池田名誉会長によって戦後に主導された平和運動の影響を言語化することにより、学会の平和思想を客体化したいと考えています。

戸田城聖会長の憲法9条観
今回、9条をめぐる議論を概観して思ったのですが、私は戸田会長の憲法9条に対する見解を知りません。『人間革命』においても紙幅が大きく割かれているのは、信教の自由だったと思います。また、政界進出当時の創価学会が、憲法についてどんな見解を示していたのかわかりません。
現在、本企画と同時並行で、『人間革命』を読み進めておりますので、「戸田会長と憲法9条」という視点も加えて考察したいと思います。

●池田名誉会長の「9条護憲」思想の生成について
今日の創価学会では、池田名誉会長の「9条護憲」は既成事実化されており、それが学会の公式見解とみなされています。しかし、そのような固定化した見方ではなく、池田名誉会長を「生成する思想家」としてみる視点も必要でしょう。どのような思想遍歴を経て、池田名誉会長は「9条護憲」に至ったのか。これは資料収集などかなり大変そうですが、改憲が重要なテーマとなる日本において、創価学会が支援する公明党が与党に座を占めていることを考えるとき、非常に重要であると思います。というか、こういう仕事は、学会本部がやるべきだと思います。

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天皇制に学ぶ「忠誠」と「反逆」

先生は、天皇をどうお考えですか

『人間革命』の「地涌」の章において、山本伸一戸田城聖に投げかけた質問です。

この質問は、当時の時代思潮を表しています。
壊滅的な敗戦を迎えた日本に生きる人々は、いくつかの重要な思想課題に直面していました。
それは、戦争責任と主体性の問題です。そしてそれは天皇制」という一点において交差するものでした。なぜなら主体性の反対語である「権威」の象徴は、天皇であり、戦争責任の筆頭にあったのも天皇だったからです。

私は、創価学会の思想を考える上で天皇制の問題は非常に重要であると考えています。
それは第一に、「人間革命」という思想が戦中日本に対するアンチテーゼとして生まれたことです。そしてその戦中日本は、天皇制抜きでは語れない。後ほど詳述しますが、「人間革命」とは創価学会のオリジナルの造語ではない。それは、東大総長の南原繁などによって多用された当時の時代思潮を表す言葉だったのです。

また見落としてはならない点は、池田名誉会長が終戦を迎える17歳までの日々を、皇国思想の中で生きたということです。果たして戦時下の池田氏天皇に対してどのようなスタンスをとっていたのかわかりませんが、私は多くの国民と同じように素朴な「忠誠心」を抱いていたのではないかと思っています。そしてその忠君の心は、なかなか消えないものです。

長くなりましたが、本日は「天皇制」をめぐる戦後日本の議論がテーマです。

本稿は、連載企画「『人間革命』の時代を読む」の第2章に当たります。連載目次は、下記をご覧くださいませ。

sanseimelanchory.hatenablog.com

共産党が提唱した「天皇制打倒」

戦後日本において、天皇制打倒を提唱した筆頭格といえば、日本共産党です。
彼らはそのマルクス主義的な歴史観に基づいて、日本の天皇制を西洋の「絶対王政」に当たるものだと認識していました。すなわち日本は、中性的な封建制からは脱却しているが、フランス革命のような市民を革命を経ていない。その証左として、農村における寄生地主制度や君主制(=天皇制)が残存しているというのです。
日本共産党が目指したのは、「二段階革命」です。それは、天皇制を打倒する市民革命を達成したのち、社会主義革命を実行するというものでした。

着目すべきは、彼らが自分たちを「真の愛国政党」と位置付けて、上記の革命を主張したことです。今日の日本では「愛国」というと、ノスタルジックな「故郷に対する愛情」や、天皇への「忠君」と同義のように見られています。
しかし共産党が掲げた「愛国」とは、天皇に象徴される権威に追従せず、自主独立した人民が責任を持って祖国に貢献するというものでした。これは戦前・戦中の日本において、投獄・惨殺された日本共産党員の生き方に表れているといいます。つまり彼らは、「天皇制」「帝国主義」という権威に反対し、真に日本国の利益を追求した。つまり、天皇制」に反逆しながら、日本のためという「愛国的行動」を貫いたものだというのです。
このような「天皇制に対抗するナショナリズム」こそ、彼らが唱えた「真の愛国」でした。

天皇制への“愛着”ー丸山眞男中野重治

このような共産党の自主独立した「近代的個人」を目指す愛国のあり方は、前回の記事において言及した丸山眞男に通じるところがあります。これは、丸山がマルクス主義史観に惹かれていたことに一因があります。

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しかし、日本共産党と丸山には大きな違いがありました。それは天皇への愛着」です。
皇国思想の中で生きてきた丸山にとって天皇は、簡単に放棄できるものではありませんでした。彼は「超国家主義の論理と真理」において、天皇を頂点とする権威的なヒエラルキーを批判しますが、その執筆過程は煩悶と葛藤に満ちていたようです。
ゆえに丸山の天皇制批判は、昭和天皇を弾劾するものではない。天皇制という制度によって、精神的自由を確保できない日本への批判だったのです。

このような「天皇への愛着」は、広く共有されたものでした。
天皇退位を主張した中野重治は、天皇戦争犯罪人とした日本共産党に強く反発しています。彼が主張したのは、天皇天皇制からの解放」です。それは、全体主義によって抑圧された個人の典型を、天皇に見出すというものでした。これは、彼自身の「天皇への愛着」から生まれたものと言えましょう。

日本の民主化は「人間革命」ー南原繁

東大総長の南原繁は、天皇への強い忠誠心を持ちながら、天皇の自主退位を主張した人物です。

南原は日本の敗戦の原因を、丸山と同じく「独立した個人としての人間意識」が不足していたことに見出します。
しかし、その「独立した個人」とは、自己の利益追求に終始する功利主義者ではない。彼は、「独立した個人」が可能になる足場として、「民族」を提唱します。南原はもともとフィヒテの研究者でしたので、それはフィヒテ思想を日本という文脈の中で展開したものでした。
即ちそれは、「民族」という具体的・歴史的な共同体の中に自分を位置付けることにより、倫理的基盤が与えられ、私的利益追求の重視から脱却でき、「真の自由」を確保できる。さらにそれは、国際社会に参与する足場となるというものです。

その南原にとっての天皇とは、そのような倫理的源泉である「民族」と自由な個人を象徴するものと規定されるものでした。
しかし、このような規定に立つ時、1つの問題が起きる。自由な個人を象徴する天皇は、当然自らの行動を自ら律する自由と責任を持ちます。即ち、天皇の「戦争責任」の問題が浮かび上がるのです。

そこで南原が目指したのが、皇室典範の改正です。最近話題になっているこの法律には、「自主退位」の規定がありません。南原が目指したのは、天皇が「一個の自由な人間」として責任をとり、退位することができるよう、皇室典範を改正することでした。これは結局実現せずに終わりましたが、この南原の思想に私は舌を巻きました。天皇への絶対忠誠を揺るぎないものとしながら、それを「近代的個人の象徴」と位置付け、戦争責任と自主退位の問題まで引き受けてしまうのですから、そのスケールに驚かされます。南原の思想に触れた後ですと、自民党改憲草案なんてとても読めたものじゃありません。

最後に、南原において注目すべきは、彼が「人間革命」という言葉を東大卒業式で使ったことです。戸田城聖がそのことを知って喜んだ、というエピソードを聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。
「人間革命」は、今日あまりに手垢がつきすぎてしまった用語ですが、一度全ての先入観を捨て去って、その誕生の瞬間に注目する必要がある。また、創価学会がそれを使用し始めた時代状況と文脈を研究する。これは不可欠であるように思われます。
いずれ着手したいのですが、いつになるでしょうか。。。

「忠誠」と「反逆」の表裏一体関係

天皇制を巡る議論を様々見てきましたが、私の頭から離れなかった問題があります。
それは、創価学会と池田名誉会長に対する「忠誠」と「反逆」の問題です。
こんな事を言うと怒られそうですが、戦時下の大日本国帝国と天皇に絶対忠誠を誓った軍国青年たちは、私の周りの創価大学OBと重なってしまいます。

何も戦時下の天皇崇拝と創価学会の池田会長崇拝が同じだなんて言うつもりはありません。しかし、我々は創価3代の会長を「永遠の指導者」と定めています。これはかなり難しい思想課題であり、一歩間違えればかなりグロテスクな思想が出来かねない。また、日蓮の位置付けも、宗門から破門された学会にとって取り組まねばならない宿題となっています。
タテマエを捨て去って、天皇を「現人神」とした戦前の日本に学ぶことも、創価思想の構築には有効ではないかと思うのです。

天皇への忠誠の果てに敗戦を迎えた当時の日本人を見ていると、「忠誠」が「反逆」と表裏一体にあることに気づかされる。
つまり、それ(天皇)を強く信じていればいるほど、その脆弱性が露呈した時の「失望」は大きくなります。その「失望」は、かつて自分が信じていたものへの強い「抵抗・反逆」となります。「天皇のために死ぬ」と決意していた青年が、戦後「天皇処刑」を主張する事は、決して珍しくなかった。

何度も言及して申し訳ないのですが、造反した元創価学会本部職員の3名がいらっしゃいます(以下記事参照)。

sanseimelanchory.hatenablog.com

彼らは現在、盛んに学会本部攻撃(反逆)を続けていますが、そのきっかけとなったのは、組織への「失望」でした。それまで純粋で美しい無謬の世界だと信じていた創価学会が、成果主義と閉鎖性に満ち満ちた組織であると発見したのです。
彼らは、創価学会に対して非常に「忠実」だったのでしょう。その忠誠心が強いほど、それが裏切られた時の失望は大きくなり、反逆の行動も派手になります。

私は「忠誠心」を否定しない。しかし、重要な事は、忠誠の対象をしっかりと認識することです。完全無謬のものなんて、この世にありはしない。それにもかかわらず、それが「完全無欠」であるかのように誤解すると、実態からかけ離れた「偶像」が出来上がってしまう。
その「偶像」は自分が勝手に作り上げたものです。そして、その「偶像」と実態の乖離に気がついた時、「裏切られた」と錯覚し、それまで忠誠の対象としていたものに対して、これでもかと反逆するのです。

ですから、天皇にしても、創価学会にしても、その良いところも悪いところもしっかりと見て、その上で信じて、忠誠を誓うべきです。

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南原繁が2年前に岩波文庫になりました!