目次一覧~日蓮遺文を「再読」する~
しかし、その読み方は果たして十分だったのだろうか?
政治思想史家のクェンティン・スキナーは、以下のように書いている。
教義の神話のうちでも代表的なものの中心をなすのは、何といっても、古典的理論家の主題にふさわしいと認められてはいるが、実はなぜか彼らが論じなかった教義を彼らに帰することである。(『思想史とは何か』)
創価学会にしても、日蓮正宗にしても、それらの教義は、後世の人間が自分たちの都合に合わせて日蓮を読み、その意図を投影したものである側面が大きい。
宗教の教義がそのようになってしまうのはやむを得ないにしても、私は自由な一個人。もっと他に読み方があるはずだ。
そこで本連載では、日蓮を「御本仏」としてではなく、「鎌倉時代の日本という特殊具体的な場を生きた一人の人間」として考察することを目指す。特定宗派の解釈ではなく、優れた学問的功績を用いながら、思想家・日蓮を再構成するという格好つけた目標を掲げる。
序論:日蓮遺文を「再読」するに当たって
護教敵でない日蓮遺文の読み方を探るにあたり、代表的なテキスト解釈論を振り返りたいと思います。それは2つに大別され、1つは日蓮遺文を普遍的真理を明かしたものとして読む「非歴史的アプローチ」。そしてもう1つは、日蓮思想を時代的制約との関連で読む「歴史的アプローチ」。ここでは、「非歴史的アプローチ」について考察します。
「日蓮は念仏者だった」。この説を読んだ時、私は非常に驚かされました。それまで創価学会で教えられてきた日蓮像と、まったく違っていたからです。しかし、日蓮の人生とその時代背景を見るとき、その説が荒唐無稽でない、合理的なものであることがわかります。ここでは、日蓮遺文を、彼が生きた思想的状況と関連で読む「歴史的アプローチ」について考察します。
生成する思想家として日蓮を読むこと:田川建三、クェンティン・スキナーを手掛かりに
私は、「対論」が大嫌いです。それは所詮体制を維持するための言葉遊びに過ぎず、それに熱中する程、日蓮の「反・体制」の精神に外れていくからです。これまで「非歴史的アプローチ」と「歴史的アプローチ」について考察してきましたが、本企画で試みる第一のことは、日蓮が生きた歴史の場との関連でその思想を読むということです。