学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、バリ活にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

末法、大乗非仏、国立戒壇:日蓮遺文を「再読」するに当たって①

 

日蓮遺文を再読する事を決めました。

「再読」ーこの表現を使ったのには、理由があります。
私はまだまだ若輩者ですが、創価学会学生部や男子部での活動の中で、日蓮遺文を学んできました。「教学試験」という創価学会の教義が出題される試験も、何度か受けてきた。
その中で、立証安国論、守護国家論、開目抄、観心本尊抄、三大秘法抄、撰時抄・・・など代表的な遺文に目を通してきました。

しかし、その読み方が果たして十分だったのだろうか。そう自問自答しています。

私は創価学会員ですから、日蓮遺文を「御本仏の仰る絶対無謬の普遍的真理」として拝してきました。幹部や先輩による講義も、そのような前提で進められていました。
このような読み方によって得られるものも多いでしょう。
しかし遺文を崇め奉る事により、見落としてしまう事も多いのではないだろうか。

私が創価大学で学んだ事の中で最大の財産の一つは、「テキスト解釈の方法」です。
これは日蓮遺文に限らず、カント哲学でも、丸山眞男著作でも、池田名誉会長のスピーチにも言える事ですが、本の読み方は一つではありません。

日蓮遺文を、「絶対無謬の普遍的真理」として読むのも、一つの読み方でしょう。
しかし、その読み方に固執している限り、日蓮遺文の理解は限定されてしまうと思うのです。

そこで、日蓮遺文の再読を始める前に、「本の様々な読み方(=テキスト解釈の方法)」について、簡単にまとめてみようと思います。

非歴史的アプローチ:普遍的真理の探究

まず「非歴史的アプローチ」という本の読み方について、考えてみようと思います。

「真理とは何か」「死後人間はどうなるのか」「どうすれば幸福になれるのか」・・・

こういった問いは、遥か昔から人間を悩ませ続けてきました。
古代ギリシアの哲学者の本は、我々現代人が読んでも学ぶところが多くあります。原始仏教の仏典もそうでしょうし、聖書やコーランもそうでしょう。
それは、数千年の歴史を超えて、我々人間に共通した「普遍的な課題」について考察しているからだと言えます。

日蓮遺文もそうです。
「ガンになってしまった」「会社をクビになってしまった」「夫の浮気が発覚した」・・・
我々はあらゆる悩みに対する回答を求めて、700年以上前に書かれた文章に体当たりする。
また、「立正安国論」を読んで、現代日本にも通用するような、政治と宗教のあり方を考える。

つまり、時代を超えて通用する「普遍性」をテキストの中に見出そうとするのです。
私のこれまでの日蓮遺文の読み方も、この一種だと言えましょう。

ですがこの読み方をしていると、壁にぶつかる事があります。
日蓮は、自分を「末法」に生を受けたと認識しています。しかし、今日の歴史学では、釈尊の生誕は西暦紀元前463年~西暦紀元前383年頃とされている。つまり、日蓮の生まれた時代は、「像法」時代なのです。

また日蓮は、「法華経」を釈尊が説いた最高の教えであるとして、「法華経至上主義」を唱えました。日蓮の教義は、この前提の上に成立しています。
しかし今日の研究では、「法華経」が釈尊の死後約500年後に成立した事が通説になっている。つまり、「法華経」は大乗仏教を信奉するグループの活動の中で成立したものであり、法華経をそのまま釈尊の教えとみなす事は、無理があるのです。

このような諸事実を見ると、「日蓮無謬説」に立つ事が難しくなります。
日蓮がこのような記述をしたのは、当時の仏教界における共通見解を踏襲していたからであり、本人の勘違いではありません。
ですが、「末法の御本仏である日蓮大聖人は、その内証に全ての真理をおさめられていた」という命題の主張は出来なくなってしまう。やはり、当時の時代的制約の中で生きられていたのだという事は、明らかだからです。

また、このような「非歴史的アプローチ」を採用する時、思わぬ難題にぶつかる時があります。
次節ではその例として、「国立戒壇」を取り上げます。

「三大秘法抄」という問題作

日蓮遺文の中で「三大秘法抄」ほど、今日の日本で「タブー視」されているものはないのではないでしょうか。

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それは、戦前の国家主義者達によって盛んに用いられ、戦後も創価学会の「政教一致王仏冥合」運動の根拠とされたからです。また、長らく「偽書説」も唱えられていましたが、近年コンピューターによる解析によって「真撰」であるとされたようです。

問題とされる箇所を引いてみましょう(小松邦彰による現代語訳を用います)。

戒壇というのは 、王法 (世俗権力)が仏法と一体化し 、仏法が王法と合一して 、国王も臣下もみな本門の三大秘法を受持し 、有徳王が (正しい法を受けて迫害された )覚徳比丘 (を護って戦死した )という過去の話と同様の事態が末法濁悪の未来にも実現したとき 、 (天皇の )勅宣並びに (将軍の )命令 (御教書)を下して 、霊山浄土に似た最勝の土地を探して 、戒壇を建立すべきであろうか 。

この遺文の中で主張されていることは、以下の2点に要約できます。
①政治権力と宗教が一体化する(=王仏冥合
②国家権力によって、「国立戒壇」を建設すべきである。

戒壇」とは本来、「戒律を授ける場所」の意ですが、日蓮は「南無妙法蓮華経を唱える実践の場」という意味で使っています。そのような「戒壇」を、天皇勅令と幕府の命令の下で建設せよというのです。

これを現代的な視点から見ると、明らかに「政教分離」の原則に違反しますし、実現にはかなりの困難が伴うでしょう。
公明党はかつて「王仏冥合」「国立戒壇」の実現を掲げていましたが、言論出版妨害事件を契機に、それを取り下げています。

これらの今日の世界においては到底受容できない教義も、我々は「普遍性」を持つ真理として受け止め、実現を目指すべきなのか。それとも、現代という時代に合っていないという理由から、放棄すべきなのか。
「非歴史的アプローチ」をとっていると、このような袋小路に陥ることがあります。

(本連載の目次一覧は、下記をご覧くださいませ)

sanseimelanchory.hatenablog.com

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