学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、バリ活にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

「ご了承」不在の時代①:活動家でも反逆者でもない生き方

ここ数年、創価学会の「内紛」が目立つようになっている。
その筆頭は、安保関連法の成立に反対する創価学会員の反対運動だろう。天野達志氏を筆頭に、三色旗を振って国会前に詰め掛ける学会員がメディアでも大きく取り上げられた。
さらに2014年に創価学会は、かつて自分たちの唯一の正統性の根拠としていた「本門戒壇の大御本尊」を受時の対象から除外すると発表。これをめぐり、(調査や報道等ございませんので管見の限りですが)会員に動揺が走り、反対の声を上げる会員が出た。
そして、学会本部に造反し除名処分となった職員3名による学会本部への批判運動。彼らのブログを見ている限りでは、単なる造反劇に止まらず、一定数の会員に支持を集めているようである。

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70年代に見られた日蓮正宗との対立による集団脱会や、90年代の宗門からの分離独立に比べれば、これらの騒動はまだまだ小さいと言えるのかもしれない。しかし、これらの騒動には、これまで見られなかった1つの共通点がある。それは、学会に反旗を翻した人間が、「池田名誉会長に違背する学会執行部・公明党を糾弾している」という事である。

過去に学会に造反した人間の主張を見ると、それはほとんどが「反・池田」の旗を掲げるものだった。原島嵩や龍年光、藤原行正、矢野絢也、大橋敏雄、福本潤一等、彼らの主張は池田名誉会長を糾弾するものだった。さらに1991年に創価学会日蓮正宗から分離・独立した際に、学会を脱会して法華講員になった人は大勢いる(創価学会では彼らを「退転者」と呼ぶ)。彼らの脱会理由を調査した研究などはないが、「退転者」が集団執筆した『サヨナラ私の池田大作』を読むと、それは全て「大聖人の精神に違背した池田大作創価学会に別れを告げる」という趣旨のものである。

しかし最近の造反者に目をやると、彼らの全ては池田名誉会長を「池田先生」と呼んで師と仰ぎ、その指弾の矛先は学会本部や公明党に向けられている。これまでも同様の形式をとった批判はあっただろうが、脱会や大規模な批判キャンペーンに至ることはほとんどなかったと私は理解している。

なぜ、このような事態が生じているのか。
一言で言ってしまえば、「池田名誉会長が会員の目に触れる会合に出られなくなった」という一点に尽きるのだけれども、事態はそう単純ではないと私は考えている。すなわち、これまで創価学会が内部に抱えてきた「顕教」と「密教」の二重構造の矛盾が、池田名誉会長の「ご承認」の不在によって一気に表面化したというのが私の認識である(これだけ読んでも意味不明だと思われるが、詳細は追って説明させていただく)。

そこで本稿では、現在創価学会において起きている「学会本部・公明党批判」の構造を分析し、それがこれまでも学会内に生じていた事、それが池田名誉会長という絶対的指導者の存在により表面化しなかった事を明らかにする。

私は現在学会内で起きている一連の騒動について考察する事は、創価学会にとって非常に重要であると思っている。なぜならそれが、これまでの学会が乱用してきた「反逆者」のロジックでは処理できないものだからである。「反逆者」のロジックとは、創価学会に反旗を翻した人間を「信心のない犬畜生」「師弟の精神を失った忘恩の輩」等と糾弾するものである。
しかし、「ひとりの学会員」として公明党ならびに学会執行部にノーを突きつけた天野達志氏に見られるように、彼らは彼らなりに池田名誉会長の精神を理解・消化して、現実の活動を展開している。彼らを「信心がない」「師弟がわかっていない」と非難するならば、それを非難する人間は、何を根拠に自分が「信心がある」「師弟がわかっている」と思っているのかという話になる。それは結局、「創価学会執行部と公明党は池田先生の精神を正しく継承している。ゆえに、それに反対する人間は極悪人だ」というような主張に行き着かざるをえない。それを基礎づけるには、日蓮正宗の「唯授一人血脈相承」のような、3代会長の「信心の血脈」が学会執行部やそのご子息に継承されているというような教義をつくらなければならないだろうが、流石に学会の体質上無理であろう事に異論はないだろう。
池田名誉会長の思想は、学会執行部や公明党議員だけのものではない。天野氏のような一会員にも、原田会長や谷川主任副会長と同等に、池田思想を解釈・実践する権限があるはずである。とはいえ、あまりに種々雑多な主張が「我こそは正統の池田後継者なり」という信念に裏打ちされて登場するのは、組織運営上非常にマズい。だから、学会本部は「反逆者」ロジックでない、組織を穏当にまとめるための融和的なロジックを考えなければならない。

そしてこれは、学会執行部よりも、私のような一末端会員にとってこそ重要であると考えている。私は、「池田先生大好きの典型的学会員」を自認しているが、矯正しがたい歪な性格が災いし、明日には不満の心が爆発して「反逆者」となりかねない。
しかしこれは、私のような社会生活不適合者だけに当てはまるものではない。私の周囲を見ていても、公明党を非難したり、2014年の学会会則変更の取り消しを求めたり、学会本部の腐敗を糾弾したりしている学会員は、決して異常者でない。これまで信仰生活に真面目に取り組んできたからこそ(選挙活動を含む)、自分の信念(=彼らにとっての池田名誉会長の精神)に反する行動を起こした公明党創価学会に怒っているのである。

今後、学会本部や公明党に対する批判は増加する一途だろう。その時に、「組織の言う事には全て従う熱心な活動家」か「組織の方針に反対する反逆者」というどちらかの生き方しか提示されていない事は、組織運営上の問題よりも、会員一人ひとりの幸福という観点から見た時に問題がありすぎる。また、創価学会の意向に異を唱える事が長期的なスパンで見れば学会にプラスをもたらすこともあるだろう。
本稿は、「池田名誉会長のご承認が不在になった」今の学会を、これまでの学会と比較する事によって明らかにし、その中で「イエスマン」でも「反逆者」でもない第三の「学会員としての生き方」を考える準備段階でもある。

(続く)

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