学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、バリ活にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

衆院選述懐 ~公明党について考えることをやめるということ~

今更ながら、衆院選について振り返ってみたい。

 

希望の党が躍進し、政権奪還、少なくとも安倍晋三総理の責任問題が浮上する程度の議席は確保するだろうと思われたのも束の間。あっという間に失速し、終わってみれば自公共に公示前とほぼ変わらない議席を確保した。立憲民主党の伸長という結果はあったものの、それは”躍進”というより、事実上の解党前の民進党へのだだ下がりだった期待値を上回ったという程度の意味しか無い。

 

そもそも僕の問題意識は、「自民か、共産か」という二択しかない政治状況にある。自民党が強いのは仕方が無いにしても、自民党に入れたくない人が投票するオルタナティブが、共産党とそれと協力した立憲民主党しか無いことは、大問題ではないか。希望の党は、戦後日本的な意味での”リベラル”とは一線を画した保守路線を打ち出そうとしたが、小池氏のカリスマ性に大きく依存した組織体制と、現実味の無い政策一覧は、とても自民党に代わる与党候補としての立場を任せられるものではなかった。

 

ところで、今回の選挙では、東浩紀氏の『積極的棄権』の呼びかけが注目を集めた。「投票先が無い」「政局ばかりを気にした政治家のお祭りに付き合っていられない」という声を、署名活動によって可視化しようとするものだ。結果的にこの活動は、5,000名の署名を集めたらしい。

www.change.org

 

しかし管見の限りでは(つまりTogetterでまとめられたツイートを見た限りでは)、反・自民党的立場に立つ人による東氏に対する批判的な意見が多かった。「安倍政権を助けることになる」「結局白紙委任を与えるに過ぎない」「民主主義の冒涜だ」など。僕も同氏の活動に全面的に賛同するわけではないし(もちろん署名していない)、開始当初はやや扇情的な呼びかけ方をしていたため、「『今回の選挙はくだらない』という声の可視化」ではなく、「ボイコットの呼びかけ」と多くの人に捉えられたのもやむ無しかと思う。また、「今の日本では、反・安倍と唱えることこそ最優先されるべきだ」と言われれば、なるほどそうなのかもしれない。

 

だが先にも書いたとおり、僕の問題意識は「自民か、共産か」という二択しかない政治状況だ。この状況へのアンチテーゼが、極右志向のポピュリズムしかないという選挙を「異常だ」と考え、批判的視点に立つことは、もう少し歓迎されてもいいのではないかと思う。

東氏は、選挙後に「AERA」にて下記のように記述している。

 

世界どこでも、極端な主張が勝利し中道は消える傾向にある。近代民主主義が生まれたときにはネットもポピュリズムも存在しなかった。民主主義はいま、新しいメディアとの接触で、中道を排除する「お祭り」の装置へ急速に変質しつつあるのだ。ぼくたちは、一歩立ち止まり、この状況そのものへ反省を向ける必要がある

東浩紀「今回の選挙でぼくが『積極的棄権』を提唱した理由」 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

 

「中道」―この記事を読んでいる人は創価学会員が多いだろうけれども、学会員ならば「中道」と聞いて「公明党」を想起するのではないか。そしてこれまでの「自民か、共産か、極右志向のポピュリズムか」という僕の現状認識を聞いて、「公明党があるじゃないか」と思う人もいると思う。だが僕は、公明党を巡る見解についても、「中道」的な意見を持ちづらくなっている現状に、嫌気が差している。

 

公明党を巡る創価学会員の見解の全体像を、雑にスケッチしてみると、ほとんどが以下の2つに分類される。

 

公明党こそが混迷する日本政治を救う政党だ

公明党は、創価学会と池田先生の精神を忘れて、権力の魔性に食い破られてしまった

  

①は公明党の立党以来ずっと会員に共有されてきた信念だと思うが、②はここ数年(特に2015年の安保法制通過以降)よく見られるようになったものだ。池田名誉会長が公の会合に出席しなくなり、かつ「安保法制」や「共謀罪」といった創価学会の歴史や池田名誉会長の過去の発言に矛盾するように見える法案に公明党が加担したことによって、「創価学会の精神と池田名誉会長のご指導に反する公明党」という認識が可能になり、さらには「名誉会長に離反した創価学会本部/最高幹部」という言説も多く生まれるようになった。

 

①の意見を持つ人と、②の意見を持つ人の対立を、僕はいやと言うほど見てきたけれど、これは極端な選択しかない日本の政治状況と類比的に捉えられると思う。一方には「安倍政権を礼賛する人たち」「公明党を熱烈に支援する人たち」がおり、他方には、「反・安倍のワンフレーズを唱え続ける人たち」「公明党を絶対悪として非難する人たち」がいる。要するに、「中道」がない。日本の政治全体の話をしていても、公明党支援の話をしていても、極端な意見しか出てこない。「安倍政権を支持するか、しないか」「公明党を支援するか、しないか」という二者択一を迫られて、それ以外の意見を言うことがとても難しいのだ。

 

僕は公明党について、「混迷する日本政治を救う政党」とも思わないし、「権力の魔性に食い破られた絶対悪」とも思わない。どちらも現状を反映してない。どちらも、自らの宗教的信念ありきで現実の都合のいい事実をピックアップして、独自の閉鎖的な世界観を作り上げているように見えるのだ。

僕は、公明党は「いい仕事をしている」と率直に思う。優秀で人格的に優れた人も多い。しかし、公明党が日本の政治状況を大きく変える救世主になるかと言えば、大きな疑問符がつく。新宗教を支持母体に持っているが故に、大多数の国民にとっては「自分たちの代表」と認識されるのが難しい、しかも比例の得票数も頭打ちの政党は、政権与党の一角を占めるのが限界で、日本の政治を大きく動かすのは無理だと思う。また僕は、「言論出版妨害事件」によって、公明党は当初の理念と単独与党化という目標を失ったと考えている(「その公明党を勝たせるために戦うのだ!」という声には、そもそも現状認識が僕とずれていると思うので、特に反論は無い)。また、上述の②の意見を持つ人たちは、公明党共産党のようなスタンス(「戦争法案反対!」「共謀罪は現代の治安維持法!」)をとって欲しいように見える。だが、現在の政治状況で、その路線をとることが創価学会と池田名誉会長の精神の遵守と言えるのか、僕には甚だ疑問だ。共産党は2つも要らない。

 

だったら僕なりの中道とは、何か。それは公明党以外について考えることだ。そもそも僕も含めた創価学会員は、「公明党が正しい/間違っている」と結論するために思考のリソースを使いすぎている。しかし、宗教団体を支持母体に持つ700万程度の票しかない政党を日本の中心のように考え、そればかりに思考と活動時間を費やすのが、本当に日本政治のためになっているのだろうか?僕はそこに公共性はほとんど無いと思う。これは決して、公明党に投票しないことを意味しているのではない。「公明党議員を完全に信頼する」といったお任せ的な思考停止や、「公明党は池田先生に反している」という政治神学に留まることをやめて、「自民党に対抗しうる野党第一党をどうするか」「リベラル的発想をいかに日本政治に残すか」といったより公共性のある問いについて考えることだ。公明党以外にも、考えるべき問いはたくさんある。そして、今の公明党を巡る学会内の議論について、そもそもの疑問を投げかけること―それが不毛ではない道であると思う。

 

 

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