学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、バリ活にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

僕が創価学会の会則変更に批判的な理由

僕は、2014年の会則変更に批判的だ。

といっても、見たことも無い大御本尊に対して、僕は何の思い入れもない。また、日蓮正宗の大御本尊を巡る教義は、後世の人間が独自に編み出したものだと思っている。そんな僕が会則変更に反対する理由は、ジレンマに苦しむ会員を一定数生んでしまったからだ。

 

大多数の会員は無関心のようだが、この会則変更によって二律背反的状況に直面した人が一定数いる。その人たちとは、下記の2つの命題を同時に信じる人たちだ。

 

(A)本門戒壇の大御本尊は、日蓮大聖人の出世の本懐である。

(B)池田名誉会長は、私の人生の師匠である。

  

どちらかだけを信じている人は、ジレンマに苦しむ必要はない。(A)だけを信じており、(B)池田名誉会長に対して反感を持っているならば、日蓮正宗という立場がある。(B)池田名誉会長を慕っており、(A)大御本尊については無関心ならば、創価学会という立場に立てる。どちらにも関心がないなら、少なくとも日蓮正宗創価学会について悩む必要は無い。

 

しかし(A)と(B)を同時に信ずる人は2014年の会則変更により、この両命題に引き裂かれることになる。大御本尊への愛敬を持ちながらも、池田名誉会長も同時に尊敬していたら、日蓮正宗には居場所はないだろう。そしてその信仰心の対象である大御本尊を、自分が所属する教団の受持の対象から外されたら、行き場所が無くなり、二律背反の天秤棒の上を揺れ動くことになる。

 

私の周りにも、この問題で苦しんでいる会員が複数いた。内心の信仰の改変を迫られることは身を切られるように辛いだろうと、未熟な僕でもなんとなく想像はできる。そうした会員さんに思考を巡らせるとき、会則変更には批判的にならざるを得ない。

 

しかし驚かされたのは、そうした会員の方の殆どが「今の創価学会執行部は魔に負けて狂った」と、執行部批判を始めたことだった。いや、確かに自然なことかもしれない。上述の二つの命題をこれまで通り維持するならば、「会則変更に池田先生は何らかの理由で関っていない、本部執行部が独断でやった」と解釈せざるを得ないからだ。会則変更だけではなく、公明党の安保法制を巡る対応においても同じロジックの主張が登場した。

 

ちなみに「何らかの理由」について最も多いのが、「池田名誉会長の健康問題」である。代表格は、元本部職員の三名だ。彼らの主張を要約すると、「池田先生は難しい問題を考える思考力を既に失っており、執行部はそれをいいことに師匠を利用している」というものだ。そのほかにも少数だが、「池田先生は弟子が声を上げるか見守っている」という説もある

 

このような「執行部狂乱説」を前提に運動をしなければならない会員さんがいる現状を見ると、なんとも暗澹たる気持ちになる。大学時代にキリスト教史の本をよく読んだが、教団がどんどん分裂していく状況はそれを想起させる。そして論争のレベルは、今の創価学会の方がかなり低いと思っている。

 

もちろん僕がそうした会員さんに云々言うつもりは無いが、彼らの「執行部が全部悪い」という見方はかなり偏っているし安直であると思う。はっきり言うならば、「『会則変更反対』『公明党はおかしい』などと主張したいなら、池田先生も批判する覚悟でやらなければならない」ということだ。

 

会則変更についてよく出される池田名誉会長の言葉は、平成5年11月7日の最高教義会でのものだ。

 

一閻浮提総与の大御本尊が、信仰の根本であることは、少しも変わりはない。

 

これが引用しながら、「執行部が池田先生の指導に反している」というロジックを展開している人をよく見るのだが、一考すべきは90年代はじめ~半ばしか、池田名誉会長が大御本尊に言及していないことではないか。本当に大御本尊が信仰の根本であるならば、継続的にそれについて言及するのが自然だろう。現に以前に記事にしたが、僕のような平成生まれの学会員は、「本門戒壇の大御本尊」について殆ど知らない。

ゆとり世代学会員の本音①:「本門戒壇の大御本尊なんて知らない」 - 学会3世の憂うつ

また、(以前調べた記憶に依拠しているのであやふやだが)少なくとも2000年代初頭には教学試験でも、大御本尊に関する問題は出題されていない。「大御本尊離れ」は、池田名誉会長が表舞台に頻繁に登場していた時代から進んでいた。こうした状況を鑑みても、「池田先生に反して会則変更をした学会本部」という認識を基に執行部批判を行うのは、安直すぎる。

 

公明党の安保法制を巡る対応にしても、「池田先生の平和思想を忘れた学会本部/公明党」という認識は偏っていると思う。安保法制以前にも、イラク自衛隊派遣もあれば、有事法案もあった。池田名誉会長が会合などへの出席をやめたことと、公明党の対応を安直に結びつけ、「公明党が師匠の思想を忘れ、狂ってしまった」と断ずるのは、かなり愚かであると思う。そして政治への進出を積極的に推し進めたのは、池田名誉会長であることは、よく認識すべきである。

 

要約すると「執行部絶対悪」説は、「大御本尊」や「公明党」を巡るジレンマの解決策になりえない。その射程は、池田名誉会長にまで届く。それらを主張するならば、池田名誉会長の「大御本尊」を巡るスタンスの変化を丹念に辿ったり、池田名誉会長が推進した政治運動の批判的な総括が必要になる。安易な「池田名誉会長=絶対正しい」「池田名誉会長に反する執行部/公明党=絶対悪」という単純な世界観では、自己満足的な回答しかできないと思う。

 

なんだか本部擁護のような文章になってしまったが、僕のスタンスは「これからみんな大変なんだから、そんな敵認定ばかりしていないで、いろんな意見が出てもしっかり話し合って仲良くしていきましょう」。これに尽きる。

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