学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、バリ活にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

牧口常三郎は、戦争に賛成していたのか ~改めて、元職員3人組に批判的な理由~

牧口常三郎は、実は戦争に賛成していた」

 「牧口常三郎は、実は戦争に賛成していた」

 

ネットやTwitterで、こういった言説をよく目にする。牧口が書いた太平洋戦争を支持していると解釈できる文章を引用しながら、それらの主張は展開されている。

それに対する僕の意見は、「頭が悪いな」、とただそれだけ思う。

 

高崎隆治という歴史研究者がいる。1925年生まれで自らの生い立ちに戦争が大きく影響したことから、戦時中のジャーナリズムや文学についての研究を行い、優れた功績を残した人物だ。学問的な彼の立場は、「歴史社会学派」とされるものであり、同様の研究をしている日本人で一番有名なのは、おそらく小熊英二だろう。

 

「歴史社会学派」とは、「ある人物について研究するならば、その人物の行動や発言を切り取り、現代の文脈に合わせて解釈するのは問題がある。その人物が生きた歴史的文脈の中に行動や発言を置き直し、なぜそのような発言をしたのか解釈する」というものだ。つまり「牧口常三郎は、実は戦争に賛成していた」的な言説とは、真逆の立場である。そういう発言をする人間の大多数は、「牧口 戦争賛成」とGoogle検索をして、適当な主張をしているだけだろう。自己満足やプロパガンダの作成を目的とするならばいいが、対象を理解しようとするならばとても褒められたものではないし、本気でそれを正しいと思っているなら、本当に「頭が悪い」。

 

高崎は学会員ではないが、牧口、戸田両氏の文章や発刊した雑誌を、歴史社会学的に研究している。その論考の一部は「cinii」に行けば、無料でアクセスできる。その中の一つに、高崎が創価大学で行った講演を収録したものがある。

 

創価学会の青年部に招かれて講演などに行きますと、質問が出ます。

「牧口先生や戸田先生の書かれたものを、ほんの一部だが読んでみると、何でこんな遠まわしに言うのか、もっとズバリと、何で言えないのか。そういう感想を持たざるを得ない。このことについてはどうなんでしょうか」

と。

そういう質問に対して、簡単に言いますと、戦争中の行動あるいは思考などは一見、”五十歩百歩”のように見えるものは無数にあるんです。しかし、戦争中の”五十歩”と”百歩”というのは、天と地の違いがあります。

ある部分では、これは妥協してもいいだろう。しかし、この問題は、妥協は出来ない、ということを、雑誌の編集者ならば考えながら作らざるを得ない。つまり、全面的に戦争を拒否したり、批判をした、となれば、雑誌の発行自体が一回と保たない。

  

改めて太平洋戦争の際の日本の状況が、極めて“異常”であったことを想起する必要がある。70年後の我々が安易な絶対平和主義や人権思想を持ち出して、「牧口は甘かった、勇気がなかった」などと言うことは滑稽ですらある。僕も戦争中の国家権力の横暴について、本を何冊か読んだことがあるが、凄惨さに言葉を失う。例えば前述の小熊英二『民主と愛国』では、特高警察の拷問によって獄死したプロレタリア文学者・小林多喜二の死体について、それを見た者の手記が引用されている。やや長いが見てみたい。

 

「ものすごいほどに青ざめた顔は激しい苦痛の跡を印し、知っている小林の表情ではない。左のコメカミには打撲傷を中心に5、6ヶ所も傷痕があり、首には一まき、ぐるりと細引の痕がある。余程の力で絞められたらしく、くっきり深い溝になっている。だが、こんなものは、体の他の部分に較べると大したことではなかった。

下腹部から左右のヒザへかけて、前も後ろも何処もかしこも、何ともいえないほどの陰惨な色で一面に覆われている。余程多量な内出血があると見えて、股の皮膚がばっちり割れそうにふくらみ上がっている。赤黒く膨れ上がった股の上には左右とも、釘を打ち込んだらしい穴の跡が15、6もあって、そこだけは皮膚が破れて、下から肉がじかに顔を出している。

歯もぐらぐらになって僅かについていた。体を俯向けにすると、背中も全面的な皮下出血だ。殴る蹴るの傷の跡と皮下出血とで眼もあてられない。

しかし…最も陰惨な感じで私の眼をしめつけたのは、右の人さし指の骨折だった。人さし指を反対の方向へ曲げると、らくに手の甲の上へつくのであった。作家の彼が、指が逆になるまで折られたのだ!この拷問が、いかに残虐の限りをつくしたものであるかが想像された。

『ここまでやられては、むろん、腸も破れているでしょうし、腹の中は出血でいっぱいでしょう』と医者がいった。」

 

 

あくまで一例であるし、牧口と戸田が獄中でどんな仕打ちを受けたかについては別問題である。しかし少なくとも、こうした国家的な暴力が言論人を狙っている中で、牧口・戸田氏は発言をしていたのだ。この点については、創価学会員に限らず、歴史を学ぶ者ならば十分に留意しなければならない。

 

だが同時に僕が反発を覚える言説がある。それは、「平和の闘士であった牧口先生は、国家権力の横暴に勇気を持って立ち向かい殉教された」という、学会内でよく見られる礼賛的なものだ。これは「牧口常三郎は、実は戦争に賛成していた」という主張と真逆に見えるが、認識の水準は同じであると思う。どちらも牧口・戸田の闘争を丁寧に見ることを放棄し、現在の自分の欲望(創価学会の礼賛/ディス)に合わせて歴史を解釈しているからだ。どちらも、「日本軍は戦地で中国や朝鮮半島にこんな貢献をした」「中国軍朝鮮軍に日本人はこんなひどいことをされた」という事実を持ち出して、他国を謗り自国を神聖視するネトウヨ的言説と、知的水準は変わらない。

また「牧口常三郎は、実は戦争に賛成していた」的な言説が跋扈していることに対して、創価学会は深く反省しなければならないと思っている。知的水準の低い礼賛ばかりをしていれば、同水準の非難が出る。どちらも牧口、戸田に対して誠実ではない。所詮、プロパガンダしか産めていないのだ。

 創価教育学会と共産党の違いは何か?

さらに、「牧口、戸田先生は、戦争に反対したから偉かった」という言説についても、僕は違和感を覚えている。それは端的に、「それは日本共産党とは何が違うわけ?」と思うからだ。有名な話だが、戦争に反対した唯一の政党は、日本共産党である。戦後、多くの知識人は、戦時中の自らの妥協的行動に対する後ろめたさを感じていたが、共産党は絶大なる精神的権威を誇っていた。

 

しかし、戦中派が後ろめたさを感じる一方で、戦後派知識人から共産党の非転向に対する非難が出るようになる。その代表が吉本隆明だ。吉本は、宮本顕治徳田球一といった非転向(=共産主義イデオロギーを捨てなかった)は、道徳的に全く尊くないとした。彼らは、転向をした(=共産主義イデオロギーを捨てた)佐野学・鍋山貞親となんら変わりないというのである。理由は、彼らの「認識」が甘かったからである。宮本・徳田は日本の実情を一切無視して、輸入モノのイデオロギー固執し続けただけだ。それは、日本社会の現実について考えることも、イデオロギーについて深く検討することもなく、転向をした佐野・鍋山と変わりない。どちらも「認識」が甘いのだ。

 

僕がこの吉本の論について知ったのは、柄谷行人の『倫理21』という本を通じてだったが、柄谷は吉本について以下のように述べている。

 

吉本隆明にとって許しがたかったのは、自分の無知です。(略)戦中世代の人たちは。我々は知らなかった、教わらなかった、欺されていた、ということができました。しかし、吉本がとったのは、無知にも責任があるという態度です。では、無知に責任があるとするならば、どのように責任をとればよいのか。自分をふくむ世界を、徹底的に認識するほかないのです。

 

つまり吉本の力点は、「転向/非転向」という表面的な行動には無い。転向したにしても、非転向を貫いたにしても、戦争に賛成したとしても、反対したとしても、それがどのような「認識」に基づいていたかという点にこそ、その人物の行動の成否を求めなければならないということだ。

 

僕は「非転向は勇気があってすごい」と素朴に思うが、この視点は、牧口・戸田評価についても非常に重要だと考える。

端的に述べるならば、「戦争に反対した」だけでは、両者は別に際立って偉大なわけではない。なぜならば同じような行動をとった人は彼らの同時代にもいたし、創価教育学会よりも深刻な弾圧を受けた人間は大勢いる。また世界史的に見れば、そんな人物は山ほどいる。

また、「平和の闘士であった牧口先生は、国家権力の横暴に勇気を持って立ち向かい殉教された」という礼賛的主張にも、問題がある。それは端的に間違いである。彼らは何の妥協もなく、特攻隊のように大日本帝国に突撃して行ったわけではない。それを反証するファクトは、多くある。また上記の吉本の観点を導入するならば、そういった特攻隊的な行動は決して褒められたものではない。そこには「認識」が欠けている。さらにそうした知的水準の低い礼賛的認識に留まるならば、「牧口は実は戦争を礼賛していた」という主張の噴出を抑えることはできないだろう。であるから、「敢然と正義を貫いて妥協しなかった勇気の人」としてではなく、「時代状況を認識し時に妥協しながらも、戦うべきポイントを見極めた知性の人」として両氏を捉える試みが必要だと思う。でなければ、礼賛型/非難型のネトウヨレベルの低い言説しか生まれない。

 

現代の学会員を規定する三代会長認識

また最近では別の理由から、こうした“歴史社会学的”な見方の必要性を最近痛感している。それは単に歴史認識や学問に留まらず、現在生きている創価学会員の行動を大きく規定するからだ。なぜならば、創価学会員の多くは三代会長を「人生のモデル」「信仰の規範」とし、自らの信仰生活や人生の参照項にしている。その参照項をどう認識しているかによって、その人間の行動が大きく変わるのは、自然なことである。

 

このブログでは何度も元職員3名について言及をしている。彼らに賛同される会員の方からも多くメッセージをいただいている。

 

sanseimelanchory.hatenablog.com

上記の記事を読んでいただければわかるが、僕は、彼らが主張する人権侵害的な「除名」や「会館出入り禁止」といった学会が下しているとされる処分を、看過しているわけではない。もちろんそれは事実ベースの議論が必要になるのでそこには留保をつけるが(僕は一次情報でそういった事例をみたことがない)、もしそういった事実があるならば、許されるべきではないことに賛成だ。

 

だが問題は、「師匠の言っていることと違う!」という理由だけで、反対運動を展開する短絡性だ。彼らの主張はすべて「池田先生の指導に基づいているから」という理由で自分たちの行動に正当性を付与し、「池田先生の指導に反している」と認識した相手(=執行部)を絶対悪として非難している。「池田先生の指導を基に行動している」というだけで、学会でその行動は絶対的権威を帯びてしまう。特定の人物をカリスマ的指導者とする教団ならば、不可避なのかもしれないが、僕はそうした「師弟の精神に基づいた正義の行動」を手放しで応援することは全くできない。それは上記の記事に書いた理由に加え、三代会長にむしろ反していると思うからだ。

 

彼らは、安保法制や共謀罪をめぐる反対運動のときに牧口、戸田の闘争を持ち出したが、本当に「執行部や公明党を絶対悪と認識し、糾弾を続ける」ことが両会長的な闘争のスタイルなのか?両会長にあった知的闘争が、この3名には全く見られない。単なるイデオロギーへの固執と、認識を欠いた特攻隊的政治運動にしか見えない。結局、「安保法制」や「共謀罪」をめぐる彼らの意見は、市民連合に溢れる戦後日本特有の思考停止的な左翼的見解に、牧口・戸田・池田という固有名詞が加わっただけだ。上述の吉本を援用して言うならば、仮に安部政権の政策で不都合な結果が訪れた際に、彼らにも「責任」が生じるのではないか。そこには、認識に対する真摯な姿勢が欠けているからだ。

 

池田名誉会長にしても、「妥協をせずに悪と戦った獅子」という認識は、あまりに甘いのではないか?それだけで池田名誉会長の人生をすべて説明できるのか?言論出版妨害事件や宗門事件、公明党の与党化、天安門事件の際の中国に対する池田名誉会長の対応、それらを「妥協をせずに悪と戦った獅子」モデルでは説明できないのではないか。

 

本稿はすべて、創価学会会内にしか通用しない言説として書いたつもりだ。つまり三代会長を永遠の指導者と仰ぎ、絶対的参照項にするにしても、その参照項に対する認識については慎重であらねばならない。それは、「絶対正義―絶対悪」という極端な善悪二元論的な世界認識と、「絶対正義」に対する無反省な自己同化を生み出してしまうからだ。

 

参考:

高崎隆治戸田城聖の生きた時代 ―戦時ジャーナリズム研究の立場から―」

http://ci.nii.ac.jp/els/contents110007150077.pdf?id=ART0009096675

 

柄谷行人『倫理21』

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村