学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、バリ活にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

創価学会執行部のホンネ:2014年会則変更問題をめぐって

いつもブログを読んで頂いている方より、天野達志さんの新サイトについてメールいただきました。

soka-dakkan.amebaownd.com

昨年の安保法案成立時に、「ひとりの学会員」として公明党に「ノー」という声を上げられた天野さん。三色旗を振りながらのその活動は、様々なメディアでも取り上げられ、一躍時の人(?)となりました。

私は、学会員が個々の政策について議論し、場合によっては公明党を批判していくのは極めて健全だと思います。デモという形が私は嫌いですが、それもあっていいと思います。
けれども、天野さんのサイトを見たら、その活動範囲がかなり広がっていてビックリしました。
まず、スローガンが「三代会長の、池田先生の創価学会を取り戻そう!奪還!!DAKKAN!」となっており、どこかの政党が掲げていた「日本を取り戻す」というスローガンを彷彿とさせます。
そしてその主張も、「ひとりの創価学会員として安保法制に反対する」から、かなり拡大しています。主なものは以下。

●安保法制を認めた創価学会に反対!!
●2014年の会則変更をした創価学会に反対!!

そしてこれらの主張の前提となっているのが、「池田先生の教えに違背した学会本部執行部が悪い」というもの。最近かなり増えている論調であり、私が以前下記の記事で紹介した、造反本部職員三人組とも瓜ふたつの主張です。

造反した創価学会職員3名の救いようのない「病い」:創価同窓の後輩としての苦言

うーん、まぁどんな活動しようとも自由ですけど、違和感ありまくりです。
とはいえ、天野さんのような方が出てきて、それを支持する学会員さんが一定数いるのは、創価学会公明党が使っている「タテマエ」に説得力がないことが一因だと思います。

学会の会則変更の際は、「世界広布を推し進めるため」「時代の変化に合わせて教義を変えるため」。
安保法制の際は「世間は色々言ってるが、公明党はしっかり歯止めをかけた」「平和のために必要な法案だ」。

はっきり言って、子供騙しの域かな、と思います。まぁ、それらも全部本当といえば本当なんですが、これで納得できない会員さんが出るのは当たり前です。憲法学者の偉い先生がいろいろ言ってるのに、「いや実は俺たちの方が正しいんだよ」なんて、信じるのは難しいです。
また、池田先生が会合にご出席されなくなった今、「学会本部執行部は大丈夫か?」「先生を無視してるんじゃないか?」と思う会員さんが出ても不思議じゃないでしょう。

この安保と会則変更の2件に関して、実は結構のメール・メッセージをいただいています。
そこで、本記事では、僕が思っている「創価学会公明党のホンネ」を書いてみたいと思います。あくまで僕の推論に基づいたものです。「学会と公明党の言っていることが信用できない」という方の、思考の一助となれば非常に嬉しいです。

注)以下の記事は、創価学会員の方が読むことを前提に書いております。他の宗教の方が見ると、奇異・不快に映るかもしれません。ご了承ください。

 

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「本当は時代遅れの日蓮正宗の教義なんて、さっさと捨てちゃいたい。でも会員さんの理解が進まないから、ちょっとずつやるしかない」

 

これが創価学会本部の本音だと、私は考えています。

2014年の創価学会の会則変更。
最大のポイントは、「弘安2年の本門戒壇の大御本尊」を受時の対象から外したことでしょう。かつて日蓮大聖人の「出世の本懐」として、自分たちの正統性の最大の根拠としてたものを変更したのですから、これに動揺するのは当たり前です。

これは私の意見ですが、この変更は何の問題もありません、大賛成です。
「執行部の暴走」なんていう、短期的な事件ではないです。1990年ごろからの既定路線であり、もっと言うと1970年代にはこのような変更に向けて学会は動いていました。
何より、この変更は池田先生の長年の宿願であると私は考えています。

まず前提として認識すべきことは、創価学会日蓮正宗は正反対、水と油。
創価学会は、海外布教を推進し、その教義や信仰の形態も変えていきましょう、場合によっては日蓮よりも釈尊を立てましょうくらいの、(よく言えば)「柔軟」な教団です。日蓮大聖人は鎌倉時代の人ですから、その教義も今日から見れば色々と問題があります。それも、仏教学や文献学、解釈学を取り入れて変えていきましょう、というスタンスです。そして何より、池田先生の思想・人生と不可分の新宗教です。

それに対して日蓮正宗は、室町時代・江戸時代の価値観で存在しているような、伝統仏教団体の中でも保守的な教団です。教義変更なんてトンデモない、儀式も伝統を重んじなければダメだ。仏教学や文献学?そんな青い目をした西洋人に仏教はわからない、我々は「文底」を読むのだ。

まぁ要するに、全然違うのです(どっちが正しいという問題ではない、全然違うってことです)。
しかしこの両者は、最近まで一緒に活動していたのです。それもかなり特殊な形態です。
創価学会は、教義と本尊という信仰の中核を日蓮正宗に依存しながら、独自路線を展開。政界に進出して一大勢力となり、中国やソ連とも太いパイプを築いてしまう。キリスト教イスラム教とも積極的に交流する。その国々のお国柄に合わせて、教義も見直していこうとしている。
こんな両者が上手くいくわけがありません。

これが顕在化したのが「昭和52年問題」、そしてこれは池田先生の会長ご勇退につながっていきます。この時何があったのか、ゴシップレベルの話しか残っていなくて、私にはよくわかりません。
しかし、2014年の会則変更に関わる「教義」の問題に着目すれば、少しはわかる事があります。
それは創価学会、そして池田先生が、日蓮正宗が完全に無視していた仏教学や文献学などの成果を積極的に取り入れようとしたことです。その頃書かれた『仏教史観を語る』などを読むとよくわかります。
池田先生については、良い悪い評価様々ありますが、私はかなりのインテリ・知識人である事は間違いないと思っています。その著作を読んでいると思いますが、宗教指導者でありながら、かなりの合理主義者です。
はっきり言って日蓮正宗の「一大秘法」「唯授一代血脈相承」「日蓮本仏論」などの教義は、世間の学者はみんな馬鹿にしています。アカデミズムを重視する池田先生がそれらを「変えたい!」と思ったのは、当然と言えば当然なのです。

そこで池田先生は、創価学会独自に日蓮仏法を解釈しようとした。しかしそれは、日蓮正宗からすればタブーだった。そこに、山崎正友やら、原島嵩やら、御本尊模刻事件やら・・・とカオスの様相を呈していく。そして、先生は辞任せざるをえなくなった・・・。
これは、第一次宗門事件を教義解釈という一面から見た解釈です(かなり複雑怪奇な事件なので、簡略化はお許しくださいませ)

要するに言いたい事は、創価学会は1970年代から、ずっと大石寺教学からの脱却を図ってきたという事です。それはやがて1990年初頭の第2次宗門事件につながり、両者は別れる事になる。

創価学会は、少しずつ日蓮正宗の教義を捨て去ってきたわけです。
急に捨て去れなかった理由は、日蓮正宗との軋轢。そして、学会員さんが動揺するからです。
「唯授一人血脈相承」も、当初は「日顕で血脈は切れた!」というものでしたが、いつの間にか「神秘的な血脈観」として相承の教義自体が全否定されるに至りました。そして、「生死一大事血脈抄」を使って「信心の血脈」が強調されるようになっています。

このような長期的な流れの中に、2014年の会則変更は位置付けられます。「本門戒壇の大御本尊」は、大石寺教学の根幹中の根幹。そしてそれを「一大秘法」だと定める限り、日蓮正宗の絶対的優位は揺るがないのです。これを捨て去る事は、創価学会、そして池田先生にとって宿願だったわけです。

「会則変更に、池田先生のご了承はあったのか」という問いを発せられる方が多くいますが、当然あったと思います。
というか、これは池田先生が1970年代から率先して進められてきた事です。約40年の時を経て、ようやくそれが叶ったのです。

「学会寄りで書く」と決めたからか、かなり日蓮正宗の教義を非難するようなものになってしまいましたが、もうこれはどちらが正しいというものではないです。池田先生は、合理主義・アカデミズムを重視されましたが、それも万能ではないでしょう。明治以前のパラダイムから仏教学・文献学を相対化するという立場もありでしょう。

日寛のような江戸時代的パラダイムの「文底読み」を好むならば、日蓮正宗がいい。
西洋的な学問的考証を好むならば、創価学会がいい。
私のような西洋中心主義者は、迷わず創価学会ですが(といっても、創価学会の教義や運動にも、問題ありまくりですが、今後に期待しています)。

また、本門戒壇の大御本尊を信じておられる方も、これまでの信仰を全て捨て去る必要はないし、学会をやめる必要もないです。
本門戒壇の大御本尊も、変わらず功徳がある「本門の御本尊」であることに変わりはありません。各家庭の日達や日寛の御本尊に祈る時に、大御本尊を念頭に祈っても、それは学会の会則には抵触しないと思います。大御本尊を受時の対象にしないのは、それに功徳・力がなくなったからではなく、「大謗法の地にあるから」というのが創価学会の立場だからです。

ただ学会の会則に賛成するならば、「大御本尊唯一主義」(一大秘法思想)だけは捨てなければなりません。「本門戒壇の大御本尊に直結しない、他宗の御本尊は謗法だ!」という立場です。
これは、身延日蓮宗などの大聖人の直筆曼荼羅などに功徳を認める事になりますが、今の時代この位の寛容性は持つべきだと私は思います。また、キヨスクのような露店で売られている土産曼荼羅には私も否定的ですが、それは教義や功徳の問題ではなく、御本尊の扱いに関するメンタリティを批判すれば良いと思います。

とはいえ、御本尊という宗教的な感情がモロに関わる領域の話なので、そう簡単には割り切れないと思います。ただ、日蓮正宗という全く異なる教団に依存せざるをえなかった創価学会の宿命として、受け入れていかなければならないのだろうと思います。

長くなったので、公明党と安保については、別記事で言及します。

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