牧口常三郎は、戦争に賛成していたのか ~改めて、元職員3人組に批判的な理由~
「牧口常三郎は、実は戦争に賛成していた」
「牧口常三郎は、実は戦争に賛成していた」
ネットやTwitterで、こういった言説をよく目にする。牧口が書いた太平洋戦争を支持していると解釈できる文章を引用しながら、それらの主張は展開されている。
それに対する僕の意見は、「頭が悪いな」、とただそれだけ思う。
高崎隆治という歴史研究者がいる。1925年生まれで自らの生い立ちに戦争が大きく影響したことから、戦時中のジャーナリズムや文学についての研究を行い、優れた功績を残した人物だ。学問的な彼の立場は、「歴史社会学派」とされるものであり、同様の研究をしている日本人で一番有名なのは、おそらく小熊英二だろう。
「歴史社会学派」とは、「ある人物について研究するならば、その人物の行動や発言を切り取り、現代の文脈に合わせて解釈するのは問題がある。その人物が生きた歴史的文脈の中に行動や発言を置き直し、なぜそのような発言をしたのか解釈する」というものだ。つまり「牧口常三郎は、実は戦争に賛成していた」的な言説とは、真逆の立場である。そういう発言をする人間の大多数は、「牧口 戦争賛成」とGoogle検索をして、適当な主張をしているだけだろう。自己満足やプロパガンダの作成を目的とするならばいいが、対象を理解しようとするならばとても褒められたものではないし、本気でそれを正しいと思っているなら、本当に「頭が悪い」。
高崎は学会員ではないが、牧口、戸田両氏の文章や発刊した雑誌を、歴史社会学的に研究している。その論考の一部は「cinii」に行けば、無料でアクセスできる。その中の一つに、高崎が創価大学で行った講演を収録したものがある。
創価学会の青年部に招かれて講演などに行きますと、質問が出ます。
「牧口先生や戸田先生の書かれたものを、ほんの一部だが読んでみると、何でこんな遠まわしに言うのか、もっとズバリと、何で言えないのか。そういう感想を持たざるを得ない。このことについてはどうなんでしょうか」
と。
そういう質問に対して、簡単に言いますと、戦争中の行動あるいは思考などは一見、”五十歩百歩”のように見えるものは無数にあるんです。しかし、戦争中の”五十歩”と”百歩”というのは、天と地の違いがあります。
ある部分では、これは妥協してもいいだろう。しかし、この問題は、妥協は出来ない、ということを、雑誌の編集者ならば考えながら作らざるを得ない。つまり、全面的に戦争を拒否したり、批判をした、となれば、雑誌の発行自体が一回と保たない。
改めて太平洋戦争の際の日本の状況が、極めて“異常”であったことを想起する必要がある。70年後の我々が安易な絶対平和主義や人権思想を持ち出して、「牧口は甘かった、勇気がなかった」などと言うことは滑稽ですらある。僕も戦争中の国家権力の横暴について、本を何冊か読んだことがあるが、凄惨さに言葉を失う。例えば前述の小熊英二『民主と愛国』では、特高警察の拷問によって獄死したプロレタリア文学者・小林多喜二の死体について、それを見た者の手記が引用されている。やや長いが見てみたい。
「ものすごいほどに青ざめた顔は激しい苦痛の跡を印し、知っている小林の表情ではない。左のコメカミには打撲傷を中心に5、6ヶ所も傷痕があり、首には一まき、ぐるりと細引の痕がある。余程の力で絞められたらしく、くっきり深い溝になっている。だが、こんなものは、体の他の部分に較べると大したことではなかった。
下腹部から左右のヒザへかけて、前も後ろも何処もかしこも、何ともいえないほどの陰惨な色で一面に覆われている。余程多量な内出血があると見えて、股の皮膚がばっちり割れそうにふくらみ上がっている。赤黒く膨れ上がった股の上には左右とも、釘を打ち込んだらしい穴の跡が15、6もあって、そこだけは皮膚が破れて、下から肉がじかに顔を出している。
歯もぐらぐらになって僅かについていた。体を俯向けにすると、背中も全面的な皮下出血だ。殴る蹴るの傷の跡と皮下出血とで眼もあてられない。
しかし…最も陰惨な感じで私の眼をしめつけたのは、右の人さし指の骨折だった。人さし指を反対の方向へ曲げると、らくに手の甲の上へつくのであった。作家の彼が、指が逆になるまで折られたのだ!この拷問が、いかに残虐の限りをつくしたものであるかが想像された。
『ここまでやられては、むろん、腸も破れているでしょうし、腹の中は出血でいっぱいでしょう』と医者がいった。」
あくまで一例であるし、牧口と戸田が獄中でどんな仕打ちを受けたかについては別問題である。しかし少なくとも、こうした国家的な暴力が言論人を狙っている中で、牧口・戸田氏は発言をしていたのだ。この点については、創価学会員に限らず、歴史を学ぶ者ならば十分に留意しなければならない。
だが同時に僕が反発を覚える言説がある。それは、「平和の闘士であった牧口先生は、国家権力の横暴に勇気を持って立ち向かい殉教された」という、学会内でよく見られる礼賛的なものだ。これは「牧口常三郎は、実は戦争に賛成していた」という主張と真逆に見えるが、認識の水準は同じであると思う。どちらも牧口・戸田の闘争を丁寧に見ることを放棄し、現在の自分の欲望(創価学会の礼賛/ディス)に合わせて歴史を解釈しているからだ。どちらも、「日本軍は戦地で中国や朝鮮半島にこんな貢献をした」「中国軍、朝鮮軍に日本人はこんなひどいことをされた」という事実を持ち出して、他国を謗り自国を神聖視するネトウヨ的言説と、知的水準は変わらない。
また「牧口常三郎は、実は戦争に賛成していた」的な言説が跋扈していることに対して、創価学会は深く反省しなければならないと思っている。知的水準の低い礼賛ばかりをしていれば、同水準の非難が出る。どちらも牧口、戸田に対して誠実ではない。所詮、プロパガンダしか産めていないのだ。
創価教育学会と共産党の違いは何か?
さらに、「牧口、戸田先生は、戦争に反対したから偉かった」という言説についても、僕は違和感を覚えている。それは端的に、「それは日本共産党とは何が違うわけ?」と思うからだ。有名な話だが、戦争に反対した唯一の政党は、日本共産党である。戦後、多くの知識人は、戦時中の自らの妥協的行動に対する後ろめたさを感じていたが、共産党は絶大なる精神的権威を誇っていた。
しかし、戦中派が後ろめたさを感じる一方で、戦後派知識人から共産党の非転向に対する非難が出るようになる。その代表が吉本隆明だ。吉本は、宮本顕治や徳田球一といった非転向(=共産主義的イデオロギーを捨てなかった)は、道徳的に全く尊くないとした。彼らは、転向をした(=共産主義的イデオロギーを捨てた)佐野学・鍋山貞親となんら変わりないというのである。理由は、彼らの「認識」が甘かったからである。宮本・徳田は日本の実情を一切無視して、輸入モノのイデオロギーに固執し続けただけだ。それは、日本社会の現実について考えることも、イデオロギーについて深く検討することもなく、転向をした佐野・鍋山と変わりない。どちらも「認識」が甘いのだ。
僕がこの吉本の論について知ったのは、柄谷行人の『倫理21』という本を通じてだったが、柄谷は吉本について以下のように述べている。
吉本隆明にとって許しがたかったのは、自分の無知です。(略)戦中世代の人たちは。我々は知らなかった、教わらなかった、欺されていた、ということができました。しかし、吉本がとったのは、無知にも責任があるという態度です。では、無知に責任があるとするならば、どのように責任をとればよいのか。自分をふくむ世界を、徹底的に認識するほかないのです。
つまり吉本の力点は、「転向/非転向」という表面的な行動には無い。転向したにしても、非転向を貫いたにしても、戦争に賛成したとしても、反対したとしても、それがどのような「認識」に基づいていたかという点にこそ、その人物の行動の成否を求めなければならないということだ。
僕は「非転向は勇気があってすごい」と素朴に思うが、この視点は、牧口・戸田評価についても非常に重要だと考える。
端的に述べるならば、「戦争に反対した」だけでは、両者は別に際立って偉大なわけではない。なぜならば同じような行動をとった人は彼らの同時代にもいたし、創価教育学会よりも深刻な弾圧を受けた人間は大勢いる。また世界史的に見れば、そんな人物は山ほどいる。
また、「平和の闘士であった牧口先生は、国家権力の横暴に勇気を持って立ち向かい殉教された」という礼賛的主張にも、問題がある。それは端的に間違いである。彼らは何の妥協もなく、特攻隊のように大日本帝国に突撃して行ったわけではない。それを反証するファクトは、多くある。また上記の吉本の観点を導入するならば、そういった特攻隊的な行動は決して褒められたものではない。そこには「認識」が欠けている。さらにそうした知的水準の低い礼賛的認識に留まるならば、「牧口は実は戦争を礼賛していた」という主張の噴出を抑えることはできないだろう。であるから、「敢然と正義を貫いて妥協しなかった勇気の人」としてではなく、「時代状況を認識し時に妥協しながらも、戦うべきポイントを見極めた知性の人」として両氏を捉える試みが必要だと思う。でなければ、礼賛型/非難型のネトウヨレベルの低い言説しか生まれない。
現代の学会員を規定する三代会長認識
また最近では別の理由から、こうした“歴史社会学的”な見方の必要性を最近痛感している。それは単に歴史認識や学問に留まらず、現在生きている創価学会員の行動を大きく規定するからだ。なぜならば、創価学会員の多くは三代会長を「人生のモデル」「信仰の規範」とし、自らの信仰生活や人生の参照項にしている。その参照項をどう認識しているかによって、その人間の行動が大きく変わるのは、自然なことである。
このブログでは何度も元職員3名について言及をしている。彼らに賛同される会員の方からも多くメッセージをいただいている。
sanseimelanchory.hatenablog.com
上記の記事を読んでいただければわかるが、僕は、彼らが主張する人権侵害的な「除名」や「会館出入り禁止」といった学会が下しているとされる処分を、看過しているわけではない。もちろんそれは事実ベースの議論が必要になるのでそこには留保をつけるが(僕は一次情報でそういった事例をみたことがない)、もしそういった事実があるならば、許されるべきではないことに賛成だ。
だが問題は、「師匠の言っていることと違う!」という理由だけで、反対運動を展開する短絡性だ。彼らの主張はすべて「池田先生の指導に基づいているから」という理由で自分たちの行動に正当性を付与し、「池田先生の指導に反している」と認識した相手(=執行部)を絶対悪として非難している。「池田先生の指導を基に行動している」というだけで、学会でその行動は絶対的権威を帯びてしまう。特定の人物をカリスマ的指導者とする教団ならば、不可避なのかもしれないが、僕はそうした「師弟の精神に基づいた正義の行動」を手放しで応援することは全くできない。それは上記の記事に書いた理由に加え、三代会長にむしろ反していると思うからだ。
彼らは、安保法制や共謀罪をめぐる反対運動のときに牧口、戸田の闘争を持ち出したが、本当に「執行部や公明党を絶対悪と認識し、糾弾を続ける」ことが両会長的な闘争のスタイルなのか?両会長にあった知的闘争が、この3名には全く見られない。単なるイデオロギーへの固執と、認識を欠いた特攻隊的政治運動にしか見えない。結局、「安保法制」や「共謀罪」をめぐる彼らの意見は、市民連合に溢れる戦後日本特有の思考停止的な左翼的見解に、牧口・戸田・池田という固有名詞が加わっただけだ。上述の吉本を援用して言うならば、仮に安部政権の政策で不都合な結果が訪れた際に、彼らにも「責任」が生じるのではないか。そこには、認識に対する真摯な姿勢が欠けているからだ。
池田名誉会長にしても、「妥協をせずに悪と戦った獅子」という認識は、あまりに甘いのではないか?それだけで池田名誉会長の人生をすべて説明できるのか?言論出版妨害事件や宗門事件、公明党の与党化、天安門事件の際の中国に対する池田名誉会長の対応、それらを「妥協をせずに悪と戦った獅子」モデルでは説明できないのではないか。
本稿はすべて、創価学会会内にしか通用しない言説として書いたつもりだ。つまり三代会長を永遠の指導者と仰ぎ、絶対的参照項にするにしても、その参照項に対する認識については慎重であらねばならない。それは、「絶対正義―絶対悪」という極端な善悪二元論的な世界認識と、「絶対正義」に対する無反省な自己同化を生み出してしまうからだ。
参考:
高崎隆治「戸田城聖の生きた時代 ―戦時ジャーナリズム研究の立場から―」
http://ci.nii.ac.jp/els/contents110007150077.pdf?id=ART0009096675
柄谷行人『倫理21』
僕が創価学会の会則変更に批判的な理由
僕は、2014年の会則変更に批判的だ。
といっても、見たことも無い大御本尊に対して、僕は何の思い入れもない。また、日蓮正宗の大御本尊を巡る教義は、後世の人間が独自に編み出したものだと思っている。そんな僕が会則変更に反対する理由は、ジレンマに苦しむ会員を一定数生んでしまったからだ。
大多数の会員は無関心のようだが、この会則変更によって二律背反的状況に直面した人が一定数いる。その人たちとは、下記の2つの命題を同時に信じる人たちだ。
(B)池田名誉会長は、私の人生の師匠である。
どちらかだけを信じている人は、ジレンマに苦しむ必要はない。(A)だけを信じており、(B)池田名誉会長に対して反感を持っているならば、日蓮正宗という立場がある。(B)池田名誉会長を慕っており、(A)大御本尊については無関心ならば、創価学会という立場に立てる。どちらにも関心がないなら、少なくとも日蓮正宗や創価学会について悩む必要は無い。
しかし(A)と(B)を同時に信ずる人は2014年の会則変更により、この両命題に引き裂かれることになる。大御本尊への愛敬を持ちながらも、池田名誉会長も同時に尊敬していたら、日蓮正宗には居場所はないだろう。そしてその信仰心の対象である大御本尊を、自分が所属する教団の受持の対象から外されたら、行き場所が無くなり、二律背反の天秤棒の上を揺れ動くことになる。
私の周りにも、この問題で苦しんでいる会員が複数いた。内心の信仰の改変を迫られることは身を切られるように辛いだろうと、未熟な僕でもなんとなく想像はできる。そうした会員さんに思考を巡らせるとき、会則変更には批判的にならざるを得ない。
しかし驚かされたのは、そうした会員の方の殆どが「今の創価学会執行部は魔に負けて狂った」と、執行部批判を始めたことだった。いや、確かに自然なことかもしれない。上述の二つの命題をこれまで通り維持するならば、「会則変更に池田先生は何らかの理由で関っていない、本部執行部が独断でやった」と解釈せざるを得ないからだ。会則変更だけではなく、公明党の安保法制を巡る対応においても同じロジックの主張が登場した。
ちなみに「何らかの理由」について最も多いのが、「池田名誉会長の健康問題」である。代表格は、元本部職員の三名だ。彼らの主張を要約すると、「池田先生は難しい問題を考える思考力を既に失っており、執行部はそれをいいことに師匠を利用している」というものだ。そのほかにも少数だが、「池田先生は弟子が声を上げるか見守っている」という説もある
このような「執行部狂乱説」を前提に運動をしなければならない会員さんがいる現状を見ると、なんとも暗澹たる気持ちになる。大学時代にキリスト教史の本をよく読んだが、教団がどんどん分裂していく状況はそれを想起させる。そして論争のレベルは、今の創価学会の方がかなり低いと思っている。
もちろん僕がそうした会員さんに云々言うつもりは無いが、彼らの「執行部が全部悪い」という見方はかなり偏っているし安直であると思う。はっきり言うならば、「『会則変更反対』『公明党はおかしい』などと主張したいなら、池田先生も批判する覚悟でやらなければならない」ということだ。
会則変更についてよく出される池田名誉会長の言葉は、平成5年11月7日の最高教義会でのものだ。
一閻浮提総与の大御本尊が、信仰の根本であることは、少しも変わりはない。
これが引用しながら、「執行部が池田先生の指導に反している」というロジックを展開している人をよく見るのだが、一考すべきは90年代はじめ~半ばしか、池田名誉会長が大御本尊に言及していないことではないか。本当に大御本尊が信仰の根本であるならば、継続的にそれについて言及するのが自然だろう。現に以前に記事にしたが、僕のような平成生まれの学会員は、「本門戒壇の大御本尊」について殆ど知らない。
ゆとり世代学会員の本音①:「本門戒壇の大御本尊なんて知らない」 - 学会3世の憂うつ
また、(以前調べた記憶に依拠しているのであやふやだが)少なくとも2000年代初頭には教学試験でも、大御本尊に関する問題は出題されていない。「大御本尊離れ」は、池田名誉会長が表舞台に頻繁に登場していた時代から進んでいた。こうした状況を鑑みても、「池田先生に反して会則変更をした学会本部」という認識を基に執行部批判を行うのは、安直すぎる。
公明党の安保法制を巡る対応にしても、「池田先生の平和思想を忘れた学会本部/公明党」という認識は偏っていると思う。安保法制以前にも、イラクの自衛隊派遣もあれば、有事法案もあった。池田名誉会長が会合などへの出席をやめたことと、公明党の対応を安直に結びつけ、「公明党が師匠の思想を忘れ、狂ってしまった」と断ずるのは、かなり愚かであると思う。そして政治への進出を積極的に推し進めたのは、池田名誉会長であることは、よく認識すべきである。
要約すると「執行部絶対悪」説は、「大御本尊」や「公明党」を巡るジレンマの解決策になりえない。その射程は、池田名誉会長にまで届く。それらを主張するならば、池田名誉会長の「大御本尊」を巡るスタンスの変化を丹念に辿ったり、池田名誉会長が推進した政治運動の批判的な総括が必要になる。安易な「池田名誉会長=絶対正しい」「池田名誉会長に反する執行部/公明党=絶対悪」という単純な世界観では、自己満足的な回答しかできないと思う。
なんだか本部擁護のような文章になってしまったが、僕のスタンスは「これからみんな大変なんだから、そんな敵認定ばかりしていないで、いろんな意見が出てもしっかり話し合って仲良くしていきましょう」。これに尽きる。
衆院選述懐 ~公明党について考えることをやめるということ~
今更ながら、衆院選について振り返ってみたい。
希望の党が躍進し、政権奪還、少なくとも安倍晋三総理の責任問題が浮上する程度の議席は確保するだろうと思われたのも束の間。あっという間に失速し、終わってみれば自公共に公示前とほぼ変わらない議席を確保した。立憲民主党の伸長という結果はあったものの、それは”躍進”というより、事実上の解党前の民進党へのだだ下がりだった期待値を上回ったという程度の意味しか無い。
そもそも僕の問題意識は、「自民か、共産か」という二択しかない政治状況にある。自民党が強いのは仕方が無いにしても、自民党に入れたくない人が投票するオルタナティブが、共産党とそれと協力した立憲民主党しか無いことは、大問題ではないか。希望の党は、戦後日本的な意味での”リベラル”とは一線を画した保守路線を打ち出そうとしたが、小池氏のカリスマ性に大きく依存した組織体制と、現実味の無い政策一覧は、とても自民党に代わる与党候補としての立場を任せられるものではなかった。
ところで、今回の選挙では、東浩紀氏の『積極的棄権』の呼びかけが注目を集めた。「投票先が無い」「政局ばかりを気にした政治家のお祭りに付き合っていられない」という声を、署名活動によって可視化しようとするものだ。結果的にこの活動は、5,000名の署名を集めたらしい。
しかし管見の限りでは(つまりTogetterでまとめられたツイートを見た限りでは)、反・自民党的立場に立つ人による東氏に対する批判的な意見が多かった。「安倍政権を助けることになる」「結局白紙委任を与えるに過ぎない」「民主主義の冒涜だ」など。僕も同氏の活動に全面的に賛同するわけではないし(もちろん署名していない)、開始当初はやや扇情的な呼びかけ方をしていたため、「『今回の選挙はくだらない』という声の可視化」ではなく、「ボイコットの呼びかけ」と多くの人に捉えられたのもやむ無しかと思う。また、「今の日本では、反・安倍と唱えることこそ最優先されるべきだ」と言われれば、なるほどそうなのかもしれない。
だが先にも書いたとおり、僕の問題意識は「自民か、共産か」という二択しかない政治状況だ。この状況へのアンチテーゼが、極右志向のポピュリズムしかないという選挙を「異常だ」と考え、批判的視点に立つことは、もう少し歓迎されてもいいのではないかと思う。
東氏は、選挙後に「AERA」にて下記のように記述している。
世界どこでも、極端な主張が勝利し中道は消える傾向にある。近代民主主義が生まれたときにはネットもポピュリズムも存在しなかった。民主主義はいま、新しいメディアとの接触で、中道を排除する「お祭り」の装置へ急速に変質しつつあるのだ。ぼくたちは、一歩立ち止まり、この状況そのものへ反省を向ける必要がある。
東浩紀「今回の選挙でぼくが『積極的棄権』を提唱した理由」 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)
「中道」―この記事を読んでいる人は創価学会員が多いだろうけれども、学会員ならば「中道」と聞いて「公明党」を想起するのではないか。そしてこれまでの「自民か、共産か、極右志向のポピュリズムか」という僕の現状認識を聞いて、「公明党があるじゃないか」と思う人もいると思う。だが僕は、公明党を巡る見解についても、「中道」的な意見を持ちづらくなっている現状に、嫌気が差している。
公明党を巡る創価学会員の見解の全体像を、雑にスケッチしてみると、ほとんどが以下の2つに分類される。
①公明党こそが混迷する日本政治を救う政党だ
①は公明党の立党以来ずっと会員に共有されてきた信念だと思うが、②はここ数年(特に2015年の安保法制通過以降)よく見られるようになったものだ。池田名誉会長が公の会合に出席しなくなり、かつ「安保法制」や「共謀罪」といった創価学会の歴史や池田名誉会長の過去の発言に矛盾するように見える法案に公明党が加担したことによって、「創価学会の精神と池田名誉会長のご指導に反する公明党」という認識が可能になり、さらには「名誉会長に離反した創価学会本部/最高幹部」という言説も多く生まれるようになった。
①の意見を持つ人と、②の意見を持つ人の対立を、僕はいやと言うほど見てきたけれど、これは極端な選択しかない日本の政治状況と類比的に捉えられると思う。一方には「安倍政権を礼賛する人たち」「公明党を熱烈に支援する人たち」がおり、他方には、「反・安倍のワンフレーズを唱え続ける人たち」「公明党を絶対悪として非難する人たち」がいる。要するに、「中道」がない。日本の政治全体の話をしていても、公明党支援の話をしていても、極端な意見しか出てこない。「安倍政権を支持するか、しないか」「公明党を支援するか、しないか」という二者択一を迫られて、それ以外の意見を言うことがとても難しいのだ。
僕は公明党について、「混迷する日本政治を救う政党」とも思わないし、「権力の魔性に食い破られた絶対悪」とも思わない。どちらも現状を反映してない。どちらも、自らの宗教的信念ありきで現実の都合のいい事実をピックアップして、独自の閉鎖的な世界観を作り上げているように見えるのだ。
僕は、公明党は「いい仕事をしている」と率直に思う。優秀で人格的に優れた人も多い。しかし、公明党が日本の政治状況を大きく変える救世主になるかと言えば、大きな疑問符がつく。新宗教を支持母体に持っているが故に、大多数の国民にとっては「自分たちの代表」と認識されるのが難しい、しかも比例の得票数も頭打ちの政党は、政権与党の一角を占めるのが限界で、日本の政治を大きく動かすのは無理だと思う。また僕は、「言論出版妨害事件」によって、公明党は当初の理念と単独与党化という目標を失ったと考えている(「その公明党を勝たせるために戦うのだ!」という声には、そもそも現状認識が僕とずれていると思うので、特に反論は無い)。また、上述の②の意見を持つ人たちは、公明党に共産党のようなスタンス(「戦争法案反対!」「共謀罪は現代の治安維持法!」)をとって欲しいように見える。だが、現在の政治状況で、その路線をとることが創価学会と池田名誉会長の精神の遵守と言えるのか、僕には甚だ疑問だ。共産党は2つも要らない。
だったら僕なりの中道とは、何か。それは公明党以外について考えることだ。そもそも僕も含めた創価学会員は、「公明党が正しい/間違っている」と結論するために思考のリソースを使いすぎている。しかし、宗教団体を支持母体に持つ700万程度の票しかない政党を日本の中心のように考え、そればかりに思考と活動時間を費やすのが、本当に日本政治のためになっているのだろうか?僕はそこに公共性はほとんど無いと思う。これは決して、公明党に投票しないことを意味しているのではない。「公明党議員を完全に信頼する」といったお任せ的な思考停止や、「公明党は池田先生に反している」という政治神学に留まることをやめて、「自民党に対抗しうる野党第一党をどうするか」「リベラル的発想をいかに日本政治に残すか」といったより公共性のある問いについて考えることだ。公明党以外にも、考えるべき問いはたくさんある。そして、今の公明党を巡る学会内の議論について、そもそもの疑問を投げかけること―それが不毛ではない道であると思う。
国家神道を「教育」と「宗教」から考える:池田名誉会長は「国家神道」の何に反対したのか②
(本記事は「国家神道」について考察している連載記事の第2回に当たります。第1回は以下。)
sanseimelanchory.hatenablog.com
前回の記事において、国家神道についての定義づけを試み、それを日本中心主義的な教義面と神社神道の組織化という制度面から考察しました。
今回の記事において考察するのは、「国民への教化」という側面です。これは『国家神道と日本人』で島薗進が強調していることですが、宗教・思想の歴史を考察する際には、観念や実践がどのような方法で流布したのか、また、人々がそれをどう受け止めたのかという観点からの研究が非常に大切です。
国民への教化として、「教育」「マスコミ」「儀礼」など、様々なアプローチが可能ですが、ここでは「教育」を取り上げたいと思います。そして、それらの国策を「上からのナショナリズム」とするならば、「下からのナショナリズム」と呼べるような宗教界の動きも取り上げてみます。大本と日蓮主義、天理の3つです。
「教育」と「宗教界」の2つを取り上げる理由は、それが戦後の創価学会を考察する上で非常に重要だと考えるからです。現在『人間革命』の初版・第2版を読み比べる連載をしています
が、戸田会長並びに池田名誉会長の運動は「戦前日本へのアンチテーゼ」という側面が非常に強い事がわかります。その池田名誉会長が「戦前日本へのアンチテーゼ」として推進した事業として、布教活動はもちろんのこと、創価教育の学舎の創立が挙げられます。
この戦前日本の国家神道における「教育」と「宗教界」の動きを見ることにより、戦後の創価学会の活動を評価する新たな視座が得られるのではないかと期待しています。
教育から考える国家神道:「学校行事」と「修身」
明治政府は当初、宗教団体(神社)を通じた国体論の国民への浸透を目指していましたが、途中から学校教育を通じた教化を目指すようになります。ここでは、「学校行事」と「修身」教育について考えてみます。
天皇崇敬の学校行事の整備は1880年代から推進されていき、1891年には「小学校に於ける祝日大祭日の儀式に関する規定」が発布されます。これを読んでみると、紀元節や元始祭といった皇祖皇宗を祝う祭日には、全国の学校で儀式を行うべきだと書かれている。その儀式とは、天皇皇后両陛下の御影に敬礼して万歳し、校長が「教育勅語」に沿った教えを垂れて祝祭日の意義を説明する。最後に君が代を斉唱するとあります。
この統一された儀式の形態が全国に広まったのです。
閑話休題。
私には大正生まれの祖父がおり、最近かなり記憶力が怪しくなってきていますが、「教育勅語」は完全に暗記しています。もはや肉体に染み込んでいるのかと、ぞっとしたことがあります。
「君が代」にも思い出があります。私は、8月15日に靖国神社に「見学」に行ったことがあります(「参拝」ではありません)。そこに来られていたいわゆる「右翼」とされる人たちの斉唱する「君が代」を聞きましたが、あんな凄まじい唱歌は聞いたことがありません。恐ろしささえ感じてしまいました。しばらくの間、日の丸を見ると、あの時のことを思い出して少々ぞっとします。多分私は、右にはなれないのだと思います。
さて、続いて「修身」教育ですが、これは「道徳」のようなものでしょう。
この「修身」を語る上で欠かせないのが、靖国神社の存在です。元来国家神道は、その起源たる記紀神話が天皇支配を正当化するイデオロギー的な色彩が強かったことからもわかるとおり、「死」といった宗教的課題に関する思想には深みがありません。平田篤胤は「神道における死後観」を展開していますが、明治政府のイデオロギー生成に多大な役割を果たした津和野藩の大国隆正などは、君臣関係を強調するような倫理的リゴリズムを唱導しています。
この「国家神道」の弱点を補う存在ーそれが靖国神社です。他の神社が皇室祭祀を中心とした祭礼を扱うのに対し、靖国神社の守備範囲は、「若くして死んだ兵士の慰霊」です。これは神話などとは次元を異にする、人間を強く捉えて離さない魔力を持っています。現在、「『人間革命』の時代を読む」と題して、戦後日本の思想を学んでいますが、最重要キーワードの1つが「死者の記憶」でした。
つまり「死」という究極の宗教的課題に対する答えを、国家神道が「公」の領域を超えて日本人に与えた、それが「御国のために死ぬ」という大義だったということが出来ます。
靖国に関しては、また終戦記念日が来る前に、大きく取り上げたいと考えています。
当時の修身の教科書に引かれている一節を引用しておきます。
今までに日本は度々よその国と戦争をしましたが、その度毎に敵と一生懸命戦って、天皇陛下に忠義をつくし、お国のためになくなった方が沢山あります。この陸海空軍の兵隊さんを神様におまつりしたお社なのです。(中略)お国のためになくなった方々をおまつりするのですから、私達も是非おまゐりしなければいけませんね。
この言葉に表れているように、靖国神社への参拝は重要な学校行事の1つにも位置付けられていました。
君のためくにのためにつくした人々をかやうに社にまつり、又ていねいなお祭をするのは天皇陛下のおぼしめしによるのでございます。わたくしどもは陛下の御恵みの深いことを思ひ
ここにまつつてある人々にならつて、君のため国のためにつくさなければなりません。
「靖国神社」は「修身教育」の中核に位置付けられ、「国のために死んだ」人を神聖化し、英霊のように「国のため君のために死ぬこと」に最大の宗教的・倫理的価値を与えたのです。
「下からのナショナリズム」ー大本、天理、国柱会
今年、中島岳志と島薗進が対談集を発刊しました。その内容は、戦後から現代に至るまでの歴史と、明治維新から終戦までの歴史を重ね合わせ、その類似性を強調するものでした。その議論の説得性については私はなんとも言い難いのですが、参考になる点は大いにありました。その本の中で強調されていたのが「下からのナショナリズム」でした。
これまで見てきた国家神道の教義や制度、教育などの問題はすべて国家によって実行されたもの、つまり「上からのナショナリズム」でした。それに対し、宗教的ナショナリズムの発露として巻き起こる国民運動が、島薗・中島のいう「下からのナショナリズム」です。
その代表例として、3つの新宗教運動、大本・天理・日蓮主義を見てみます。
●大本教
大本教は、出口なおという女教祖の神がかりから始まった教団ですが、大きく発展するのは神職資格を持つ出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)の加入後です。王仁三郎の加入後、大本は教団名を「皇道大本」に改めます。「皇道」とはこれも難しい概念ですが、前回記事を取り上げた「日本型政教分離」を象徴するような語であります。
つまり、「皇道」とは万人が従うべき普遍的な「道」である。そしてそれと同時に、仏教・儒教・キリスト教などあらゆる教えを包摂する「寛容性」も強調されます。私には、この寛容性は、万人に服従を要求する「厳格性」を美化しただけに思われます。
このように神道に限りなく接近し発展した大本教でしたが、その神話解釈が天皇否定につながるとみなされ、昭和になって大弾圧を被ることになります。
●天理教
天理教もまた、農家の主婦だった中山みきの神がかりから誕生した教団です。私は神がかりがあまり好きではないですが、天理の初期思想には着目すべき点があると考えています。中山は、「こふき」という文書に集約される創造神話を説きますが、記紀神話と大きく異なっていることがあります。それは、「人類の誕生」を展開し、平等な世界を説いたことです。記紀神話は天皇支配を正当化する目的に編纂された側面が強いので、その創造神話の主役は、神々とそれに連なる天皇だけです。民衆は、「国土」の付属物の草のように描かれている。それに対して天理の神話は、人類をみな同じ親神から生まれた兄弟であるとする神話を説きます。このような、国家の中からは生まれない、民衆の論理に基づいた思想を展開することこそ、宗教の役割であると私は考えています。
しかしこの天理は、行政やマスコミ、宗教界から大批判を浴び、これはたまらないと政府に擦り寄ります。日露戦争に際しては多大な寄付を行い、その根本教義も国家神道的なものに変更しました。
このように国家とは異なる原理を持つ宗教も、天皇国家の枠内にはめられ、国家神道のイデオロギー浸透の役割を与えられていきます。
●日蓮主義
そして、国柱会などに代表される日蓮主義です。戦後の日蓮研究を見ていると、戦前の国家主義的日蓮解釈に反論するという側面が大きいことに気づかされます。
日蓮主義者の代表格は、国柱会を組織した田中智学でしょう。彼の『世界統一の天業』などを見ると、日本の国体と日蓮の目指すものの一体性が主張され、日蓮仏法に帰依した天皇と日本国を中心に世界統一をするという、恐ろしい思想が説かれています。石原莞爾や宮沢賢治が彼に影響を受けていたことは有名ですし、牧口常三郎も国柱会に出入りした時期があったようです。2・26事件に連座した北一輝も日蓮主義者でした。
創価学会がこの日蓮主義をどのように評価しているのか、私は上手く答えられません。しかし、「あれは日蓮大聖人を利用しただけだ」「日蓮仏法をわかっていない」などの評価は短絡的であると思います。オウム事件の際に、様々な教団が「あれは宗教ではない」と非難しましたが、そのような総括はよくない。そこに宗教が共通して持つ危険性を見出すべきだと思っています。
私の考えでは、宗教とは世界の外部の「他者」に出会わせてくれるものです。宗教を信じる人間は、現世的な世界内部のものから逸脱して、神や仏、普遍的法といった「他者」と出会うことになります。そしてその「他者」との出会いの結果得られた観念を、現世にフィードバックするのです。
このフィードバックが上手くいけば、利己主義ではなく利他主義を、拝金主義ではなく倫理主義を、国家主義ではなく人間主義を、といった社会的に有用な思想・行動を生み出すことができるかもしれません。しかしそれが失敗すると、地下鉄サリン事件や日蓮主義といった凄惨な結果を生み出しかねません。「創価学会は別だよ」と言って自教団は例外にしたいと考えたくなりますが、それは誤魔化し以外の何物でもないと私は考えています。
(続く)
【参考文献】
池田名誉会長は国家神道の何に反対したのか①:「国家神道」の定義を考える
「池田名誉会長は国家神道の何に反対しているのか?」
終戦を間近に迎えた今日この頃、上述の問いについて考察したいと考えています。17歳の時に終戦を迎えた池田名誉会長は、その青春を戦争によって大きく狂わされたと言えます。折に触れて、国家神道に対して否定的な主張をされており、『人間革命』初版をみると、異常なまでの怒りが描かれている事に驚きます。
しかし、池田名誉会長は国家神道の何に反対したのでしょうか?それを全面的に否定したならば、池田名誉会長は、天皇制や神社も無くなるべきと考えたのでしょうか?
創価学会の活動をしていると、他宗教を盛んに批判する方に出会いますが、私は他宗批判はかなり慎重に行わなければならないと考えています。
例えば、「神道は戦争を招いたから、邪教だ!」などと軽々しく口にすると、「お前らだって日蓮主義を生んだだろう!」とブーメランが返ってきます。
他の宗教を批判する際には、その宗教を徹底否定するというような安易なものではなく、
「何を批判するのか」という論点を明確にし、その上で議論すべきだと私は思っています。
国家神道も同じです。左翼などは、それを「絶対悪」だと認識して攻撃しますが、それが往々にして「国家神道が何であるか」という認識を怠った知的怠慢の結果である事が多いように思います。これは学会にも言えることであり、真言宗でも、念仏でも、日蓮宗でも、日蓮正宗でも、批判する時にはそれをしっかり認識すべきです。つまり、学会内の教義から見た(偏狭な)理解ではなく、その宗派に立った人物の著作や学術書を読んで理解を深めて、論点を明らかにしてから批判すべきだと私は思っています。
そこで、「池田名誉会長は国家神道の何に反対したのか?」という点を考えるにあたり、国家神道とは何なのかという問題を考えたいと思います。
国家神道の構成要素
「国家神道」という定義は難しく、学者の間でもかなりの議論になっているようです。
村上重良は、名著『国家神道』において、その構成要素を以下の3つに分けています。
①神社神道とは、キリスト教でいうところの「教会」、つまり神社という宗教団体だと理解していいと思います。その民間の教団である神社が皇室祭祀を中核とする②「皇室神道」に結び付けられ、国家主導の祭祀に組み込まれたと、村上は述べています。
「国体」とはこれも難しい言葉ですが、「神々の系譜を受け継ぐ天皇が統治してきた日本は、特別な国家だ」という観念です。皇室祭祀は、天孫降臨や神武天皇の即位を祝するなど、「万世一系」の歴代天皇の特別性に基づいた祭祀です。日本の国家の優越性を強調する根拠が、「万世一系」の天皇であり、皇室神道と国体の教義が深く結びついている事がわかります。そして、その皇室祭祀を全国的に行う組織が神社なのです。
これに対し、神道学者の葦津珍彦は、「本来神社神道は素晴らしい存在なんだ。国家神道は、悪巧みを持った国家によって利用された特別な一形態に過ぎないんだ」としています(私のかなりの意訳なので、原書を読んでいただきたいです)。つまり、「神社が国家と結託して戦争を巻き起こした」「神道は戦争を誘発しかねない危険な宗教だ」という主張に対する反論なのです。これは神道学者ならではの回答だとは思いますが、私も一信仰者としてこの意見をある程度擁護したいと考えています。
また、宗教学者の島薗進は、葦津のような「国家神道=神社神道の一形態」と見なすような意見を偏狭だとしています。つまりそれは、神社神道という祭祀組織という一観点から見た国家神道に過ぎず、皇室祭祀や国体論、国民への教化などの別の側面を捨象したものだというのです。島薗は、「戦後も残る国家神道」ということを強く意識しているので、このような主張をしているのだと思います。末木文美士もまた、同じような見方をしています。
島薗は、上述の村上説にも一定の評価を示しますが、②皇室神道と③国体論の結びつきの弱さを指摘しています。そして、天皇崇拝や国体論の観念がどのように国民に広がったのかという点を考察し、「教育勅語」やメディア、祝祭日のシステムなどを考察しています。
国家神道の定義と考察すべき諸側面
上述の諸先生方の著作を読み、私は国家神道を以下のように定義したいと思っています(ご指摘いただいて、成る程と思ったら随時修正)。
定義:戦前の日本が国家として主導した神道の一形態。記紀神話に基づいた皇祖皇宗の権威を根拠に、日本国の特別性を強調する。それを制度化するために、皇室祭祀を整備・強化し、皇室祭祀という国家的祭祀を行う機関として神社神道を全国組織化。さらに、それを国民に教化するために、さらに教育・メディア・祝祭日などの諸政策を実行した。
分解すると、以下のようになります。
(教義)万世一系の天皇の神聖性を根拠に、日本の優越性を強調。
(制度)皇室祭祀・伊勢神宮を頂点に全国の神社を組織化。
(政策)教育・メディア・祝祭日などを通じた教化政策の実行。
(目的)国民への天皇崇拝・国体論の教化、浸透
それぞれ、詳細を検討していきましょう。
教義:国家公認の神話と皇室祭祀
国家神道の中核をなすのは、日本中心主義に結びついた「アマテラス=天皇」の系譜を強調する神話です。その神話については、覚書程度ですが、拙の別ブログでまとめています。
要するに、神々の系譜を継ぐアマテラスの孫であるニニギが天上から地上に降臨し(天孫降臨)、ニニギのひ孫が始祖である天武天皇となり、今上天皇までその皇統が継がれているというものです。その皇祖皇宗が統治する国は、日本しかなく、ゆえに日本は特別な国であるという日本中心主義が成立します。
この天皇を中心とした特別な国のあり方の観念を「国体」と呼びます。
そもそも古代から中世の思想を見ていると、日本の神々を仏の仮の姿だとする本地垂迹説や、日本を「辺土」として相対化するような思想が目立つのですが、いつの間にか日本が世界の中心になっています。その系譜も、簡単に下記記事にてまとめています。
この国家神道における神話を考える際に欠かせないのが「祭政一致」と「政教分離」の問題です。即ち、どのようにして仏教や儒教、キリスト教といった宗教と、この国家公認の神話が共存していたのかという問いです。これは、国家と教団の関係という「制度」的な問題と、国民の「内面」の問題に大別されます。それについては、追ってみていきましょう。
制度①:皇室祭祀と全国の神社の組織化
続いて、上述の神話に基づいた日本中心主義的な国家神道が、どのように組織に受肉したのかという「制度」面を見ていきます。
その完成系は、皇室祭祀と神社の祭祀を結び付け、アマテラスを祀った伊勢神宮を頂点に全国の神社を組織化したものです。
まず皇室祭祀の拡充が挙げられます。天皇陛下の生前退位をめぐり、その皇室祭祀の多さが注目を浴びましたが、それらの大多数は明治維新の後に整備・拡充されたものです。例えば、明治維新とともに新しく始められた「元始祭」は天孫降臨を祝うものですし、「紀元節祭」も神武天皇の即位を記念するものです。これらは、天地開闢からアマテラス、ニニギ、神武天皇、歴代天皇という系譜を強調するために創設されたのです。
そしてこの皇室祭祀と一致した祭礼を行う国家の機関として、全国の神社が組織化されていったのです。明治以前の神社は、それぞれの伝統や地域事情を反映した様々な儀礼を行っていましたが、皇室祭祀が神社祭祀の中核を占めるようになっていきます。1907年には内務省によって「神社祭式行事作法」が告示され、全国の神社の祭礼の方式まで規定され、アマテラスを祀る伊勢神宮を頂点にした「神社神道」という全国組織が出来上がったのです。
これは、神社が民間教団としての「宗教」ではなく、国家祭祀を行う「非宗教・国家機関」になったと解釈できます。
制度②:「日本型政教分離」という特殊形態
ここで問題になるのは、仏教や儒教、キリスト教などの他宗教との関係です。
これは、「国家神道」は国家統治のための祭礼や日本人としての道徳に当たるものであり、「宗教」ではないという奇妙な位置づけがされていました。
「宗教」という言葉は定義が難しいですが、政教分離などの制度的な問題を語る際には、「教会や教派などの自発的信仰者から成る宗教組織」と定義される事が多いです。この定義に従うならば、「国家神道」とは国民すべてが関与すべき「祭祀」や「道徳」という「公(パブリック)」な領域に属するものであり、個人の内面に関与する「宗教」という「私(プライベート)」なものとは、カテゴリーが違うものであるとするのです。このような奇妙な棲みわけによって、「祭政一致」と「政教分離」は両立することとなります。
とはいえ、このような特殊な「日本型政教分離」が確立するまでに、政府は紆余曲折を経なければなりませんでした。
維新後の明治政府は、キリシタン禁制といった宗教弾圧や全国民を神社に登録させようという「氏子調制度(うじこしらべせいど)」などのかなりラディカルな対策をしています。
しかしこれはさすがに激しい抵抗を呼び、1872年には「教部省(きょうぶしょう)」の設置というやや軟化した方策をとります。これは、神道以外の宗教勢力も認めるという比較的穏健なものでしたが、それは「大教」の流布という国家の意向に沿う教団のみを認定するというものでした。「大教」とは、「敬神愛国」や「皇上奉戴」など、要するに祭政一致的な国策に協力する教団だけは活動していいよ、というかなり乱暴なものです。
これも反発を招き、1880年代には、宗教団体はある程度の自由な活動を認められるようになりました。
そして1900年には、「日本型政教分離」が行政制度上確立します。つまり、神社神道を統括する「神社局」とその他宗教団体が属する「宗教局」という、二元的な体制ができたのです。「神道は宗教に非ず」ーこの事が法的に確立した画期であると見る事ができます。
(以下の記事に続きます)
sanseimelanchory.hatenablog.com
【参考文献】
神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈 (岩波新書 黄版 103)
- 作者: 安丸良夫
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1979/11/20
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日蓮の本尊義の鳥瞰図(日蓮遺文を「再読」する番外編)
日蓮思想をめぐる議論は様々あるが、その第一は本尊論である。
これは創価学会員にとっても非常に重要である。なぜなら、今日学会が「謗法教団」として攻撃する日蓮正宗との論戦において、本尊義は一大論点となっているからである。
1991年に創価学会が分離独立して以降、自前で本尊を会員に下附することになった後や、2014年に学会が会則を変更し、「本門戒壇の大御本尊」を授時の対象から外した後には、日蓮正宗ならびに顕正会からの批判が殺到した。
「本門戒壇の大御本尊」を一大秘法とする説を主張しているのは、日蓮正宗ほか一部の教団だけであり、それを受時の対象から外したからといって、日蓮系の教団としては何の問題もない。しかし創価学会はこれまで、「本門戒壇の大御本尊」を自分たちの正統性の根拠として、他教団を激烈に攻撃してきた。「日蓮正宗の教義に依存していたからやむをえなかった、学会は本来寛容な団体だ」と路線転換したように見えるが、果たして「やむをえなかった」という姿勢であれ程過激な姿勢をとる事ができるのか、私には疑問である。また、一大秘法思想を信仰させてきた会員にも動揺が走った。日蓮遺文に基づいた教義論争よりも(日蓮遺文から一大秘法説を証明するのも完全否定するのも困難)、このような「自語相違」への批判の方が多勢を占めているように思われる。
私は2014年の会則変更に賛成しているが、学会本部の「全ては日蓮正宗のせい」というような姿勢には疑問を感じている。「本門戒壇の大御本尊」を授時の対象から外したのは、大石寺教学から脱却して自分たちの教義的正統性を証明するため、布教活動の円滑化のため(よく言えば世界広布推進のため)などだと思われる。しかし、そういった教団にとっての都合を、全て「日蓮正宗が大謗法の教団と化したから」だとするメンタリティは理解しかねる。そもそも、日蓮正宗との分離独立騒動の際にも、「日顕という極悪法主が出て血脈が途切れた」という説明が会員になされた。このような「絶対悪」を作ってそれを攻撃し、自分たちの変節を正当化する手法は、どうしても好きになれない。
客観性を擲って、「創価学会の事は嫌いになっても、池田先生の事は嫌いにならないでください」系の学会員を自称する私の感情を晒すならば、全ての責任を池田名誉会長に押し付けてきた歴史を反省すべきだと思うのである。
「過去を反省できない」ーこれは、創価学会、そして公明党にも共通した悪い体質だと私は認識している(これについてはまた別記事にて仔細に考察する)。
話が逸れてしまったが、「本門戒壇の大御本尊」を巡る議論は、日蓮の本尊義の中でもかなり狭い、特殊な議論である。日蓮宗を見ればわかるように、そもそも釈尊仏像を本尊とするか、曼荼羅を本尊とするかで、何百年も争われている。
そこで、日蓮の本尊義を巡る議論を概観し、その鳥瞰図を知ることが必要であると考える。今日の学会は日蓮正宗との神学論争ばかりしているが、せっかく分離独立したのだから、もっと日蓮思想を巡る様々な議論を見るべきだと私は思っている。学会本部の教学部のエリートたちは、既にかなり高度な研究をしていると友人からは聞いている。広く日蓮の教義に関する諸説を学ぶことは、今後どんな教義が本部によって打ち出されても動揺しない準備にもなるだろう
そこでここでは、人本尊と法本尊を巡る様々な議論を、いくつかの著作・論文を見ながら考察してみたい。ちなみに私は、日蓮はその思想遍歴において人本尊と法本尊の間を揺れ動いたが、晩年には法本尊優位に行き着いたのだと解釈している。
本尊論の全体
先述の通り日蓮の本尊論は、その本質が「人本尊」か「法本尊」かというだけで、議論がゴマンとある。さらにその本質が物質化した形態も、様々である。
「人本尊」とは仏や菩薩などの人格的なものを本尊とするが、「法本尊」は法を本尊とするものである。
鈴木一成は、その本質と形態を以下のように分類している。
①人本尊
釈迦一尊(A)➡︎久遠実成の釈尊。
一尊四士(B)➡︎久遠本仏を中心に、地涌の四菩薩を加える。
二尊四士(C)➡︎一尊四士に多宝如来を追加。
②法本尊
首題本尊(A)➡︎中央に南無妙法蓮華経の七字を書かれた本尊。
曼荼羅(B)➡︎十界勧請の大曼荼羅。
一塔二尊四士(C)➡︎題目宝塔を中心に、二尊四士が並列。
私のような創価学会員にとって馴染み深いのは、曼荼羅(②ーB)だけである。これは、仏界から地獄界までの十界の代表が配されていることから、「十界勧請」の形式をとっていると言われる。それは妙法蓮華経の塔中の左右を釈迦と多宝の二仏が座を占め、さらに地涌の菩薩のリーダーである四菩薩が脇を固める。文殊・弥勒なども眷属として位置し、万民や十方の諸仏も大地の上に座する。
首題本尊(②ーA)は、創価学会員の私には見慣れないものであるが、中央に南無妙法蓮華経の七字を書かれた、「略式本尊(そう考えるとわかりやすいので私はそう呼んでいる)」である。どうやら初期日蓮が図顕して門下に与えていたようであり、曼荼羅に慣れた私からするとかなり物足りなく感じる(ネットで検索すると出てくる)。どうやら日蓮の曼荼羅は、年を追うごとに発展していき、その形態も様々なようである。これについては詳細は別記事で考察したいが、私は「観心本尊抄」以降の曼荼羅が「本門の本尊」であると信じている。
釈迦一尊(①ーA)とは、文字通り釈尊の仏像を本尊とするものである。一尊四士(①ーB)とは、釈尊が「本門寿量品の釈尊」であるとし、それを小乗や大乗仏教の釈尊の仏像と差別化するために、地涌の菩薩のリーダーである四菩薩(上行菩薩など)を脇に置くものである。二尊四士(①ーC)とは、一尊四士に多宝如来を加えたものである。
一塔二尊四士(②ーC)は、南無妙法蓮華経と書かれた宝塔を中心に二尊四士が脇を固める。二尊四士と似ているが、あくまで題目という法が本尊である。
日蓮遺文における本尊義
問題は、日蓮がその著作の中で本尊についてどのように語っているかであるが、これは非常に解釈が難しい。法本尊優位とも、人本尊優位ともとれる表現が混在しているからである。どうやら日蓮宗ではこの人法勝劣をめぐり、何百年も議論をしているようである。
学会3世である私は、「身延は本尊で迷走している」と教えられてきたが、日蓮遺文を読むと、なる程、確かに「迷走」する理由もわかる。これは非常に解釈が難しい。望月歓厚などは、「日蓮遺文から一義的な本尊の形態を結論することは不可能」というような論文を書いているが、それを言ったらお終いだろう思う。
また、学会が教義面において長年依存してきた(し続けている)日蓮正宗でも、曼荼羅だけでなく日蓮御影も本尊とされているようである(『富士宗学要集』より)。
伝統仏教団体の教義から自由な在家集団の一会員である私にできるのは、日蓮遺文を虚心坦懐に読むことである。
長くなってしまったので、次回の記事で日蓮遺文を年代順に読んでいきたい。
(続く)