学会3世の憂うつ

学会3世として生まれた僕は、創価学園・創価大学を卒業した。 しかし結局、バリ活にもアンチにもなれなかった。懐疑的性格という自らの原罪を呪いながら、それでも信仰を志向して生きる煮え切らない日々を過ごしている。

個人主義者かつ愛国者であること:丸山眞男の思想を読む

『人間革命』の舞台となっている時代状況を学ぶために、戦後思想を学んでいる本連載。
今回は、丸山眞男という、「戦後知識人」の代表とされる人物を取り上げます。

本連載は、「『人間革命』の時代を読む」という連載の第1回です。連載目次は、下記をご覧くださいませ。

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丸山眞男は「近代」批判論者だった

私の丸山眞男のイメージといえば、「国民」や「ナショナリズム」といったヨーロッパの近代思想を再評価した人物というものでした。確か大学に入ったばかりの頃に丸山を読みましたが、特に感銘を覚えませんでした。「丸山も所詮日本人、ルソーやカントを読んだ方がいいな」と思ったのを覚えています。

しかし、丸山は戦前、「近代」に対して否定的だったのです。22歳の丸山が1936年に書いた論文「政治学に於ける国会の概念」には、以下のような記述があります。

我々の求めるものは個人か国家かのentweder−oderの上に立つ個人主義的国家観でもなければ、個人が等族の中に埋没してしまう中性的団体主義でもなく、況や両者の奇怪な折衷たるファシズム国家観ではありえない。

この「個人主義的国家観」を理解するために、ヘーゲルマルクスの「近代」批判を見ておきます。
ヘーゲルは、人々が村落やギルドに埋没する(丸山が言うところの)「中性的団体主義」は、歴史の進展により近代社会に進むと主張しました。この近代社会では、「国家」は個人を抑圧するものであると見做されます。それに対し「個人」の生きる社会では、国家の干渉を拒否する「自由主義」的な思想が生まれる。丸山が言う「個人主義的国家観」とは、このような個人と国家が対立するものです。
しかし、このような近代市民社会では、個人はアトム化して相互の闘争がやみません。そこでヘーゲルは、このような闘争状態が、「国家」という高次の次元に止揚されると考えます。様々異論あるでしょうが、私はこれはファシズム的だと思っています。
マルクスも、このヘーゲル歴史観を受け継いでいますが、彼は近代市民社会を「ブルジョアが支配する資本主義社会」と認識し、それが克服される社会像として「国家」の代わりに「共産主義社会」を想定しました。

丸山の近代批判も、こうした潮流に乗ったものでした。また彼がマルクス主義に惹かれていたことは、有名な話です。

しかし、この「近代」批判は、「近代」再評価へと転換される事になります。
それは、太平洋戦争がきっかけでした。

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個人主義者たる事に於いてまさに国家主義者」

丸山は1943年に、「福沢に於ける秩序と人間」という論文を書いています。これは、福沢諭吉を読みながら、「国民主義」の思想を表現したものです。

「一身独立して一国独立す」とは、有名な福沢の言葉です。丸山はこの言葉に、主体的な責任意識を持って能動的に国家の政治に参加する「国民」の姿を見出しているのです。
即ちそれは、私的利益ばかりを追求するのでもなければ、権威に受動的に盲従するのでもない。「個人主義者たる事に於いてまさに国家主義」である国民なのです。

さらに1944年に丸山は、「遺書のつもり」で「国民主義の形成」を書いています。
丸山はこの頃、召集されて朝鮮に駐屯している。後に病気になって除隊されますが、彼が所属していた連隊は、フィリピンで壊滅したそうです。さらに丸山は、広島で被爆もしています。そのライフヒストリーを念頭に本論文を読むと、鬼気迫るものがあります。

国民主義の形成」は、江戸時代批判の形をとって、戦中の日本を批判しながら、「国民主義」思想を展開したものでした。
即ちそれは、権力者と大衆が完全に分離し、大衆が政治に一切の関心を持たない無責任な社会。人々は国家よりも、自分が所属する中間団体の利益を優先して活動します。
このような国民的責任意識の欠如した社会の弱点は、「総力戦」体制において完全に露呈します。それは本論文では黒船の来航とされていますが、これは太平洋戦争における日本社会の弱体を批判したものであることは明らかです。

「戦中にこんな論文を書いていたのか」と私は非常に驚きました。
おそらくこれは、当時の時代状況の中でできるギリギリの反抗だったように思います。いや、完全にアウトだったのかもしれません。

終戦を迎えた後の丸山は、有名な「超国家主義の論理と思想」において、日本社会を公然と批判しました。

超国家主義」とは、戦中日本の社会を指した言葉です。そこでは、主体的な責任意識を持った個人が存在しておらず、お上の言う事に従うだけである。
さらにそれは、権力者にも該当する。彼らも責任意識を欠いており、「陛下の下僕」にすぎない。自分より力のある人間によって加えられた抑圧を、弱い人間に向かって発散する。これは戦中日本において至る所で発生し、国際社会においてはアジアへの侵略という形をとった。そう丸山は分析しています。

このように丸山は、「近代」批判から「近代」再評価に転じました。しかし、「近代」という言葉は同じでも、その内容は異なっています。
丸山が批判した「近代」とは、ヘーゲルマルクスが批判したような「個人主義的国家観」です。それに対し丸山が再評価した「近代」とは、国民一人一人が主体的に政治に参与する「近代国家」観でした。

戦時中、「近代の超克」と題して、「個人主義的国家観」を超克する思想として、統制経済大東亜共栄圏を絶賛した知識人がいました。
それに対して「いや違う、超克どころか、お前らはまだ近代に到達していないんだ」と言った丸山の批判は痛快です。

丸山に学ぶ3つの事

この丸山の思想を、彼のライフヒストリーと当時の時代状況から見るとき、2つの着目すべき点があるように思います。

第一に、彼の思想がオーソドックスな西洋思想に基づいていたという事です。「身分制度から解放された近代的個人が愛国心の担い手になる」という思想は、フランス革命において成立したとされる、何ら新しいものではない。その意味において、丸山は何ら新しい事を言ったわけではないのですが、彼の偉いところは、戦中・戦後の日本という時代において、その社会の欠陥を批判するためにその思想を用いた事です。
私は丸山を初めて読んだとき、はっきり言ってあまり新しさを感じなかった。けれどもそれを時代状況の中に置くと、学ぶ所が多くあります。

思想は時代との連関で読まなければ、その価値はわからない。
これは、今後の創価学会において重要であると思います。池田名誉会長の思想を同時代的に読む時代は、はっきり言って終わったと思います。今後必要となるのは、池田名誉会長の主張を、その時代との関連において読むという事です。池田思想を普遍的真理として読むのではなく、昭和から平成という時代を生きた個別特殊的な人間の思想として読む。そういう姿勢に立った上での議論が、必要となるでしょう。
牧口・戸田両会長の思想研究にそれが必要な事は、言うまでもありません。

第二にそれが、丸山自身のライフヒストリーと密接に結びついていたことです。丸山が兵役に従事したことは先述の通りですが、彼はそこでの自分の振る舞いを「徳川時代の御殿女中」のようだったと言っている。つまり、上役という権威に追従する卑屈さを恥じている。これは彼が権威に対して「主体性」を強調する背景となっている。
またこの経験は、多くの日本人によって共有されたものでした。ですから、その経験で感じた「権威への追従」に対するアンチテーゼとしての丸山の「国民主義」は、広く読まれたと言えましょう。

第三に、丸山の思想が後世の人間によって非常に単純化されて理解されてしまったことです。
少なくとも丸山の「国民主義」においては、「民主」と「愛国」は緊張関係にありながら、両立していたと言えます。しかし、後世の人間によって丸山は、その一面だけを強調されてその内部の複雑性が無視されてしまいました。
それはある人には、「近代的自我の確立」を唱えてナショナリズムを否定したと読まれた。しかし、それは、「個人主義的国家観」を批判した丸山を見落としている。
またある人には、西洋を過度に理想化した「近代主義」だと受け入れられた。しかしそれは、日本が「国民国家」という近代的原理に達していないという現実認識に基づいていたという点を見落としている。
さらにある人は、「大衆」を嫌悪した大衆社会論者として、ある人は「日本人としての誇り」を掲げる歴史修正主義者として、丸山の後継者を自認した。
思うに、丸山だけではないが、偉大な思想家の思想は驚くほど複雑であり、その内部には相互に矛盾する要素が牽制し合いながら混在しています。それを単純化することなく、その知的緊張度を保ったまま理解しようと試みること。その事の必要性を、強く実感します。

 

 

 

 

 

 

共産党はかつて「真の愛国政党」を掲げていた:『人間革命』の時代を学ぶに当たって

今週から『人間革命』の第1版と第2販の読み比べを始めましたが、それに伴い、「『人間革命』の時代背景」について勉強し直そうと思い起ちました。
そこで小熊英二の『民主と愛国』を少しずつ読んでいく事を決めました。人間革命の比較検討に、日蓮遺文の再読、創価学会会則の検討と、やりたい事は山積しておりますが、ビジネス本の読書や資格試験の勉強に忙殺されるなんて、社畜そのものです。

私の母方の家系は早死にの傾向が見られますので、もしかしたら私もあと5年くらいでポックリ逝ってしまう、なんて事も十分考えられます
「人生80年、読書は老後にゆっくりと」なんて悠長な計画を立てずに、若いうちにしっかり勉強したいと思います。

共産党はかつて「真の愛国の党」を掲げていた

さて、まず著者の小熊英二ですが、東京大学農学部を卒業後、29歳まで岩波書店に勤務し、その後東京大学大学院で歴史社会学(仮)を専攻。『「日本人」の境界』や『1968』など日本ナショナリズムや政治思想などの歴史に関する名著を量産しています。原発や安保関連法でも積極的に発言しておりましたので、その関連で知った人もいるのではないでしょうか。
私も大学時代に親しんだ、心から尊敬する学者さんの1人です。

この『民主と愛国』のテーマは、「戦後日本におけるナショナリズムや公をめぐる言説の変動を検証する」というものです。
こういうとなんだか難しそうな感じなので、一例を挙げて説明します。

「愛国」という言葉があります。安倍さんが大好きなこの言葉は、自民党が掲げる憲法草案において、必要不可欠な概念になっています。
この「ザ・保守」というイメージのある言葉、実はかつて日本共産党が使っていた事があったのです。共産党は戦後、自分たちの事を「真の愛国の党」であると自認していたのです。

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今日の共産党といえば、「アベ政治の言う愛国は、戦前への回帰だ!」なんて主張がピッタリの党ですので、彼ら自身が「俺たちこそ真の愛国者だ!」って言っていたなんて、驚きですよね。
しかし彼らに対して、「お前らも愛国って言っていただろう、だったら自民党改憲草案に賛成しろ」なんて言ったとしても、議論は紛糾するだけでしょう。

なぜ、こんな事が起きてしまうのか。
それは、同じ「愛国」という言葉でも、その発話者の全く違う「心情」を表しているからです。

戦後間もない頃の日本共産党が叫んだ「愛国」は、「壊滅的な敗戦からの日本の再建」という時代状況の中で、彼らなりの政治的信念の発露だったのです。
これは、経済の新自由主義化が進行し、従来の安全保障環境が変化する今日の世界において、「日本大好き」集団である自民党が掲げる「愛国」とは、全く異なるものです。

しかし、それは「愛国」という全く同じ言語によって表現されてしまう。
言語の字面だけを見ていては、その思想を読み解く事はできない。
そこで必要になるのは、その時代の思想状況や言説構造を分析し、「愛国」や「民主主義」、「国民」といった言葉を、時代の文脈の中に位置付ける事です。

「心情の変化」と「言説構造の変化」

小熊英二が『民主と愛国』の中でしている研究も、そのような試みです。
それは、太平洋戦争という「言語を絶する」経験をした知識人が、その「心情の変化」を表現するための言葉を模索した結果どのような言説空間が生じたのか、明らかにする事です。

小熊が「言説」だけでなく、「心情」という言葉を使っているのには理由があります。
先ほど、「愛国」という言葉を、今日の自民党と戦後の共産党、どちらも使用していた事を述べました。
しかし、「愛国」という言語は共有されていても、その背後にある「心情」は全く異なるものです。そういった言語の分析だけでは明らかにならない、残余の部分を知るために、「心情」という概念が必要になるのです。

さらに小熊が指摘している点で興味深いのは、たとえ「大戦争」のような経験を経たとしても、人々は簡単に「発想の転換ができない」という事です。
つまり、既存の言語では表現しきれない心情を抱えていながらも、全く新しい言語体系を構築する事はできない。ゆえに、旧来の言語を用いて、新たに生じた「心情」を描こうとするのです。
例えば、「アメリカ帝国主義打倒」を掲げて赤旗を担ぐという行為は、「鬼畜米英」という戦中の風景とどこか似ている、というものです。

知識人の思想を「集団の心情」として読む

小熊の研究のもう一つの特徴は、知識人の思想を主な研究の対象としている事です。
これだけ聞くと、「大衆から乖離している」「一部の特権的な人間を研究しただけ」と批判されそうですが、そうではありません。

小熊が扱っているのは、同時代を生きた人々に広く歓迎された知識人の思想です。それらが広く支持を得た理由は、その時代を生きた人々が共有していた「集団的な心情」を学問的な言葉で表現したからでしょう。全く大衆から乖離した思想を説いても、支持される事はありえない。ゆえに、彼らの思想を研究する事は、その時代の「集団の心情」を知る事にもなるのです。

私はこの小熊の方法論に触れた時、有吉弘行を思い出しました。
その毒舌で一世を風靡し、今やその位置を確固たるものとしたように見える彼ですが、決して有名人を口汚く罵っていただけではない。
有吉の毒舌を見て笑う時、私たちは「わかる!わかる!」と、まるで自分が思っていた事を代わりに言ってくれたような気持ちになります。つまり、全く共感できない「悪口」ではなく、広く社会に共有されているような「人物評」を、有吉は先鋭的な形で表現している。だから売れたのです。
これは、BUMP OF CHICKENに熱中する中二病罹患者や、西野カナに涙を流す恋愛中毒者にも言えると思います。

ニーチェのような「変態」をその時代の「大衆感情の表現」などと言ったら滑稽です。
数年前に「ニーチェの言葉」なる本が大流行しましたが、はっきり言ってあれはニーチェではなく、そこらにある自己啓発本です。
本当の意味で、ニーチェ思想が大流行する社会なんて、想像しただけで恐ろしい。
国民の9割は精神疾患を患い、狂人が町中をうろつく。「19人殺し」なんて事件は、ニュースにすらならない。そんな世界でしょう。
とはいえ、「ニーチェの言葉」が流行るような今の日本よりは、幾分生きやすいかもしれませんが。

創価学会研究への応用の可能性

話が逸れましたが、この小熊の方法は、創価学会研究にとっても非常に示唆的です。

私も含めた創価学会員は、池田名誉会長の著作を教条的に読みすぎてきました。別にそういった読み方を否定するわけではないのですが、池田名誉会長も「時代の子」です。当然その時代の状況に制約される存在であり、時代との関連・緊張関係の中でその思想を読まなければ、その本当の意味もわからない。また、池田思想がいかに「先駆的」であったかという事も、到底評価できないのです。

同じ事は、日寛思想にも言えるでしょう。
私の親世代の学会員には、日寛好きが非常に多いのですが、その読み方には多くの疑問があります。
なぜ宗祖でもない、1人の大石寺僧侶をそんなに重用するのか。宗門からの分離独立前なら仕方ないと言えますが、未だに彼の言葉を「御聖訓」のように読んでいる理由がよくわかりません。日寛思想は、日蓮思想解釈としてはかなり問題があります。今日の文献学的な方法からすると到底受容不可能な「文底読み」を採用するには、「日寛系日蓮宗」という新しい一派を設立しなければ駄目でしょう。創価学会がその道を進む必然性は、どこにもないと思います。

しかし、創価学会は2014年の会則変更で、日寛教学を取捨選択していく方向性を打ち出しました。一部、引用しておきます。

「日寛上人の教学には、日蓮大聖人の正義を明らかにする普遍性のある部分と、要法寺法主が続き、疲弊した宗派を守るという要請に応えて、唯一正当性を強調する時代的な制約のある部分があるので、今後はこの両者を立て分けていく必要がある」

これは、江戸時代という時代的制約と、「護教」という彼が取らざるをえなかった目的の中で日寛を理解しようという試みであるといえるでしょう。
私は、日寛という思想史的に見て高評価する理由のない人物が絶対視されている創価学会の風潮に懐疑的でしたので、この点では会則変更を評価しています。
今後、創価学会教学部がどれだけの学術的批判に耐えられる日寛解釈をするのか、非常に注目されるところです。

とはいえ私は、日蓮正宗から独立した今、創価学会が日寛教学を採用する理由は「会員への配慮」以外にはないと考えています。ですので、学会本部は早晩、日寛教学を廃棄するのでは、と予想しています。つまり会則変更での日寛教学の「取捨選択」宣言は、「日寛教学の段階的廃棄」の第一歩であるということです。
これについては、また別記事にて詳述したいと思います。

「日本人の心情」の表現としての創価学会思想

長くなりましたが、もう1点。
小熊は、丸山眞男大塚久雄竹内好吉本隆明といった思想家を、日本人の「集団の心情」の表現として読んでます。
これは、創価学会についても言えると思います。

学会員といえば、社会の中ではマイノリティであり、「何だか危ないヤツら」として認識されてきました。
しかし、創価学会が公称827世帯にまで拡大した歴史を見るとき、創価学会の主張は決して日本人のメンタリティから乖離していたものでないことがわかります。
「わかりやすい現世利益を説いたからだろ」と言われるかもしれませんが、私はそれだけに還元されないと思います。

「世界の先駆的な思想」「普遍的な真理を説いた思想」として、学会員は池田思想を読みがちですが(私もそうです)、泥臭い生活感覚丸出しの庶民思想を体現したものとしてそれを読むとき、「日本人の心情の代弁」としての池田思想が見えてくるのかもしれません。

ともあれ、「『人間革命』が書かれた時代を学ぶ」、「創価学会研究の方法を学ぶ」という2つの事を意識して、少しずつ『民主と愛国』を読んでいきたいと思います。

本連載の目次一覧は。下記をご覧くださいませ。

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学会再建に乗り出す戸田城聖:「再建」の章を読み比べる

本日は、『人間革命』第1巻2章「再建」を読み比べたいと思います。

本記事は、2014年に改定された『人間革命』第2版と初版を比較検討するものです。ここでは、第1巻「再建」の章を取り上げます。目次一覧は、下記をご覧くださいませ。

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「再建の章」あらすじ

出獄した戸田城聖は、創価学会の再建に乗り出す。そのためには、戦時中に壊滅してしまった彼の事業を再建する必要があった。彼は、戦争が終われば学問を渇望する子供が増えることを予想し、通信講座の開始を着想する。最大の課題である資金を調達するため、長年の友人である小沢の元を訪問。さらに、政界の大物・古島の邸宅を訪れ、終戦の目処を確認し、開業への準備を着々と進めていく。

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想定読者の変化

(第1版)

どん底に来ると、人生は何とわびしいものであろうか。日本の指導者が、もし賢明なる指導者であったならば、常に、民衆に充実した人生を送らせたことであろう。国民は、この苦悩を永久に忘れてはならない。(43頁)

 

(第2版)どん底の生活は、人々に極めてわびしい思いをさせた。民心は、既に、軍部指導層から離れていた。指導者が賢明でありさえすれば、よもや国民全体を塗炭の苦しみに落としはしないことを、人々は本能的に直覚していたからである。(58頁)

【考察】

「忘れてはならない」というメッセージ性の強い表現が、「直覚していた」という客観的記述に代わっている。これは、想定する読者が変わった事が背景にあると考えられます。
第1版の執筆時は昭和39〜40年。まだ戦後20年であり、戦争の記憶もそれなりに残っていたと考えられます。そのため、「この苦悩を忘れてはならない」というメッセージが、ある程度響くものだったと思われます。
しかし、第2版発行時は既に終戦から約70年が経過しています。さらに本書の改訂が「50年後の読者も想定」しているものである以上、その読み手が戦争経験を有していないという前提に立つ必要が出てきます。そのため、「忘れてはならない」というメッセージではなく、当時の国民の心情を叙述したような記述になったのだと考えられます。

処世訓の削除

(第1版)

彼の、数多い事業の一つでも再建の糸口を握るためには、まず、生々しい実態を知る必要があった。実態を知らないで再建はありえないからである。かくて常に、建設に生き抜く人生には、未来が輝く。最後の勝利の建設によって、人生の勝負が決するのだ。

(第1版)

一切の事業を推進するのは、所詮、すべて人である。その成否の鍵は人間革命に尽きる。事業に左右されるか、事業を左右するかによって、事業の未来の運命は決まる。(47頁)

(第1版)

事業は、果断と、智慧と、信用が大事だ(54頁)

【考察】

上述の3箇所の記述は、どちらも初版にはあるが、第2版にはない記述です。
このような小説の流れとは無関係の「処世訓」的な言葉が所々に登場するのが、第1版の特徴であるが、第2版では削除されています。これは、「客観的な歴史叙述」の性格を強めようとしたものだと考えられます。しかし、私のような第1版に親しんだ会員からすると、所々に「池田大作」という人間が物語の語り手という立場を超えて顔を出すのを魅力と感じていたために、少々残念でもあります。

「学会外の友情」についての記述の削除

(第1版)

友情は強い。真の友情は、百の親類に優るといった人がいる。しかし友情にも、世法の友情と、仏法の友情がある。世法の友情は、深いようで、浅い。現実の苦境と利害にあって、自然に離れてゆく性質を含んでいる。時としては一転して醜い嫉妬にも変わり得る。そのような時に、妻や女性が介在するのも珍しくない。信心、そして主義主張に生きる同士の友情は、目的達成のために、生命を賭しての擁護があり、励まし合いが存する。彼との長年の親交は、主義主張のものではなかった。(58頁〜59頁)

(第1版)

所詮小沢の友情は、世間一般の平凡な友情でしかなかった。人は無理からぬことと許すかも知れぬ。だが戸田の友情は、それを越え、一切の財力、権力を超越した真の友情であったのだ。小沢にはそれがわからなかった。(67頁〜68頁)

【考察】

これは戸田が、旧来の友人・小沢を訪問した時の記述です。
上述の2箇所も、第1版にはあるが、第2版では削除されているものです。
これらの記述は、「仏法の友情」と「世法の友情」を対置して、前者の絶対的優位を主張するものです。
この記述がなくなった理由として、私は以下の2点を考えています。

①運動論の変化の反映

第一に、創価学会折伏運動の変化である。昭和39年頃は、教団が拡大していた時期です。当時の会員にとって、周囲のあらゆる人は「折伏の対象」であり、潜在的な「仏法の友情」を築く相手だったのではないでしょう。そうした運動の中では、「仏法の友情」の優位性を強調して折伏運動を鼓舞することは、合理的であると考えられます。
しかし、昨今の学会では状況は変わっている。国内会員数は飽和状態に達しており、「友好拡大」、つまり非会員の創価学会理解を進める事が推奨されています。そうした状況下では、「世法の友情」を「浅い」と断ずることは都合が悪いと言えるでしょう。

②想定読者層の拡大

第二に、想定読者の拡大です。初版刊行時の『人間革命』は、会員に学会の歴史を周知させることに主眼を置いていたのではないでしょうか。しかし、前述の通り、非会員の学会理解を深めようとする運動も推奨されている今、「非会員」の読者も視野に入れる必要を、学会本部は感じたのではないかと私は考えています。

法華経の行者に関する記述の変化

(第1版)

戸田は、この時、ぽつんと言った。

「ぼくは、やっぱり、末法法華経の色読者だよ」(68頁)

 

(第2版)

戸田は、この時、ぽつんと言った。

「ぼくは、やっぱり、末法法華経の行者だよ」(86頁)

【考察】

これは戸田が小沢に言ったセリフであるが、「末法法華経の色読者」が「末法法華経の行者」になっています。
これは、現在の会員にとって馴染み深い「法華経の行者」に変えただけであり、それほど大きな意味はないと私は思っています、戸田城聖の「獄中の悟達」について考察する際にこの等置が妥当か再考したいと思います。

政界の大物・古島の礼賛の削除

(第1版)

乱世には、有能な人が、高潔な人が、どれほど不遇であることか。ある時は、国賊とののしられ。ある時は、臆病者と嘲られたりする・・・。いかなる時代の推移、動乱にも、自己の信念を屈せず、一直線に貫き通す人は、誠に尊い。時代は流れた。人の心も動いていた。今、両者とも、各々主義主張は異なるとはいえ、いずれも、次の時代を待っているのだった。(75頁)

これは、政界の大物・古島の元を戸田が訪問した時の記述です。初版にのみ記載されています。
古島を褒めたセリフのようでありますが、第2版では削除されている。私はこの政界の大物が誰が知りませんが、この古島という人物に気を遣った記述だったのではないかと思います。
第1版執筆当時は、この古島と戸田の面談から20年。まだ古島が健在であるか、その流れを引く人物がいたのではないかと推測されます。戸田会長とは随分懇意のようですから、その交友関係が池田会長に受け継がれていたことも予想されます。
しかし、面談から約70年経った今では、別段おべっかを使う必要もないのでしょう。

寺院名の削除

(第1版)

戸田の近くの坂上に、瑞泉寺というかなり大きな寺院があった。(79頁)

(第2版)

戸田の家の近くの坂上に、かなり大きな寺院があった。(99頁)

【考察】

寺の固有名詞が消えています。
瑞泉寺とは、以下の寺院であると考えられるが、どうやら禅宗系の寺のようです。

www.zuisho-ji.or.jp

削除されている理由がよくわからないが、それほど着目する必要もないと私は考えていまし。

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ゆとり世代学会員の本音②:質問にお答えして

昨日投稿した、「本門戒壇の大御本尊」に関する記事について、様々なご意見いただきました。ありがとうございました。

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その中で、私の「本門戒壇の御本尊」に関する立場・意見について、ご質問いただきました。
昨日の記事は、「創価学会の中で起きている大御本尊を巡るパラダイムシフトを観察している私」という、第3者的視点に徹したものであり、私自身の意見が気になるという方がいらっしゃったのだと思います。

そこで本記事では、本門戒壇の大御本尊についての私見を述べさせていただきます。

「本門戒壇の大御本尊」に関しての私の基本的立場

私の基本的立場は、主に以下の2点に表されます。

日蓮が図顕した曼荼羅本尊、ならびにそれを書写した本尊には上下勝劣はない。
②とはいえ、「本門戒壇の大御本尊」が出世の本懐であるとする説は、否定しない。

なんだか矛盾したような微妙な言い方ですが、要するにこういう事です。

①については、創価学会の現在の見解に近いですが、2014年の会則変更前からこのような考えを持っておりました。理由は、後ほど詳述しますが、「本門戒壇の大御本尊は日蓮の出世の本懐」と確定する証拠が見つからなかった事です。

またこれはかなり感覚的な理由ですが、池上本門寺所蔵の日蓮直筆の曼荼羅を見る機会に恵まれ、圧倒されてしまったことも挙げられます(島田裕巳も同じエピソードを話していました)。「たましいを墨にそめながして」とはこの事か、と体が震えました。

恐らく日蓮は一幅一幅の御本尊の図顕に、命を削って臨んだはず。その御本尊に上下勝劣があるという考え方が、感覚的に受け入れられなくなってしまいました。
(とはいえ私は、本門戒壇の大御本尊を拝したことがないので、もしも御目通りする機会に恵まれれば変わるかもしれませんが・・)

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②についてですが、「本門戒壇の大御本尊」を「出世の本懐」と断定できる証拠もないが、否定できる材料もないので、そのような信仰を持つ人を最大限尊重するということです。

私は学会3世として生まれ、創価高校という狭い世界を生きた事もあり、大学2年生くらいまではかなり宗教的に排他的だったと思います(特に日蓮正宗は「人間のクズの集まり」のように思っていた)。
しかし、他の宗教を勉強したり、異なる信仰を持つ方々とお話しする中で、このような自分の態度を恥じ、改めました。

思うに無宗教者が大多数の日本において、特定の宗教を信じる人間はマイノリティです。
宗教を信じる人の心がわかるのは、同じく宗教を信ずる人であるはず。しかし、異なる宗教を信じる他人の気持ちに対して、驚くほどデリカシーを無くしてしまうことがしばしばです。
私の嫌いな学会の先輩で、「大川隆法はレイプ魔」「靖国神社を放火せよ」などと冗談でいう人間がいましたが、ウジ虫以下だと思っています。
彼にとって、池田大作創価学会はとても大切な存在であり、それを馬鹿にされれば傷つくはず。しかし、「幸福の科学」信者や「遺族の会」の方の気持ちに対する想像力を働かせる事は、一切できない。
私は一応信仰者ですので、他の宗教を信じる人には、最大限敬意を払いたいと考えています。

そもそも、「本門戒壇の大御本尊」を信じている創価学会員は私の周りにも多い。そういった方々が、2014年の会則変更に多大なショックを受けている姿を見て、心が痛みました。

長くなりましたが、「本門戒壇の大御本尊は日蓮の出世の本懐」という命題を、私は信じておりません。しかし、その命題をを否定する気は毛頭なく、それを信仰する人を最大限尊重したいと思っています。

本門戒壇の大御本尊について

長くなりましたが、「本門戒壇の大御本尊」について書かせていただきます。
この節での私の主張は、「大御本尊を出世の本懐とするか否かは、学問的考証ではなく、信仰の次元の問題である」という事です。

そもそも、「本門戒壇の大御本尊」に限らず、日蓮の本尊をめぐる論争は尽きません。
それは日蓮の遺文での記載が人本尊偏重だったり、法本尊偏重だったりと解釈が難しいからです。これは、日蓮宗における「曼荼羅か、一尊四師か」という積年の論争を見ているとよくわかります。
望月歓厚という学者は、「日蓮遺文から本尊義を確定する事は出来ない」なんて論文を書いていますが、「それを言ったらおしまいだろう」って感じですよね。

「本門戒壇の大御本尊」をめぐる論争となれば、それを日蓮の「出世の本懐」と認めている学者は、日蓮正宗創価学会以外にはほとんどいないようです(実は「日蓮本仏論」もそうですが、これは後日)。
その主な理由は、以下のようです。

●「聖人御難事」の解釈に無理がありすぎる
●『日興上人御伝草案』が板本尊の文証になり得ない
●『日興跡条々事』は偽書の疑いがある
●他の日蓮遺文との整合性に疑念
●『御伝土代』(日興・日目の伝記)に本尊造立が出てこない
●日興は複数の日蓮直筆曼荼羅を書写している
●日寛などの後世の法主の思想は、文証になりえない

これらには日蓮正宗からの批判もあるでしょうから、「本門戒壇の大御本尊 出世の本懐説」を完全に否定するものにはならない。

私が言いたい事は、「本門戒壇の大御本尊は出世の本懐である」という命題は、「文証から明らか」(=文献学・歴史学的に明白)なものではないということです。
つまり、それの真偽は、学問的論証によって誰にでもわかるように明確にされるものではない。
「信じるか、否か」という「信仰の次元の戦い」であるということです。

上述の命題を信じた上に、日蓮や日興、日有、日寛などによって構築された大石寺教学の世界が「真」になるということです。

私は、「本門戒壇の大御本尊 出世の本懐説」はとりません。しかし、学問のような合理主義を過度に重視することによって見落とすことも多いことには、自覚的であろうと思っています。

大御本尊をめぐるパラダイムシフト

着目すべき点は、大石寺教学が「本門戒壇の大御本尊は出世の本懐」という信仰(=格好つけて「パラダイム」と称します)の上に成り立っていることです。つまり、そのようなパラダイムを有している人間にしか、共有できない宗教であるということです。

しかし昨日の記事で指摘した通り、私の世代の創価学会員の多くは、「本門戒壇の大御本尊」を知らないか、何の感情も持っていない。日蓮正宗とは全く異なる宗教に、変化しつつあるのです(もともとその体質は正反対でしたが、教義的にも大きく異なっていく)。

今でも、創価学会日蓮正宗を激しく批判しますが、これは「まだ日蓮正宗から独立できていない」ことを指しているとも言えます。
日蓮正宗を批判することが自分たちの正統性証明に必要不可欠であり、ある意味で彼らに依存しているのです。

しかし、私たちのような「本門戒壇の大御本尊」を知らない世代が大多数を占めた時、完全な分離独立が達成されるのかもしれません。自分たちだけで自己充足的に信仰を完結することができ、日蓮正宗を批判する理由がなくなり、無関心になる。恐らく20〜30年後になるでしょうが、大変に興味があります。

その時に現れる創価学会の新しいパラダイムは、「3代会長」と「民衆仏法」だと私は考えていますが、これについてはまた述べさせていただきます。

追記:おすすめブログ

この件は、大変難しい問題であり、私の意見はやや特殊だと思いますので、
私に質問くださった方は、他の学会員の方のブログも、同時に参照頂ければと思います。

SOKA2015

会則変更の撤廃に向けて、活動をしておられる方のブログです。
我が同窓の先輩でもあります。その勇気ある活動を大変尊敬しております。

創価学会員による創価ダメ出しブログ

宗門からの分離独立以降の学会を、激しく批判されている方のブログです。
こうした厳しい声を上げられるのも、学会を思ってのことなのだと思います。
日寛教学に関する理解など、私も勉強させていただいております。

創価教学随想

様々な創価教学に関する資料を公開されており、意見を述べられています。
大変に参考になるので、頻繁に拝見しております。

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戸田城聖の出獄:「黎明」の章を比較検討する

「戦争ほど残酷なものはない。戦争ほど悲惨なものはない」

この有名な一文から始まる、「黎明」の章。
治安維持法違反と不敬罪によって投獄された戸田城聖が、豊多摩刑務所を保釈されるシーンから始まります。

本記事は、2014年に改定された『人間革命』第2版と初版を比較検討するものです。ここでは、第1巻「黎明」の章を取り上げます。連載目次一覧は、下記をご覧くださいませ。

sanseimelanchory.hatenablog.com

「黎明」の章 あらすじ

1945年7月3日。後に創価学会第2代会長に就任する戸田城聖豊多摩刑務所を出獄する。その心中は、創価学会の再建と広宣流布の実現に燃えていた。迎えに来た家族とともに帰宅後、彼は御本尊(文字曼荼羅)を拝す。その姿が、自分が獄中で経験した「虚空会の儀式」と全く重なる事を知り、ますます広宣流布への決意を固くする。

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王仏冥合の削除

(初版)
彼の恩師、牧口会長は、この門を死によって帰られた。
彼はいま、生きてこの門を、出たのである。
生死の二法は一心の妙用なりーと。牧口会長も戸田城聖も、ともに、広宣流布王仏冥合の一心には、なんら変わりはなかった。(9頁)

(第二版)
戸田城聖の恩師である、創価教育学会の会長・牧口常三郎は、死によってこの門を出た。彼は今、この門を生きて出たのである。
生死の二法は一心の妙用なり、という。
そして牧口も戸田も、ともに人類の平和と幸福を実現する広宣流布の一念には、なんら変わりはなかった。(21頁)

《考察》
初版が執筆されたのは、昭和39年。公明党は飛ぶ鳥落とす勢いで、単独過半数を目指していたとも考えられる時代です。
しかし、昭和45年の「言論出版妨害事件」を経て、党紀から「王仏冥合」や「国立戒壇」の文言が削除されました。宗門との問題に加え、このような政治的問題に対する配慮も、改訂部分を考察する際のポイントであることがわかります。

邪宗、邪教の不使用

(初版)
仏法は勝負である。正しいものが、絶対に栄えるという事を実証するためにもー。
およそ不幸の根源は、一国の政治や社会機構のみでは決定できない。より本源的には邪宗、邪教にある、との日蓮大聖人の、するどい洞察が、寸分の狂いも無い真実である事を、彼は身をもって知った。(10頁)

(第2版)
およそ不幸の根源は、一国の政治や、社会機構の形態だけで、決定できるものではない。より本源的には、誤った思想や宗教によるものである。
戸田は、この日蓮大聖人の鋭い洞察が、寸分の狂いもない真実である事を、身をもって知った。(22頁)

《考察》
「邪宗、邪教」という言葉が、「誤った思想や宗教」に置き換えられています。
邪宗・邪教は、『折伏経典』などの過去の学会の出版物で頻出する言葉ですが、最近ではほとんど聞かなくなりました。これは、日蓮の「五重の相対」に基づいた他宗違反を、創価学会が行わなくなったことを反映しているのではないでしょうか。
つまり、他の仏教宗派に寛容の姿勢を見せるために、かつての激しい他宗批判を想起させる「邪宗・邪教」という言葉を放棄したと考えられます。

また、なぜか「仏法は勝負である」以下の文章が削除されています。
なぜ今日の学会でも頻繁に使われる言葉が削除されているのか、私にはわかりません。

敗戦の原因は「正法」への無知

(初版)
ー宗教の無智は、国をも滅ぼしてしまった。
神は非礼をうけたまわず、と大聖哲は仰せである。正法を尊ばずして、諸天善神の加護はないのだ。しかるに軍部政府は、正法を護持する牧口会長を獄において死に至らしめている。(16頁)

(第二版)

“宗教への無知は、国をも滅ぼしてしまった。”
「神は非礼を稟けたまわず」と、大聖人は仰せである。正法を尊ばずして、諸天善神の加護はない。しかるに軍部政府は、正法を護持する牧口会長を、獄において死に至らしめてしまった。(30頁)

《考察》
これは、太平洋戦争における敗戦の原因を記したものですが、全く変わっておらず、少々驚きました。
これは、「敗戦の原因は日蓮仏法を信仰しなかったから」、さらに乱暴に言えば「創価学会を弾圧したから日本は負けたのだ」というドラスティックな主張にも解釈可能です。
この敗戦の総括は、創価学会歴史観に不可欠なものですので、今後その記述に注意して読んでいきたいと思います。

「本門戒壇の大御本尊」と戸田会長の獄中の祈りの対象

(初版)(第二版)
大御本尊様、私と妻と子との命を納受したまえ。(新:52頁、旧:36頁)

《考察》
これは獄中で戸田会長が唱題をするシーンですが、新旧版で全く変更がありませんでした。
「大御本尊」ー即ちこれは、大石寺にある「本門戒壇の大御本尊」を指すと考えられます。
2014年に創価学会は会則を変更し、「本門戒壇の大御本尊を受時の対象としない」としました。
今回の『人間革命』改訂の理由の1つは、この会則の変更を反映することだと考えられます。

しかし少なくともこの箇所では、「大御本尊」という言葉が使われている。これは、戸田会長が曼荼羅のない獄中において、「富士大石寺にある大御本尊」を心に浮かべて祈りを捧げていた、という事を指していると思います。

戸田会長が書いた『人間革命』(池田名誉会長が書かれたものとは別物)を見てみると、獄中での唱題について以下のような記述があります。

「毎朝と同じように、今朝も、彼は大石寺の御本尊を心に念じながら題目を唱えているが、数が進むにつれて・・・」

このように戸田会長は、「大石寺にある大御本尊」を心に念じていたとはっきり書いている。そのため、この箇所を「大御本尊」と記さざるをえないのだと思います。

創価学会は、「御本尊のない獄中において、戸田会長は悟達を得られた。御本尊にこだわるなんて、信仰の本筋から外れている」と、日蓮正宗を攻撃することがあります。しかし、その戸田会長自身が、「本門戒壇の大御本尊」を念頭に唱題していたのだとしたら、このような事は言いづらくなります。

「常住本尊」の削除

(初版)
戸田城聖は、暗幕に遮蔽された二階の一室で、仏壇の前に端座していた。空襲下の不気味な静けさが、あたりを包んでいた。彼はしきみを口にくわえ、常住御本尊様を、そろそろ外した。そして眼鏡を外した。(33頁)

(第二版)
一方、戸田城聖は、暗幕に遮蔽された二階の一室で、仏壇の前に端座していた。空襲下の不気味な静けさが、辺りをつつんでいた。彼は、しきみを口にくわえ、御本尊をそろそろと外した。そして、かけていたメガネをとった。(54頁)

《考察》
「常住御本尊様」が「御本尊」に代わっています。
「常住御本尊」とは、日蓮正宗法主が直筆で書写した御本尊のこと。つまり、日蓮正宗からの分離独立した創価学会員は、もはや入手できないものなのです。そうである以上、「常住御本尊」という言葉を使う必要はないし、そんな言葉が流布するのは都合が悪い。こういった理由から「御本尊」という言葉に代わっているのだと考えられます。

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ゆとり世代学会員の本音①:「本門戒壇の大御本尊なんて知らない」

有給休暇を取得できましたので、私は今日から連休に突入しています。
貴重なお休みを利用して、ヘビーな話題を書いてみようと思います。
それは、創価学会の会則の変更」です。

飲み会での一幕:「本門戒壇の大御本尊って知ってる?」

創価学会は2014年に、かつて宗祖・日蓮の「出世の本懐」であると定め、自分たちの正統性の根拠としていた「本門戒壇の大御本尊」を「受時の対象」から外しました。
「この本尊以外は、例え日蓮真筆でも功徳はない」と言って排他的に信仰し、日蓮系の教団をガンガン攻撃していたわけですから、これはかなりの自語相違です。

しかしこの「本門戒壇の大御本尊」は、喧嘩別れした日蓮正宗に独占されております。日蓮正宗を「大謗法」の教団として弾劾することは、創価学会の正統性を主張する上で必要不可欠。そんな教団に信仰の中核である「御本尊」を握られ、それに依存することは創価学会としては我慢ならないわけです。
ですから、このように過去の教義を捨て去る事は、遅かれ早かれ必要だったと言えましょう。

最近私は、改めてこの話題に関心を持ちました。
昨日、創価大学の卒業生の友人5人とお酒を飲む機会がありましたので、この会則変更について意見を聞いてみたのです。
すると全員がポカンとした顔をして、「そんなことあったっけ?」という反応でした。

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創価学会日蓮正宗と喧嘩別れしたのは1991年(平成3年)。
私たちの世代(平成生まれ)は、日蓮正宗から独立する以前の創価学会を知りません。
私も「本門戒壇の大御本尊」を拝したことはないし、はっきり言って何の思い入れもない。
「まぁこんなものか」と思って、「本門戒壇の大御本尊を受時の対象から外したやつだよ」と解説すると、返ってきた反応は次のようなものでした。

本門戒壇の大御本尊って何?信濃町の学会本部にあるやつ?」

何と、5人全員が知らなかったのです
創価学会の活動に無関心な5人ではなく、むしろかなり熱心に活動に励み、土日もあちこちに奔走しています。この飲み会でも、「選挙が大変だった」という話題に終始していました(「選挙活動=信仰活動なのか!」というご批判は、ご容赦くださいませ・・・)

飲み会終了後、私は酔いに任せて、7人ほどの熱心な活動家の友人にLINEをしました。
回答が返ってきた6人全員が、「本門戒壇の大御本尊」を知らない、もしくは意味を誤解しておりました。

創価学会パラダイムシフトが起きる

サンプルはたったの11です。
しかし、私たちのような平成生まれのゆとり世代学会員は、「本門戒壇の大御本尊」に思い入れがないどころか、存在も知らない。こういう仮定に立って物事を考えても、無駄ではないと思います(機会があればしっかり調査してみたいですが・・・)。

よくよく考えてみれば、私が「本門戒壇の大御本尊」を知っている理由も、昔の学会や日蓮正宗の本を読んだことがあったからです。学会活動の中では、1度も聞いたことがないし、「教学試験」でも出題されませんでした。
ですから、彼らがしたなかったことも、自然と言えば自然です。

私はこの事実に直面して、創価学会において、「パラダイムシフト」が起きようとしていると感じました。
即ち、「本門戒壇の大御本尊図顕こそ日蓮の出世の本懐」というパラダイムが消え去り、学会教学部が言うところの「民衆仏法」、さらには「池田大作は永遠の指導者」というパラダイム創価学会を完全に席巻するということです。

創価学会本部が会則を変更した程度では、まだまだ「パラダイムシフト」なんて起きやしない。彼らが提示した新しいパラダイムが、創価学会員にとって「当たり前」になった時、それが完了するのです。

私は同世代の状況を見たことにより、20〜30年後の学会の姿を見たような気がしました。恐らくその時の学会は、「池田教だ」「日蓮大聖人の精神を忘れた新興宗教だ」と批判されるでしょう。それらの批判は、当たっている。しかし、そういった批判が全く響かない学会になるのだろうと思います。

ゆとり世代創価学会員の本音」シリーズのテーマ

というわけで、この会則変更に関しての論考を数回に分けて掲載させていただきたいと思います。

「平成生まれ学会員の多くは、本門戒壇の大御本尊を知らない。知っていたとしても何の思い入れもない」
このような仮定の下で論を進めさせていただきます。本当であれば、統計学的に信頼できる社会調査をすべきなのでしょうが、一末端会員でサラリーマンの私には、リソースが完全に不足しています。また、組織の中で「異端児」扱いされるのは、しばらくは御免です。
いずれ着手したいとは思いますが、今回は上述の命題を真であると仮定させていただきます。ただ、決してトンデモな仮定ではない、現役学会員の方も受容しやすいものではないかとは思います。

次回から、以下のようなポイントを考察することを考えています。

●そもそも教義とはどのようにできるのか?
●「本門戒壇の大御本尊」を捨てることなんて、本当にできるのか?
創価学会の新しいパラダイムとは?
パラダイムシフトが完成するには?

どうかお付き合い頂けますと幸いです。

続きは、下記をご覧くださいませ。

sanseimelanchory.hatenablog.com

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「『人間革命』新旧版を読み比べる」序章:連載開始にあたって

これから複数回に分けて、『人間革命』の第1版と第2版を比較検討する「読み比べ・『人間革命』新旧版」を始めたいと思う。

2014年に、創価学会の歴史を描いた小説『人間革命』の改訂が行われることが発表された。

改訂は既に完了されており、全12巻の第2版全てが現在入手可能である。

第2版発行の理由として、創価学会は以下の2点を挙げている。
①宗祖に違背して腐敗堕落し、仏意仏勅の団体である創価学会を破壊しようとした日蓮正宗からの分離・独立を考慮に入れて、推敲すべきであるということ。
②原稿執筆後に発見された新資料が存在するため、それらを加味して改訂すべきであること。
さらに、「50年後の若い読者が読んでもわかりやすいような表現にする」という点を、池田名誉会長本人に確認したとされている。

私は第2版発刊当初、この事には無関心だった。
『人間革命』は初版を何度か通読しており、今更読み直す気もなかったし、どうせ日蓮正宗礼賛箇所の削除や分離独立に伴う教義変更の反映など、自分たちの正統性を強調するための内輪的な改訂に過ぎないだろうと考えていたからである。

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改訂箇所の検討に至った理由

しかし今回、その改訂箇所を検討するに至ったのには、理由がある。
第一に、この問題に関心を持っている人間が、私の周りに一定数いたらからである。私には、創価学会の動向をウォッチしている物好きの友人が何名かいるが(恐らく私は彼らに利用されている)、彼らに何度もこの事を質問されていた。しかし、「暇がないのでチェックしていない」という回答を繰り返すのも嫌になり、一度調査をしてみようとした。またこのブログを開始してから、法華講員の方からこの件について質問を頂いたことも、きっかけとなった。
本当は、第1版と第2版を比較するなどという面倒な作業は誰かにお願いしたかったのだが、ネット検索をしても、詳細に検討したHPが見つからない。脱会者や日蓮正宗の信者の方などがこのような作業をしてくれているだろうと期待していたのだが、「人間革命改訂は池田本仏論を確立するため」などと主張するものしか見つからなかった。
そこで止むを得ず、自分でこの作業をすることにした(もしこのような取り組みをされている方を知っておられたら、ご一報いただけると幸いです。中止するか、独自性を出すことを考えるか、何らかの対応をします)。

第二に、他宗教との関係や学会の過去の歴史について、現在の創価学会本部がどのような公式見解を持っているのか、わからない点が多々あったからである。
はっきり言って創価学会は、かなりの「自語相違」を繰り返してきた。学会書籍は、その出版年代によってその主張が大きく異なる。私に限らず、今の学会本部が何を考えているのか、わからない人は多いのではないかと思う。
現今の学会本部の考えを理解するにあたり、『人間革命』を考察することは、適当な方法ではないかと、私は考えるに至った。
なぜなら『人間革命』は数ある学会書籍の中でも、最重要の位置を占める作品だからである。当然、その推敲とあらば、自分たちの教義・見解を矛盾なく反映しようと、学会本部の職員も本気を出して取りかかるはずだ。
さらに前述の通り、『人間革命』第2版は、「50年後の若い読者」も想定した上で改訂されており、今後の学会の「スタンダード」を示しているとも言える。

主に上述の2つの理由から、このような取り組みへの着手を決意するに至った。

比較検討の指針

比較検討をするに当たり、いくつかの指針を示しておきたい。

①教義・見解の変更を反映したと考えられる改訂部分のみを取り上げる
今回の改訂理由の1つは、「よりわかりやすくするため」であるとされている。
第2版は初版よりもかなり読み易く、簡単になっている。私の周りの友人も「読み易くなった」という感想が大半(というか全て)であった。

「人間革命は読みづらい」とは、私が子供の頃から何度も聞いてきた感想である。読書が嫌いという会員には、本書を読むのはかなりの苦痛を伴うものであろう。
しかし、創価学会の教義の根幹は、牧口・戸田・池田という3代会長の人生を師匠として、手本にする事にある。『人間革命』は、戸田会長と池田会長が共に生きた時代を描いたものであり、それを会員に認知させるのは学会にとって最重要命題である。
「難しい」という理由で会員が『人間革命』を忌避するという事態は、学会本部としても避けたいに違いない。

「文章をわかり易くするのはカムフラージュで、本当は自分たちに不都合な歴史を隠蔽するのが目的だ」という批判をよく聞く。
しかし、「文章をわかり易くする」という点も、上述の学会本部の意図を考える時、改訂の重要な理由だったのではないかと私は考えている。

しかし、「文章がどのように簡易化されたか」という点を考察する事は、この企画の趣旨に反する。
そこであくまで、初版発刊以降の創価学会の教義・見解の変更を反映したと考えられる箇所のみを取り上げて、考察する事とする。

②当面は発刊された順に考察をしていく
当面は、第1巻第1章から順に、時系列的に『人間革命』新旧版を比較考察していきたいと思う。

「当面は」と書いたのには、理由がある。
現在の私は、第1巻から第12巻までの全てを網羅的に考察する事を目指しているが、所詮私も一介のサラリーマンである。仕事が忙しくなれば、当然そちらを優先するし、このような取り組みが結局私の興味関心に起因している以上、いつ飽きるかわからない。
また、本ブログにも一定数のご批判をいただいているので、メンタルの弱い私の心が折れてしまい、予告なしの閉鎖をしないとも限らない。

そのような事情を鑑みる時、網羅性に固執することなく、より学会の教義・見解の相違が先鋭的に現れていそうな箇所を優先的に考察するということも必要かと思われる。
現在視野に入れているのは、日蓮宗との法論を描いた「小樽問答」や、日蓮正宗との衝突のきっかけとなった「狸祭り事件」などである。また、牧口・戸田両会長と共に獄に繋がれ、非転向を貫きながらも、後に「裏切り者」と弾劾されるに至った元理事長の矢島周平に関する記述も、気になっている。
時系列を無視して、これらの章の考察が始まったとしても、どうかご容赦願いたい。

③使用する『人間革命』の版について
第2版については、現在販売されているものを使えば、問題ないだろう(流石にこんな短期間で大きな記述の変更はないと信ずる)。

問題は、初版の方である。
今回、大々的に『人間革命』の改訂が報じられたが、果たしてこれ以前に記述の変更がなかったかと言うと極めて怪しい。日蓮正宗からの分離独立から20年以上経過しており、その間に改訂が全くされていないとは考えにくい。そこで少なくとも、分離独立以前に出版された初版本が必要となる。

幸いにも比較的古参会員である我が家の本棚には、昭和40年の初版本発刊元年のものがあったので、これを使用すれば問題ないと考えられる。

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しかし、第11巻は1980年に聖教新聞紙上で連載が開始されたが、単行本化は1992年、つまり日蓮正宗からの分離独立以後である。当然、分離独立に伴う教義・見解の変更を反映したものになっていることが予想される。
本来であれば、聖教新聞に連載された文章と単行本化されたもの、さらには第2版を比較すべきなのだろうが、現在の私は過去の『聖教新聞』を閲覧できる環境にない(どういう意図が働いているのかわからないが、過去の聖教新聞へのアクセスは、驚くほど限られている)。
そうである以上、第11巻以降の第1版・2版の比較検討は、どちらも日蓮正宗からの分離独立を経たものにならざるを得ない。

とはいえ、この取り組みも全く無駄であるとは考えていない。分離独立から20年間の間にも、創価学会は大きく変化をしてきた。その変化を描く事は、十分可能であると考えている。

終わりに

以上が、「読み比べ・『人間革命』新旧版」の序説である。
私は専門の研究者でもない、浅学の一会社員に過ぎないので、多くの問題が生じると思う。ご批判やご指摘等を随時いただきながら、進めていきたいと考えているので、遠慮なくご連絡いただければと思っている。
自説にこだわることなく、積極的に修正・加筆していきたい。

本連載の目次一覧は、下記をご覧くださいませ。

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